五劫の間
【2020年10月1日配信 NO.34】
石川県金沢市
幸圓寺住職 幸村 明
『歎異抄』は、この書物を書かねばならな
いわけを述べた前序と、著者が、師として仰
いでおられる親鸞聖人から直接教えられた教
えと、それに異なっている問題とを合わした
十八章、そして著者の心境を語る後序とがあ
る。その後序の中の一節を紹介しよう。
聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫
思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに
親鸞一人がためなりけり。されば、そく
ばくの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のか
たじけなさよ」と御述懐そうらいしこと
を、いままた案ずるに、善導の、「自身
はこれ現に罪悪生死(しょうじ)の凡夫、
曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つね
に流転して、出離の縁あることなき身と
しれ」という金言に、すこしもたがわせ
おわしまさず。
五劫とは
全体の意味は筆者にはまだ充分にいい尽く
すこともできないのでお許しください。さて
弥陀というのは阿弥陀如来のことである。五
劫というのは。永田久著『暦と占いの科学』
(新潮社発行)から一部を抜粋します。
「古代インドの距離をはかる単位に《由旬》
というのがある。牛車で一日の行程(約一四、
四キロ)をいうのだが、一辺の長さが一由旬
の立方体をした城砦に芥子粒を満たして、百
年に一粒ずつ取りだしたところ、全部取りつ
くしても劫が終わらなかった、というのであ
る。また一辺が一由旬の巨大な石を百年に一
度、白氈あるいは天女の衣で払い、石が磨り
へってなくなっても劫は終わらないともいわ
れている。落語にでてくる『寿限無寿限無、
五劫のすりきれ…の長久命の長助』は、健や
かに育って長命であるようにと、横丁のご隠
居につけてもらった名前であるが、このご隠
居にはちょっと学があった。五劫とは四劫の
一つ上で、それがすりきれた後までというこ
とである。四劫というのは、仏教で、人類が
生れた時代(成劫)、人類が生きる時代(往
劫)、世界が破滅する時代(壊劫)、すべて
が破滅する空虚の時代(空劫)をさしている」
大体、仏教に出てくる時間感覚は気が遠く
なるばかりである。寿限無にいたっては、限
りなきいのち、永遠のいのちである。いわゆ
る無量寿というのが梵語ではアミターユスと
いい、アミターバが無量光の意味である。無
量の光明をもって十方衆生(いきとしいける
もの)の心の暗(やみ)を照らし、無量の寿
命をもって一切衆生を救済して無量寿(はか
りなきいのち)を衆生に与えるがゆえに阿弥
陀(アミータ)と名づけられる。さてそれで
は、阿弥陀如来が五劫の間思惟する(ある問
題を一点に集中し思いはかる)とはどういう
ことであろうか。
時間の質
現代の人々、特に日本人が一生の間生きる
持ち時間は少ないのではなかろうか。こうい
うと、何をいっているか、日本の平均寿命は
今や世界一ではないか、とすぐにお叱りをう
けるかもしれない。だがそう性急な結論を出
さずに、何をいいたいのかを考える時間を持
って欲しいのである。そうすると、お前さん
のいうことをいちいち問題にするほど閑人で
はありませんよ、とおっしゃればそれは構い
ません。
さて現代は、ひたすら他者より多くの情報、
知識を吸収し、機敏に行動し、その努力で多
くの報酬を得た人を成功者と仰がれるのでし
ょう。日々の生活、仕事の中で出てくる問題
を、瞬時に分別し決定できるコンピューター
人間でなければ生き残れない時代ともいわれ
る。日々の生活の中で出てくる問題が、人間
である限り問題としてずーと持ち続けなけれ
ばならない内容ーそれが、生命の根拠を支え
る人間の歴史とか自然環境を育むものか、破
壊するものかを問う余裕も持たずに、特急列
車の各駅通過のように何事もないかのように
看過してしまう。たとえ高い塀に囲まれた大
邸宅に住み、世界中のご馳走を食べ歩くこと
ができ、おまけに長寿を祝われたとしても、
フッと気づけば空しい時を過ごしていたこと
に悔恨する人もあろう。
今、無病息災・商売繁盛・家庭円満の成就
を祈る宗教が大流行である。それを信ずれば
病気が治りますよと勧める。病気を悪として
否定すれば、素晴らしい仕組みをもった体の
不思議を知る機会を失う。これは私達が体の
異状があって初めて気がつくものである。生
命は、自分の都合や思いに関わらず働き続け
ている。病気は生かされていることを覚る。
得難い貴重な時間である。老化現象は特に嫌
われる。青年時代から聞法されている八十一
歳の榎本栄一さんの詩を紹介します。
光明土
難聴になりて
内なるこえがきこえ
持病ありて
遠くはゆけぬが
眼ひらけば光はここも
光としての仏を念ずるお姿は、豊かな広が
りをもった世界と、悠々たる時間に身を置い
ておられる。
現代日本は、お金がすべてを支配している
社会であるといってもよいだろう。お金がい
のちであれば、なくなれば死ぬほかないので
ある。経済の破綻から自殺する人が増加し続
けるのも、経済中心主義社会ならではである。
自殺ということで思い出しますのは源信僧都
の『往生要集』には、殺生(自殺も殺生であ
る)によって堕ちる等活地獄というのがある。
ここに堕ちるものは、獄卒によって鉄棒で頭
より足まで打ち砕かれたり、鋭利な刀で全身
を細かに切り刻まれる。そして一風吹けば元
の体に戻り、また前と同じように打ち砕かれ
る。私達にとっての死は、すべての罪を清算
できる唯一のものとして、それ以上追求でき
ません。つまり私達は自己を意識した時から、
死までの時間しか持っていないと思っている
のである。
仏教によって教えられるのは、死をもって
精算できない罪の深さを厳しく覚らしめられ
るのである。話を元に戻すと。商売繁盛とは、
他よりいかに財貨を多く持つことができるか
という、飽くなき欲望追求である。そこでは
一人一人の個性や能力、同じ生命を平等に生
かすことのできる共同体を求めたり考えたり
する時間などはもとよりないのである。
人と人との乖離ほど苦しいものはない。お
金でもっても解決はできない。それをすぐど
ちらが是か非か決めようとする。あるいは、
争いは醜いものと世間の目を恐れ、何もない
かのようなフリをして、砂をかむような生活
をしている人達もいる。せっかくの人生を、
暗く無駄な時間を浪費しているのだ。争いは
お互いが、初めて本音を出し合い見えなかっ
た姿を認める機会だ。つまり違いがわかるの
である。子供の兄弟喧嘩は正直なもので、等
しからざるを怒るのである。
その怒りは私のどこから興るのだろうか。
これは如来から問われる問いである。結論を
急ぐ人間には、そういう時間は持ち合わせが
ないのである。喜び、怒り、悲しみをもった
自己とは? 私の生命の始まりは偶然なる発
生か? 死ねば私という意識は? そういう
根本問題が明らかにならない限り、円満なる
人間関係はあり得ないのである。あるのは条
件付きか、慢心(高慢、我慢、卑下慢)であ
る。
問いを保持する時の長さ
わずかな人生を、あたかも死なないかのよ
うな顔をして、自我関心のために徒に時間を
費やす存在、それを歎異抄では「自身はこれ
現に罪悪生死の凡夫」と如来から指摘され、
またそれ故に、自身の生命が迷いの海に「つ
ねにしずみ、つねに流転して」永遠に平等で
真実なる大地に立つことができない身である
ことに目覚めなさいと願われているのが、五
劫思惟の願というものでしょう。
そんなこと、とすぐ結論を出すことのでき
る聡明な人よりも、疑問を反芻し持続する愚
鈍なる人ほど、正に人類が問い続けてきた普
遍的探究心に接する機会に恵まれるのだと思
う。
「そくばく(たくさん)の業を持ちける身」
が解放される道が見つからず悲泣された親鸞
聖人は、そういう存在のために五劫の間思惟
し続けられている阿弥陀の願いであったと知
られた時、「(五劫の間)よくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり」と驚嘆さ
れたにちがいない。日常生活の中でふと不思
議を感ずることのできる人は、教えの言葉に
ふれそこから生命的欲求として五劫の間とい
う悠久なる時間を内容とした思惟を持つこと
ができるのである。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
「現代の声」講座第9回提言者
テーマ:歎異抄から