266. 混迷する現代と統一協会
【2022年8月28日配信】
親友ヨッチにささげる手記
-最期まで友情を信じて-
石川県河北郡津幡町
書店員 22歳 酒井 由記子
人は、どんな人と巡り合うか、どんな本
と出会うかによって人生が決まってくると、
ある作家が述べていたのをふと思い出す。
私にとってはまさにそうであった。出会っ
た人達も書物もとても大きな影響を残し、
忘れられない出来事となっていったのであ
る。
一、高校生の頃
今から六年前(1977年)、私は金沢
二水高校の二年生であった。いや二年生と
いうより吹奏楽部生というほうが適切であ
るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。
みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ
を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン
をして基礎固めをなして、全員そろって校
舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌
いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の
一致によって一つの音楽をつくり出すとい
う喜びを存分に味わった私の青春時代の真
っ盛りであった。ただ残念なことは、部活
動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ
ぱり力がはいらなかったことである。中学
生のときは、「進学校にはいるために」と
いうただそれだけの目的で受験勉強ができ
た。しかし、いざ高校にはいってみると、
また「いい大学にはいるために」と先生方
が口をすっぱくして押しまくる文句に素直
になれなかった。勉強する本当の意味が見
出せなかったのである。その頃から、私は
人間は何のために生きるのだろうかという
ことまで突っ込んで考えるようになってい
った。
父母が書店を経営しているため本は充分
にあり、書物を読むことによって答えを見
出そうとした。私の強い求めに応じるかの
ように一冊の本が転がり込んできた。クリ
スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ
っての風』という随筆集であった。聖書の
言葉がそこに登場しており、それはズシリ
と心に響いたのである。その本に魅せられ
て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい
った。しだいに私の魂は、人間をはるかに
越えた大いなる存在があることを感じてい
った。確信までは至らなかったけれども、
それらの本によって金沢のプロテスタント
の教会に足を運び、牧師さんのお話を聞く
ようにもなっていった。
週に一度は教会に通うようになったもの
の、様々な人間関係の渦の中で悩みは尽き
なかった。先生の授業の仕方に矛盾を感じ
たり、また、クラスメイトの他人に対して
無関心でありながら陰で悪口を言う姿勢に
むなしさを覚え、さらには自分自身の内面
の罪に苦しんだ。教会で話されるキリスト
の教えが戒めとなり慰めになりはしたが、
現実の問題を具体的にどう対処していった
らよいかわからなかった。
二、統一協会との出会い
その年の十二月一日のことである。師走
にはいり、金沢の片町の夕暮れ時は、車の
騒音と帰りを急ぐ人達でいちだんとせわし
ないものであった。私は部活動を終えてか
らの帰り道、行きかう人にぶつかりそうに
なりながら歩いていた。
「アンケートにお答えください。ちょっと
の時間でいいですからお願いします」
だれかから呼びとめられた。最初は避け
ようと思ったものの、その人のさわやかな
笑顔にひきずられて私は立ち止まった。そ
の時はまだ知るよしもなかった。これが、
後に自分の人生の軌道を思いもよらぬ方向
へと変えていった統一協会との出会いの始
まりであることに。
「今、幸せですか? どんなことに関心が
ありますか?」
と、質問してくる清純なその人は、金沢
大学の女学生であった。私は、真剣で生き
生きしている彼女の雰囲気に、しだいにの
み込まれていった。そして、この人は私の
持っていない「何か」を持っていると感じ
ていった。
この金大生は、その統一協会に属してい
て、『原理研究会』という別名のグループ
のもとで、大学で活動している女性であっ
た。私は次の日にそのお姉さんが誘う原理
研究会の寮『成愛寮』に行くことを約束し
た。
ところで、高校の同じクラスに、ヨッチ
という友人がいて、実は彼女も中学生の時
からその成愛寮に通っていて、前から私に
誘いの声をかけてくれていたのだった。不
思議な摂理めいたものを感じつつ、翌日、
興奮さめやらぬ思いでヨッチに案内しても
らった。
緊張している私に、そこの学生達は、優
しくて親切にしてくれるのであった。
その時の私は「人間を見る・把える」と
いう智慧が養われていなかった。それは、
その人の成長に従って身についてくるもの
であり、社会に生きていくうえで大切なこ
とである。勉学とは、人間の知性・知能を
伸ばし、精神を高め、心を豊かにしていく
うえで、基盤となるものなのであろう。未
熟であった当時の私は、人を表面的にしか
わからなかったのである。
やがて高校三年に進級し、ヨッチとまた
同じクラスになった。ところがその頃は、
親にも友人達にもその原理研究会に行くこ
とを反対され、ヨッチとつき合うことさえ
もいい顔をされなかった。私の通っていた
教会の牧師さんにも次のように教えられ、
反対もされた。
統一協会、その正式名称は『世界基督教
統一神霊協会』といい、文鮮明なる人物を
教祖として1954年5月1日に韓国ソウ
ル市にて発足した団体で、その創始者であ
る文氏は、元々は、金百文という韓国の「
イスラエル修道院派」を主宰する人物の弟
子であった。それは、別名血分け派とも呼
ばれる混淫派の一つで、聖なる意識のこも
ったセックスによって人を救う「精神神学」
なるものである。日本には1958年に西
川勝宣教師によって布教が開始され、19
59年に東京の渋谷に本部が創立された。
日本では、現在、二十六、七万人の信徒が
いるという。また、アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、南米、オーストラリアにまで及
んでいる。政治面では、『国際勝共連合』
という別名のもとに激しい反共活動を展開
している。この著しい発展の陰には、信徒
達の昼夜を問わない伝道、経済活動がある。
パンの耳をかじりながら、チリ紙交換や廃
品回収等の活動から始めていき、繁華街で
花束を売り、今日では、珍味、昆布、人参
茶から印鑑、大理石の壺、多宝塔など何十
万、何百万もする高額な商品の訪問販売に
広がり、その総収益は計りしれない。何千
組という信徒を教祖・文鮮明氏は、一挙に
組み合わせて幾日も経たないうちに合同結
婚式を挙行するという、世間の人々の目を
見張る動きまでしている。それらは世界中
に大きな波紋を呼んでいるという。
以上のようなことなどを、その牧師さん
から詳しく聞かされ、私は、愕然となって
しまった。そしてヨッチにこのことを正し
た。しかし、統一協会員である彼女は、少
しも動揺することなく、むしろ根気よく私
を説得してきたのである。
「私達の協会が血分けの思想の協会である
とか言われているのは知っているわ。でも、
それが本当であったら私はやめているわ。
お父様(文氏のこと)の目を見たら、そん
なことをする方かどうかがすぐわかるわよ。
また、政治運動のことだけど、この乱れた
社会を改善するには、宗教だけではもうで
きないの。科学、文化、政治などのあらゆ
る分野から取り組まなきゃならないのよ。
世間では色々と批判されているけど、それ
で判断するのではなく神様に聞いてみたら
いいのよ。由記ちゃんに教えてくれたその
牧師さんの言うことを信じるか、私の言っ
ていることを信じるか、これは難しいけど、
祈って神様に聞いてみてね」
「信じる」ということはどういうことで
あろうか。私はみんなの板ばさみになって
しまい、頭をかかえ込んでしまった。悩ん
だ末、取った結論は結局こうであった。今
は、いったいだれが正しいか、何が本当な
のかわからないから、容易に統一協会にも
はいるまい。これからよく勉強し、研究し
ていくうえで、それでも統一協会が正しい
と判断できたら、はいるのはその時でも遅
くはないであろう、と思ったのである。
三、友情というかけ橋
ところが思いに反して、私のそばには絶
えずヨッチがいたので、結局統一協会員で
ある彼女が、他のだれよりも親しくなって
いった。彼女の場合、先に母親のほうが入
信していたのである。父親も賛成しており、
いわば家族ぐるみで信仰を持っているので
あった。彼女としては、心から統一協会が
正しいと信じていたので、親友である私を
導かずにはおれなかったのであろう。
私にとって三年最後の思い出の吹奏楽コ
ンクールがあったが、それを見に来てくれ
たのも彼女。そして力一杯拍手してくれた
のも彼女であった。夏休みに、ただそんな
ヨッチの姿見たさ、顔見たさに雨の中彼女
の家まで自転車をこいでいった私。共に図
書館に通ったり、受験勉強の息抜きに海を
見に行き、小舟の陰でずっと水平線を見つ
めていたヨッチと私。しんしんと雪の降り
しきる夕闇の中を、肩を並べて下校してい
く私達。目を閉じればあの遠い高校3年生
の時のことがすぐに思い浮かぶ。彼女のひ
たむきな友情は、私を理屈なしに統一協会
へと導く大きな要因となっていった。
翌春、ヨッチは明治学院大学に、私は日
本大学に受かり、それぞれ東京へ、静岡の
三島へと新しい出発を踏み出していった。
親元から離れて、私は統一協会へ自由に
通うようになれた。全国大学原理研究会太
田会長の講演会をはじめ、埼玉県での修練
会、東京の秋川での内部修練会、品川の協
会に泊まり込みで原理を学び、講義練習、
駅前での路傍演説、パンフレット配り、夜
の訪問伝道……。私をこうまで駆り立てたの
は、あらゆる批判を乗り越えて立つ統一原
理の素晴らしさであった。私は、理路整然
として疑う余地のないと思われるような論
理に、最終的に圧倒されてしまった。
夏休みにはいると、ヨッチのほうは、原
理研究会の兄弟姉妹とキャラバンカーに乗
り込んで、東北の田舎へ「経済部隊」とし
て派遣されていった。カンカン照りの中、
町々村々をてくてくと歩き回り、物を売っ
て統一協会の資金にするのである。名目は、
「交通遺児のために」「ベトナム難民のた
めに」などの売口上をつくったり、あるい
は、「父はガンで死に、母は半身不随。こ
のままでは授業料も払えません」と土下座
する泣き落とし作戦もあり、また、手相・
人相を占い、「この印鑑を授かれば(買え
ば)、あなたの運は開かれますよ」と言っ
て、幸福を願う人の心を利用するやり方ま
で繰り広げられていく。
活動に邁進するきょうだい達は、何の罪
の意識も感じないのである。私も協会に深
くはいっていくうちに、いつのまにかそう
なってしまった。「国の法を守らなくても、
統一協会は真のキリスト教であるから神様
も許してくださるのです」とアベル(統一
協会用語で上司の人)の言う言葉に従順で
あることが、信仰的と見なされるのであっ
た。
四、家族との衝突
夏休みの後半、琵琶湖のほとりで開かれ
る二十一日間の修練会に参加する直前に郷
里へ帰省した時に、とうとう、それまでひ
た隠しにしてきたことすべてが、家族に知
られてしまった。そして、激しい衝突とな
ってしまった。親戚の人達も友人達も大反
対をし、次々に私を説得に来るのである。
「地上天国の実現なんて、正気で信じてい
るの? 親、友達を心配させておいて世界
を平和にすることなんてできるはずがない。
周りの人を不幸にしてそれが宗教なの?
政治と結びつくのもおかしいわよ。集団結
婚なんてする気? 考えただけでゾッとす
るわ」「宗教はアヘンと同じだ。これは隔
離しなくちゃいかん。精神病院へ入れてし
まえ」「由記ちゃんの目、さかなの死んだ
目じゃないか!」「かわいそうに、やっか
いな病にかかって」
だれに何と言われても、かえって ”この
人達を救うためにも統一協会で活動しなけ
ればならない” と使命に燃えるのである。
「お願いします。修練会にいかせて!」
頼むたびに、父と母は、「どうしてわか
らないのか!」とまゆをつり上げて、私の
ほおをたたき、蹴とばしてくるのである。
悲鳴が近所に聞こえないようにと家中の窓
を締め切ってから、父は平手打ちをしてく
る。母は、「あんたを殺して、私も死ぬ」
と泣きわめく。なぐられた翌日は、あざが
からだ中に残ってしまう。
親は大学も休学にさせ、徹底的に私にわ
からせようとした。父は、「おまえを統一
協会から救うためには、全財産を使ってで
もやっていくぞ。おまえだけでなく、たく
さんの子供達も助けてみせる。いざとなっ
たら文鮮明にも会いにいくぞ」とまで言っ
た。
店の従業員の人達にも恥をさらけ出して、
「娘を悟らせるために当分仕事のほうは身
がはいらなくなるが申し訳ない。みんなに
も協力してほしい」と、お願いしたという。
私の友人宅にも両親はふたりででかけて
行き、「もし、うちの娘が伝道しに来ても
誘われないでください。そして、お金を貸
してほしいと頼みに来ても、一切断わって
ください」と予防線を張ったのであった。
そして大事な原理の書物も、文氏の写真
も、統一協会のきょうだい達からの手紙も
すべて取りあげられてしまった。監禁状態
の中で、窓の外でしきりに鳴くひぐらしの
声が、私に秋の訪れを告げてくれた。幾日、
幾週間が過ぎても状況は少しも変化しなか
った。腰の丸くなった祖母と受験を控えた
中学生の妹の心配そうな目は、声に出さず
とも、「お姉ちゃん、早くわかって!」と
叫んでいた。
行き場のない思いに耐えかねて、家出を
計画して東京の統一協会をめざして夜汽車
に揺られて行ったこともあった。保護して
くれた統一協会の兄弟姉妹達は、私の後を
追ってすぐに飛行機で迎えに来た父と叔父
に、「酒井さんは来ていませんよ。琵琶湖
の修練所のほうに行ったんじゃないですか」
とウソを言って、かくまってくれた。それ
を信じるしかなかった父達は、すぐそばに
私がいるのも知らないで羽田から小松空港
にもどり、そこから車を走らせて滋賀県に
まで行った。何としても子供を間違った宗
教から救い出したい一念であった。このま
まだと大変な結末を迎えることになるとい
う認識が、父はだれよりも強かったのであ
る。
3日ばかりして私は自分から家に帰って
行った。親を理解させたうえでなければよ
くないと反省したからであった。しかし、
事は容易に運ばなかった。戦いの日々が続
いた。絶えず、親、従業員の人達の監視の
中で、店の手伝いをして精一杯働いた。外
に出ることは一切禁じられて、小遣銭も与
えられない。地上を歩けない私は、こっそ
り屋根に上り、頭上に広がった青空に向か
って聖歌を歌い祈ったりしたのであった。
アメリカにいる文先生夫妻に、
「真のお父様、お母様、どうか私の家族が
原理を賛成してくれますように」
と切に祈った。何ヶ月もの間、そこから
見おろす夕焼けが私にとって唯一の友であ
った。
父は、夜遅くまで本を調べ、宗教書を何
十冊もこれまでになく研究していった。そ
して腰を低くして色々な人のところに相談
に行き、アドバイスをいただいたりしてい
た。
「どうしてカンパ活動がいけないのや。神
様のためであれば許されるのや」
と、私がわけのわからないことを言えば、
倒れるくらいにほおをたたいてきた。顔が
はれるくらいに痛かったが、父の手も同じ
痛みを覚えていることはわかっていた。
統一協会にはいったために善悪の判断が
できなくなった私を正常に戻そうという一
貫した姿勢を、父は決して崩さなかった。
厳しいだけの父かと思ったら、私が三島か
ら品川の統一協会までキセル(不正乗車)
をして往復していたことを知った時、父は
頭をたれて、膝の上の置かれた握りこぶし
の上に涙をポタポタと落とすのであった。
それを見て、そんなに父が泣くほど大変な
ことなのかと驚いたものであった。初めて
出会った父の姿から、これは私のしている
ことは統一協会の中で許されても、社会か
らは絶対に許されるものでないことを教え
られた。
いつ再び家出するかわからない私に不安
を抱いて、夜中じゅう、冷たい廊下にゴザ
を敷いて私に悟られないように見張りを続
けていたという母。人知れず肩を震わせて
こぼしていた母の涙は、父と同じく本物の
愛であった。私はしだいに自分の親にはか
なわないと思っていった。いったん信念を
持ったら最後までくつがえさない父の姿勢
に、私は「ガンコもの」とつぶやきながら
も、たちうちできないものを感じざるをえ
なかった。「信用」「信頼」をモットーに
している親に、原理の教えは通じないもの
であることがわかっていった。そして、自
分は原理を受け入れることができたが、こ
の親に納得してもらうことはおろか、黙認
してもらうことも到底できないのだと心の
奥でよくわかっていた。
でも、「ガンコもの」の親に似て私も「
意地っぱり」であった。最後の一線だけは
どうしても譲れなかった。6千年間にわた
る神様の摂理、歴史的同時性を含めて霊の
世界の存在を説く統一協会の教えが、全く
でたらめとは思えなかった。文氏の生い立
ち、六十歳に至るまでの苦難の路程、統一
協会の活躍ぶり、兄弟姉妹達の真摯な姿な
ども否定することは無理であった。
五、一つの選択
父と母は、ワラをもつかむ思いで東京の
ある牧師さんにすがりついていった。その
方は、当時、セブンスデー・アドベンチス
ト教会の四谷教会と墨東集会所を掛け持ち
で牧していらした和賀真也牧師であった。
この牧師さんは、何年も前から統一協会の
ことを知り、キリスト教とは似ても似つか
ぬ偽りで固めた教えーその結果、全国にお
いてあまりに犠牲者が多く生まれているこ
とに心を痛め、身を乗り出していかれた方
であった。
和賀牧師は、統一協会員達の持っている、
そのバイタリティー、献身、勇気、親切な
どを美しい価値あるものと見なし、真珠の
ような青年達の魂を心から愛し、単なる反
対・糾弾ではなく、その核となっている教
えの真偽を問い、会員たちを救出しておら
れるのである。そうした信念の行動の中か
ら、『統一協会ーその行動と論理』と題し
た書物まで書いておられた。
父の取り図らいによって、一九七九年十
一月六日の夕方四時に、津幡町のわが家の
二階において、その方と初めて出会うこと
になったのである。私の心境を深く受けと
めて柔和に話される和賀先生の態度に、い
つの間にか、こわばっていた私の筋肉がス
ーッとほぐされていくのであった。共にい
らしたTさん(男性)も、会ったこともな
い見ず知らずの私のことが他人事とは思え
ない様子で、私に語りかけてくださった。
Tさんは、なんと七年間も統一協会で献身
し、アメリカに在住している文氏のもとで
生活されたこともある方であった。そうい
う方まで統一協会をやめていること、また、
和賀先生の提示される多くの統一協会の隠
された資料も、無視できないものばかりで
あった。
「由記子さん。あなたの人生は、ご自分で
選択なさることです。ただ一つだけ言って
おきたいのは、真実を見るということを避
けるのは、真理を探求する姿勢ではないと
思います。信仰は聞くことから始まります。
どんなにつらくても事実を事実として受け
とめることが大切だと思います」
和賀先生の語る言葉には、落ち着いた響
きがあった。私は迷わず、東京に一緒に行
って確かめてみようと決心をした。この時、
この選択を取らなかったならば、今頃私は、
全く別の人生を歩んでいたことであろう。
東京の原宿にあった、和賀先生のご家庭
にお世話になりながら、約二週間の学びを
深めていくうちに大事なことに気づかされ
ていった。原理の教えと聖書との間に大き
な食い違いがあることを目のあたりに示さ
れ、多くのきょうだい達がそれに気づいて
脱会していった事実。しかも彼らがしっか
りと生き、かつ働いていること。さらに驚
くべき秘密の儀式のことなどを示す生の資
料を見た時、ただ絶句するばかりであった。
大きな衝撃であった。不安定な心理状態の
日々の中で、自分の手で聖書を開き、自分
の目で聖句を追い、自分の頭で一つ一つを
確かめていくうちに、最後には、統一協会
をやめるという堅い決心をついに下したの
である。自分の過ちを認めることの何と苦
しかったこと。しかし、「聖書との本当の
出会い」が、ここにあったのである。
両親の前で心から謝った時、「わかって
くれれば、それでいいんや」と、静かに語
った父の言葉は、今も忘れることができな
い。こんなにも親を苦しめてきた私を許し
てくれたーそれは、親の寛容さであり、大
きな愛であった。
六、エクレシア会誕生
勇気と使命と真実に生まれ変わった思い
で、今度は、私は、友の救出のために全身
全霊を傾けるようになっていった。そんな
歩みの中でも特に、脱会する時に新たに知
った統一協会の素顔は、今でも克明に私の
記憶に刻みつけられていて、決して消えな
い。
統一協会の人達は、泣いてすがりつく私
とヨッチを、否応なしに引き離したのであ
った。このヨッチとの別離は、私にとって、
自分のからだの一部をもぎとられたような
深い傷となってずっと心に残っている。
私は、自分の体験が単に個人的な体験と
して終わってはいけないと思えてならなか
った。ましてや、今も原理を正しいと純粋
に信じて、汗を流し、寒さにこごえながら、
嘲笑、罵声の中で黙々と歩んで活動してい
る友のことを思うと、胸がしめつけられそ
うになる。どうして放っておけようか。父
と母が最後まであきらめずに私を愛しぬい
たように、私も友に対して真実でありたい。
私は、ただひたすらペンを執り続けた。
自らもキリスト者となり、東京で和賀先生
のお手伝いをし、『統一協会ーその行動と
論理』に続く二冊目の本を生み出すため、
共に不自由な環境の中で、辛抱強く自分の
これまでの体験を書き続けていった。
冷たいからっ風に吹かれながら、代々木
公園のベンチで書き、揺れる電車の中でも
時間を惜しんでペンを走らせた。「書く」
ということは、孤独で、しかも忍耐を要す
る作業であった。手が冷たくなると、共に
静かにただペンを走らせていた和賀先生と、
フリスビーを飛ばしたり、先生の幼いお子
さん達と走ったりするのがストーブ替わり
であった。からだが暖まるとまたペンを握
りしめる。ヨッチとの別れ、統一協会との
訣別で、公園にポツンと葉をすっかり落と
して立っている木のような私にとって、東
京の雪のない冬は、北陸の美しい冬よりも
寒々と感じられた。
「くたびれたね」
「そうですね」
夕陽の傾いた頃、自転車に原稿用紙を積
んで帰る時、そうひとこと言うだけでわか
り合えるものがあった。無邪気な子供達と
手を引く和賀先生の姿は、私の心を少しず
つなごませていった。春は手を伸ばせば、
すぐそこにあった。
そして、一年後の一九八一年一月十五日
に、私達の長い苦労の末、『統一協会と文
鮮明ー 青年達の心理を探る』(新教出版
社発行)という本になって出版された。ペ
ンの足跡は、人生の足跡となるのである。
十八歳から十九歳にかけての人生を濃縮し
たような生き方は、私の生涯のひとくぎり
になっていった。
その後、統一協会脱会者数名の提案によ
って『エクレシア会』という会を結成して
いった。この会は、現実あった実際的な経
験を基に、聖書の真理に目覚め、真のキリ
ストを信じた者として、誤りの中にある人
々を救出し、聖書に堅く立った信仰を伝え
ることを目的としている。
私達は、文鮮明氏ではなく、自分達を迎
えてくれた真の救い主、イエス・キリスト
を元の仲間達に伝えたいと思い、会報の発
行、定例会の集い、学びと慰めの場を一つ
ずつつくっていった。そして、もう三年も
流れた。現在、定例会は、三十六回目を開
き、数名であった会員は、七百名に達して
いる。『エクレシア会を支える会』も発足
し、この世話人会の中には私の尊敬する作
家、あの三浦綾子さんまでも名を連ねて、
励ましのお言葉を送ってくださっている。
連日、エクレシア会には全国各地から相
談依頼の電話、訪問が相次ぎ、本の反響が
大きくなる一方である。多くの依頼の中で
本人との出会いが可能となりそうな場合、
その時を好機として生かすよう全力で対応
していく。各地を飛行機で飛び、新幹線で
走り、巡りに巡った。その結果展開された
ひとりひとりの劇的な改心に導かれていく
様は、貴重なドラマであり、奇蹟であると
いってもよい。
なかでも、かつて私のいた品川の協会で
歩んでいた兄弟が、イエス・キリストを信
ずるひとりとして救出されていった出来事
は、感動もひとしおであった。この活動に
携わった私達は、この世に生きて働いてお
られる神様を痛切に実感させられていった。
この歩みの中で出会っていった人は数限
りない。救出された人が、次々とまた他の
人を救っていく。これらのことが、私の心
の中で、あの高校時代の音楽よりも美しく
高らかに鳴り響いている。
統一協会をやめる人も多いけれども、い
まだにはいる人も決して少なくない。それ
は、現代の世相を反映している結果だと思
えてならない。この北陸の地においても、
統一協会の青年達が、一途に活動を続けて
いる。この問題はまだ終わっていないので
ある。
親友ヨッチとは数年間ずっと会えない状
態が続いたが、今年の三月に、突然彼女か
ら電話があった。私は弾むような喜びとな
つかしさで胸をいっぱいにして彼女と会っ
た。だが実は、彼女は統一協会の上司の人
を連れて来て、私を再び統一協会へ戻そう
としたのであった。
私は、ヨッチとふたりだけで、高校時代
のように何でも自由に思う存分語り合いた
かった。その思いは、今も決して変わらな
い。ヨッチと別れた後、私は残念な思いに
耐えきれず、涙もふかずに泣きながら、家
へ帰った。友情の壊されるのは何と悲しい
ことだろうか。何とやりきれないことだろ
うか。
しかし、いつかヨッチが私の隣にすわり、
天へ続く階段のようなメロディを、一緒に
奏でる日が必ず訪れることを信じている。
真実のもののみがこの世に残るのである。
人の魂を変えるのは、本物の愛のみである。
小社発行・『北陸の燈』創刊号より
〈小社推薦図書〉
和賀真也(編)著
『統一協会と文鮮明-青年達の心理を探る』
(1981、新教出版社)
『統一協会-その行動と論理』
(1978、新教出版社)
茶本繁正著
『原理運動の研究』
(1977、晩聲社ルポルタージュ叢書)
有田芳生著
『統一教会とは何か-追いこまれた原理運動』
(1992、教育史料出版会)
〈参考〉
2022.8.9 アエラ
〈後記〉
上の記事は、当講座 NO.31とNO.32の記事を
再掲したものです。
なお、金沢市の会場で行なった小社主催の「
現代の声」講座で、和賀真也さんには3回、
伊藤正孝さんには7回、統一協会問題等につ
いて提言していただきました。おふたり同時
に招いて提言していただいたこともあります。
〈追記〉
2022 年 8月10日に、日本外国特派員協会で
田中富弘・統一協会会長が記者会見をしたが、
これはいったいどういう意味の会見なのだろ
うか。会の進め方がおかしいし、司会や特派
員の質問がゆるすぎる。せっかく会長を登壇
させたのだから、的を得た本質をつく質問が
あってしかるべきだ。これでは特派員協会と
いう「場所」での会見の意味はない。ジャー
ナリズムが感じられない。
そんな中でも、田中氏の発言の中で私が注目
したのは、日本や世界の「共産主義」と対峙
するために統一協会が活動しているというく
だりだ。田中氏の話を聞いていると、同会の
教義内容は創価学会とかわらない、また、既
存の神道やキリスト教、仏教教団ともかわり
ばえしないものだということだ。日本の各政
党やマスコミの主張・論調、企業倫理ともか
わらない。
田中氏の語る共産主義とは、全体主義やファ
シズムといってもよい。これを否定し、同会
は世界連邦主義(ワンワールド)をめざすと
言っているにすぎない。
しかしながら、よく考えてみると、世界連邦
主義の内実は、全体主義・ファシズムであり、
個人の自由を否定するものであり、田中氏の
語る共産主義と言ってもよいものである。そ
こには、この世の中をより良くしたいとか、
この世に生きる人々の幸福を願うという心底
からの思いもない。思想の謙虚さもない。人
間の自然な感情の発露も許されない。
ということは、同会は共産主義を否定し、こ
れとたたかいながら、共産主義をおしひろめ
ているという矛盾をかかげる主張をし、かつ
行なっているのである。つまり、統一協会の
目指すところは共産主義の世界ということに
なる。
京都学派の創始者・西田幾多郎は、絶対矛盾
の自己同一なる世界を唱えたが、統一協会は、
ひょっとして西田哲学の影響を受けているの
かもしれない。 (編集人)
2022.10.16 読売新聞
「解散権の行使を視野へ」では
2022.10.24 神戸新聞
事件から100日目に田中会長が行った「驚愕説教」
統一協会と富山政界、選挙応援で接近癒着
当講座記事NO.326から
日本海側の原発の現況が気になります。
当講座記事 NO.296と 297で珠洲原発
のことに言及しましたが、珠洲原発が
建設されていたらこの地震で日本列島
と朝鮮半島には人が住めなくなってい
たのではないでしょうか。珠洲原発を
絶対に安全だと主張して推進していた
関西電力、中部電力、経産省、政府は
謝罪声明を出すべきだと思います。
震災被災者の避難先に上記写真のように
ビニールハウスが何箇所かありました。
ここは個人や隣近所で自主的に避難した
場所だと思います。ビニールハウスは、
地震に強いのではないでしょうか。
また、私は高校時代、山岳部で部活動を
していたのでその経験からすれば、冬用
テント、ツエルト、シュラフ、ヤッケ、
ポンチョ、コッフェル、ラジウスなどの
山岳装備をキスリングに入れておき、か
つ、テントの張り方、炊事の仕方を日頃
から練習し、いつでも野営に備えていた
らいいのではないかと思いました。
もっともこれらに相当する準備は、国、
県、市町村の首長や各議員が、常日頃か
ら個人の人権とプライバシーに心配りを
したうえで、率先してしなければならな
い極めて重要な政治の仕事であると思い
ます。特に今現在おこっている震災は、
何年も前から充分に予測できたことだけ
に、最低でも上記の準備だけはできたは
ずです。「残念」とか「遺憾」といった
言葉では済まされない問題です。
特に今、被災者に緊急に求められている
のは被災者全員を救うための、相当数の
戦場用のトイレ、風呂、水場、暖房・防
寒具、非常食の設置と供給である。
なかでもトイレは、応急用の処置として
工事現場用のものをかたっぱしから設置
したらいかがだろうか。
また、上記の山岳用具(冬用登山靴・手
袋も)をドイツ等から緊急に支給、援助
してもらったらどうだろうか。
被災住民を率先して助けるべき責任ある
現地の首長や議員らが、他県の首長らに
「助けてくれ」と言っているようでは話
にならない。(2023.1.3 当講座編集人)
珠洲原子力発電所
動画『海外の避難所 -最新情報』榛沢和彦さん.2018
2024.1.13 北國新聞
震災被災者の希望者全員が手厚く快適に生活
できる相当数の大型客船を日本政府が責任を
もって緊急に手配すべきだ。馳知事の元にも
義捐金がたくさん集まっているとの報道あり。
松本・小沢お笑い雲隠れ事件になってきた
吉本興業・ホリプロは説明謝罪会見を開け
「あんなもん芸の肥やしちゃうで」春団治
三吉も怒っている
2024.1.17 佐藤章さん
松本VIPおよび吉本興業、提訴前に敗訴決定。
吉本=自民党、松本VIP=シンキロー大親分、
女衒小沢ら=バーベキュー筆頭若頭ら五人衆、
女性虐待=裏金上納、すなわち芸能界=政界
という反社の構図・構造=これが今の日本国。
清和会解散 岸田の執念実る
逮捕見送りと引き換え、検察と取り引きとみる。
岸田首相の功績、いよいよ自民解体へ、日本の
政治を牛耳ってきた麻生太郎への挑戦でもある。
ようやく日本に国民世論の出番が近づいてきた。
「あのへの字のヒョットコにもオレの
本当の怖ろしさを見せつけてやるぞ。
衆院の解散もオレの手でやってやる」
「震災にももっと力を注いでください」
岸田首相と小沢一郎の話し合いが今求められる。
林眞琴元検事総長も加えて。バックにトランプ。
2024.1.20 佐藤章さん
論理的思考により自分の頭で考えることが大切
今田耕司は篠原涼子へのセクハラ劇を説明せよ
2024.1.20 長谷川良品さん
志らく大御所はやっぱり語るに落ちた
恰好悪い落伍家だった、百済ない遠吠
2024.1.22 朝日新聞
珠洲原発を止めて「本当によかった」
2024.1.23吉本興業、ようやく事の重大さに気づいたようだ
連座制の導入なし、現代的人事システム導入なし
与野党政治家の政治資金管理団体を法人化にせよ
2024.1.25 kyouseiさん、机上の空論を捨てる時
2024.1.26 kyouseiさん、発火と配線理論で進む
2024.1.26 長谷川良品さん
詭弁レトリック、第一声明と矛盾する第ニ声明
第一声明を謙虚に謝罪しなければ「誤解を招く」
2024.1.26 佐藤章さん
日本文学私小説、坂口安吾、太宰治にも言及
「海を取られた」途方に ... - YouTube
2024.2.11 長谷川良品さん
的を得た長谷川さんの弁
「お笑い」は「かっこいいもの」でない
「お笑い」に「かっこよさ」を求めない
2024.2.12 佐藤章さん、特ダネ
安倍晋三、二階俊博衆議の公職選挙法違反実例
創価学会、統一協会、幸福の科学の手口と同じ
壊し屋小沢一郎にもいよいよ命がけ最終好機到来
盛山正仁文科相の裏切りに統一協会が焦る一幕も
ただちに下村翁の身辺警護が必要となってきた。
下村翁が命がけの勝負に。これで下村翁政倫審
出席の有無にかかわらず大親分、舎弟五人衆の
命運は尽きる。思わぬ下村翁の復讐劇であった。
イランのライシ大統領がヘリ墜落で死亡
幸徳秋水『基督抹殺論』(岩波文庫、1954)の
「跋文」を田岡嶺雲が執筆
「義を見てせざるは勇無きなり」論語為政第二24
子曰「非其鬼而祭之、諂也。見義不為、無勇也」
義が貴い人道であることを知りながら、これを
実行しないのは勇気がないものである。
(岩波広辞苑)
人としてなすべき正義を見知りながら、なそう
としないのは真の勇気がない意気地なしである。
(大修館新版漢語林)
当然なすべきことであるということを知ってい
ながら、これをしないのは勇気がないのである。
(角川漢和中辞典)
悪を知りつつ善と正を行なう意はありやなしや。
(小社)
田岡嶺雲 高知県高知市出身
宮武外骨 香川県綾歌郡綾川町出身
桐生悠々 石川県金沢市出身
2024.6.6 鹿児島讀賣テレビ