”金沢・小説の舞台”と私
【2021年1月22日配信 NO.111】
若林 忠司
金沢は ”明治の三文豪” といわれる泉鏡花、
徳田秋声、室生犀星など、多くの作家を排出
し、文学の町、文学者に愛される町である。
金沢を舞台とした作品は多い。作品につい
て解説した本に、『金沢文学散歩』(毎日新
聞社・1978年)、『北陸・名作の舞台』(北國
新聞社・1991年)、『金沢を描いた作家たち』
(北國新聞社・2011年)などがある。
文学探訪を楽しむ気持ちで、これらをガイ
ドブックとして作品の舞台となった場所を訪
ねた。
作品の舞台はすでに長年の歳月が流れ、現
在の光景とは異なるところもあるが、著者の
見た当時の金沢の街と人、その時代の背景が
描かれている。
ここでは五木寛之 (『蒼ざめた馬を見よ』
で1966年度直木賞を受賞)、 唯川恵(『肩
ごしの恋人』 で2001年度直木賞を受賞)、
古井由吉(『杳子』で1970年度芥川賞を受賞)
の三人の作家が、金沢を舞台とした小説の場
所を訪れる。
唯川氏は金沢生まれ、五木氏、古井氏は金
沢にゆかりのある作家として、広く知られた
作家である。いずれの作品も小説の舞台はわ
が家の近くにあり、これまでよく通り過ぎた
場所である。実際の舞台を訪れてみることで、
作品の理解が深まり、著者への親しみが湧い
てくる。
一. 五木 寛之
『小立野刑務所裏』
アパートを初めて知ったのは、坂めぐりで
鶴間坂へ向かうときのことであった。
小立野五丁目にある如来寺、経王寺を通り
過ぎ右折。左手に金沢大学鶴間キャンパスや
金沢美術工芸大学の建物が見える。かつて刑
務所が建っていたところである。現在、金大
鶴間キャンパスには医薬保健学域関連の建物
が建っている。
まっすぐ三〇〇メートルほど進むと、坂の
すぐ手前に二棟のアパートが建っていた。こ
のアパートに五木寛之氏が住んでいたことを
知る。
『五木寛之小説全集・第三十六巻』 (講談
社、1981年) に収録されている『小立野刑務
所裏』(229~239頁)に、
そして私は、その刑務所の真裏のアパー
トの一室で、金沢での最初の生活をはじめ
ることになるのである。そのアパートは、
東山荘といった。二階の一番端の部屋に私
たちは住んだ。
と個人的な生活が描かれている。
五木氏が東山荘に住んでいたとき、《石引
温泉亀の湯》によく通ったこと、地元の人た
ちが濁って「ガメ湯」と呼んでいたことが私
の関心を引いた。
小説の舞台になった石引温泉は、わが家か
ら車で十分ほどのところにある。銭湯好きの
私もよく利用している温泉である。小説の中
にも登場した銭湯。いっそう親しみが増した。
市内の喫茶店によく立ち寄った五木氏。名
前を名乗ってツケにして帰る店があったとい
う。ためしてみようと思い、店の子と交わし
た対話(236頁)が記されている。
「小立野の五木やけどね」
「このコーヒー、ツケといてくれんか」
「イツキさん? どこのイツキさんや」
「小立野のどのへん?」
「五丁目。東山荘というアパートや」
「刑務所のすぐ裏やね。東山荘、イツキさ
ん、と。あ、わかった。五の木と書くんや
ろ」
「そう」
「はい、承知しました」
「刑務所裏の五木さんやて」
と、二人が話している場面が浮かんでくる
ようである。
五木氏は、金沢に一九六五年から一九六九
年まで居住。期間は短いが、金沢市民として
地域社会に溶け込んでいたことをうかがうこ
とができる。
『石川近代文学全集10』(石川近代文学館・
1987年) の最初のページに入っている口絵写
真に、五木氏が東山荘に住んでいた三十三歳
の一九六六年四月、塀が写っている金沢刑務
所横を歩く写真が載っていた。私自身、長年
金沢に住んでいながら、刑務所があった近辺
は訪れた記憶がなかった。
園崎善一著『小立野校下の歴史』(2001年)
によると、刑務所は明治四十年(1907年) に
建設される。昭和四十年代以降は小立野台地
の東方に新興住宅が建ち並ぶようになったこ
とや、金沢都市計画もあって、昭和四十五年
(1970年)、直線距離で約二キロ離れた田上に
移転する。私が大学を卒業した三年後のこと
であった。
二〇一九年九月二十一日(土曜日) 、金沢刑
務所で、「矯正展」が開催され、多くの人が
訪れていた。私自身は今回で三回目の参加で
あったが、これまで内部の見学で受刑者の「
作業所」「浴場」「体育館」などを垣間見る
ことができた。
「展示室」で旧金沢監獄の写真や解説から
刑務所の歴史と変遷を知ることができた。こ
れもこの小説と出会った縁によるものである。
そんな思いを抱いて刑務所をあとにした。
東山荘
二.唯川 恵
(1)『青春クロスピア』
コーヒーで小休憩。
その後いつものように ”むさしクロスピア
広場” へ向かう。「めいてつ・エムザ」の地
下一階の食料品店街から近江町市場への行き
帰りに通ることが多い。
地下道は「めいてつ・エムザ口方面」「安
江町・金沢駅方面」「袋町・尾張町方面」「
近江町市場方面」の四辺を結んでいる。
近江町方面の通路にガラスショーケースが
ある。「高砂大学校同窓会」の会員のひとた
ちの絵画、書道、写真などが展示されていて、
通行人の目を楽しませてくれる。
作家・唯川恵氏の処女長編作である『青春
クロスピア』 (集英社コバルト文庫・1985年)
のタイトルに ”クロスピア” の言葉が使われ
ている。
当時、金沢に住んでいた著者は、あとがき
で「タイトルのクロスピアはクロス(交差す
る)とユートピア(理想郷)をくっつけた造
語である」と述べている。
前掲書『金沢を描いた作家たち』で蔀際子
さんが、『青春クロスピア』に出てくる ”武
蔵が辻クロスピア” についてわかりやすく説
明していて参考になる。
この(旧)地下道は、唯川氏が二十二歳の
昭和五十二年 (1977年) 四月一日に完成。 今
から四十四年ほど前のことである。『青春ク
ロスピア』が出版されたのは、地下道が完成
した八年後のことである。
”クロスピア”の出入口が全部で九か所ある
ことを初めて知る。買い物のときに毎日のよ
うに通っているのだが、そんなことに気づく
ことなく、早足で通り過ぎていた。
あらためて未知の場所を探検するように、
階段を昇り降りする。三台のエレベーターに
も乗って、九か所の出入口を確認する。あっ
ちこっちと、徘徊老人のようである。自分で
も可笑しな行動であった。
多くの横文字(カタカナ語)や造語で悩ま
される現在、 ”クロスピア” は、 私の記憶に
深く刻まれる言葉となった。
(2)『川面を滑る風』
常盤橋に着く。
浅野川にかかる橋で、わが家からもっとも
近い橋である。卯辰山から常盤町、横山町、
材木町へと市内中心部を結ぶ橋である。
現在の橋は、昭和四十七年 (1972年) に完
成。長さ五十一メートル、幅員六・五メート
ル、緩やかな放物線 (縦断勾配3%)を描く優
美な橋で、両側の欄干の柱は、それぞれ十四
の擬宝珠(ぎぼし)で飾られている。
卯辰山に向かって橋を渡ると、右手にごり
料理で知られる料亭 ”ごりや”がある。卯辰山
の森が近くまで迫っている。山と川に囲まれ
た”ごりや”。 常盤橋、清流、木々の緑に溶け
込み、一枚の風景画を切り取ることができる。
昨年(2020年)六月下旬、常盤橋を渡ると、
”ごりや”の建物は解体中であった。周辺の情
緒あふれる景観が失われつつあった。七月八
日の北國新聞が、老舗ごりや解体を伝えてい
た。
唯川氏の小説『川面を滑る風』(『病む月』
所収・集英社・1998年) に、常盤橋周辺と浅
野川について、
乃里子の実家は、浅野川にかかる常盤橋
にほどちかい場所にある。かつては梅雨や
台風の雨で増水し、ここら一帯を水浸しに
したこともある浅野川だが、護岸工事が行
き届いた現在は、そんなことはほとんどな
い。
と、川の変貌を綴っている。
唯川氏は、常盤橋近くの桜町に生まれる。
実家の前は散歩で何度か通ったことがある。
私自身も三十歳のころ、数年桜町に住んだこ
とがあり、唯川氏と氏の作品に親近感を抱い
た。町並みの風景について、
常盤橋周辺は昔ながらの町並みを残して
いる。建て替えた家もあるのだが、相変わ
らず、黒々とした瓦が軒先をすり寄せるよ
うにして犇めき合っている、という印象は、
あの頃と少しも変わらない。
と述べている。
民家の黒い屋根瓦が太陽の光で輝く。桜町
で過ごした当時のわが家の生活が思い出され
る。これまで小説の舞台だとは知らずに通り
過ぎていた。
常盤橋で歩みを止める。子どものころ、橋
のところで泳いだ思い出の場所でもあり、何
か懐かしい場所に帰ってきたように感じた。
ふと下流の天神橋と左岸の町並みの風景に
目を移した。
常盤橋
三.古井由吉
『雪の下の蟹』
浅野川近辺が舞台である。
にぎやかな橋場町の大通りと比べて、数年
前までは、狭い横小路の下町の趣のある一帯
であった。
現地に足を運んでみないと分からないこと
も多い。ひっそりとした場所で、ここが舞台
であったのか、という思いをもった。
古井先生。足掛け三年の金沢での生活であ
った。先生は大学でドイツ語を教えていた。
私は第二外国語としてドイツ語を履修したが、
今はすっかり忘れてしまった。英語と比べて
何と複雑で難しい外国語だろうと思った。
今から五十八年前の昭和三十八年(1963年)
一月末。一八一センチの史上に残る大雪に、
暮らしは完全に麻痺する。
家も道も雪で埋め尽くされ、 ”三八豪雪”と
呼ばれる。金沢においては、特別な意味を帯
びた言葉となり、記憶にも記録にも残り、語
り継がれている。雪との闘いの毎日であった
ことが思い出される。
そのときの体験をもとに『雪の下の蟹』の
小説が生まれる。この作品について、「豪雪
が生んだユニークな小説」と『北陸近代文学
の舞台を旅して』 (北國新聞社・2112年)に
紹介されている。
『雪の下の蟹・男たちの円居』(講談社文
芸文庫・1988年) に次のように描かれている。
表へ出ると、昨日の雪かきに荒らされた
路はもう新雪に柔らかくおおわれ、家々の
軒先に積まれた古い雪の山も白い被いをか
けられて、その被いの裾がなだらかな線を
描いて路上の雪につらなっていた。バスは
不通になっていた。
交通マヒ、日常生活への大きな支障が生じ
雪で埋まった道。まさに雪との闘いであった
ことが鮮明によみがえってくる。
ある日、所用で先生が下宿していた《中村
印房》近くへ行った。印房は、わが家から歩
いて十五分ほどの浅野川近辺の小鳥屋橋筋の
狭い小路に建っていた。橋場町の大通りの賑
やかさに比べて、下町の雰囲気が漂う通りで
あった。現在、印房はすでになくなっていて、
跡地にはマンションが建っていた。
学生時代、講義で先生に質問することもな
く、また学内で出会っても言葉を交わしたこ
とがなかったように思う。昨年(2020年)二月、
先生が亡くなられたことを新聞が伝えていた。
先生の姿を思い出し、グーテンタークと呟
いた。
小鳥屋橋筋通り
〈参考〉
写真は筆者撮影。
当講座NO.104と105にも
若林忠司さんの記事掲載。