最後まで友情を信じて(1)
【2020年9月24日配信 NO.31】
ー親友ヨッチに捧げるー
石川県河北郡津幡町
書店員 酒井 由記子
人は、どんな人と巡り合うか、どんな本と
出会うかによって人生が決まってくると、あ
る作家が述べていたのをふと思い出す。私に
とってはまさにそうであった。出会った人達
も書物もとても大きな影響を残し、忘れられ
ない出来事となっていったのである。
一、高校生の頃
今から六年前(1977年)、私は金沢二
水高校の二年生であった。いや二年生という
より吹奏楽部生というほうが適切であるほど
私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。みんな
でマラソン、腹筋運動をしてからだを鍛えあ
げ、各パートごとでロングトーンをして基礎
固めをなして、全員そろって校舎中いっぱい
に響きわたるハーモニーを歌いあげる。それ
は、先輩、後輩、仲間達の一致によって一つ
の音楽をつくり出すという喜びを存分に味わ
った私の青春時代の真っ盛りであった。ただ
残念なことは、部活動に熱中すればするほど
勉強のほうはさっぱり力がはいらなかったこ
とである。中学生のときは、「進学校にはい
るために」というただそれだけの目的で受験
勉強ができた。しかし、いざ高校にはいって
みると、また「いい大学にはいるために」と
先生方が口をすっぱくして押しまくる文句に
素直になれなかった。勉強する本当の意味が
見出せなかったのである。その頃から、私は
人間は何のために生きるのだろうかというこ
とまで突っ込んで考えるようになっていった。
父母が書店を経営しているため本は充分に
あり、書物を読むことによって答えを見出そ
うとした。私の強い求めに応じるかのように
一冊の本が転がり込んできた。クリスチャン
作家である三浦綾子さんの『あさっての風』
という随筆集であった。聖書の言葉がそこに
登場しており、それはズシリと心に響いたの
である。その本に魅せられて三浦さんの自叙
伝も何冊か読み進めていった。しだいに私の
魂は、人間をはるかに越えた大いなる存在が
あることを感じていった。確信までは至らな
かったけれども、それらの本によって金沢の
プロテスタントの教会に足を運び、牧師さん
のお話を聞くようにもなっていった。
週に一度は教会に通うようになったものの、
様々な人間関係の渦の中で悩みは尽きなかっ
た。先生の授業の仕方に矛盾を感じたり、ま
た、クラスメイトの他人に対して無関心であ
りながら陰で悪口を言う姿勢にむなしさを覚
え、さらには自分自身の内面の罪に苦しんだ。
教会で話されるキリストの教えが戒めとなり
慰めになりはしたが、現実の問題を具体的に
どう対処していったらよいかわからなかった。
二、統一協会との出会い
その年の十二月一日のことである。師走に
はいり、金沢の片町の夕暮れ時は、車の騒音
と帰りを急ぐ人達でいちだんとせわしないも
のであった。私は部活動を終えてからの帰り
道、行きかう人にぶつかりそうになりながら
歩いていた。
「アンケートにお答えください。ちょっとの
時間でいいですからお願いします」
だれかから呼びとめられた。最初は避けよ
うと思ったものの、その人のさわやかな笑顔
にひきずられて私は立ち止まった。その時は
まだ知るよしもなかった。これが、後に自分
の人生の軌道を思いもよらぬ方向へと変えて
いった統一協会との出会いの始まりであるこ
とに。
「今、幸せですか? どんなことに関心があ
りますか?」
と、質問してくる清純なその人は、金沢大
学の女学生であった。私は、真剣で生き生き
している彼女の雰囲気に、しだいにのみ込ま
れていった。そして、この人は私の持ってい
ない「何か」を持っていると感じていった。
この金大生は、その統一協会に属していて、
『原理研究会』という別名のグループのもと
で、大学で活動している女性であった。私は
次の日にそのお姉さんが誘う原理研究会の寮
『成愛寮』に行くことを約束した。
ところで、高校の同じクラスに、ヨッチと
いう友人がいて、実は彼女も中学生の時から
その成愛寮に通っていて、前から私に誘いの
声をかけてくれていたのだった。不思議な摂
理めいたものを感じつつ、翌日、興奮さめや
らぬ思いでヨッチに案内してもらった。
緊張している私に、そこの学生達は、優し
くて親切にしてくれるのであった。
その時の私は「人間を見る・把える」とい
う智慧が養われていなかった。それは、その
人の成長に従って身についてくるものであり、
社会に生きていくうえで大切なことである。
勉学とは、人間の知性・知能を伸ばし、精神
を高め、心を豊かにしていくうえで、基盤と
なるものなのであろう。未熟であった当時の
私は、人を表面的にしかわからなかったので
ある。
やがて高校三年に進級し、ヨッチとまた同
じクラスになった。ところがその頃は、親に
も友人達にもその原理研究会に行くことを反
対され、ヨッチとつき合うことさえもいい顔
をされなかった。私の通っていた教会の牧師
さんにも次のように教えられ、反対もされた。
統一協会、その正式名称は『世界基督教統
一神霊協会』といい、文鮮明なる人物を教祖
として1954年5月1日に韓国ソウル市に
て発足した団体で、その創始者である文氏は、
元々は、金百文という韓国の「イスラエル修
道院派」を主宰する人物の弟子であった。そ
れは、別名血分け派とも呼ばれる混淫派の一
つで、聖なる意識のこもったセックスによっ
て人を救う「精神神学」なるものである。日
本には1958年に西川勝宣教師によって布
教が開始され、1959年に東京の渋谷に本
部が創立された。日本では、現在、二十六、
七万人の信徒がいるという。また、アメリカ、
ヨーロッパ、アフリカ、南米、オーストラリ
アにまで及んでいる。政治面では、『国際勝
共連合』という別名のもとに激しい反共活動
を展開している。この著しい発展の陰には、
信徒達の昼夜を問わない伝道、経済活動があ
る。パンの耳をかじりながら、チリ紙交換や
廃品回収等の活動から始めていき、繁華街で
花束を売り、今日では、珍味、昆布、人参茶
から印鑑、大理石の壺、多宝塔など何十万、
何百万もする高額な商品の訪問販売に広がり、
その総収益は計りしれない。何千組という信
徒を教祖・文鮮明氏は、一挙に組み合わせて
幾日も経たないうちに合同結婚式を挙行する
という、世間の人々の目を見張る動きまでし
ている。それらは世界中に大きな波紋を呼ん
でいるという。
以上のようなことなどを、その牧師さんか
ら詳しく聞かされ、私は、愕然となってしま
った。そしてヨッチにこのことを正した。し
かし、統一協会員である彼女は、少しも動揺
することなく、むしろ根気よく私を説得して
きたのである。
「私達の協会が血分けの思想の協会であると
か言われているのは知っているわ。でも、そ
れが本当であったら私はやめているわ。お父
様(文氏のこと)の目を見たら、そんなこと
をする方かどうかがすぐわかるわよ。また、
政治運動のことだけど、この乱れた社会を改
善するには、宗教だけではもうできないの。
科学、文化、政治などのあらゆる分野から取
り組まなきゃならないのよ。世間では色々と
批判されているけど、それで判断するのでは
なく神様に聞いてみたらいいのよ。由記ちゃ
んに教えてくれたその牧師さんの言うことを
信じるか、私の言っていることを信じるか、
これは難しいけど、祈って神様に聞いてみて
ね」
「信じる」ということはどういうことであ
ろうか。私はみんなの板ばさみになってしま
い、頭をかかえ込んでしまった。悩んだ末、
取った結論は結局こうであった。今は、いっ
たいだれが正しいか、何が本当なのかわから
ないから、容易に統一協会にもはいるまい。
これからよく勉強し、研究していくうえで、
それでも統一協会が正しいと判断できたら、
はいるのはその時でも遅くはないであろう、
と思ったのである。
三、友情というかけ橋
ところが思いに反して、私のそばには絶え
ずヨッチがいたので、結局統一協会員である
彼女が、他のだれよりも親しくなっていった。
彼女の場合、先に母親のほうが入信していた
のである。父親も賛成しており、いわば家族
ぐるみで信仰を持っているのであった。彼女
としては、心から統一協会が正しいと信じて
いたので、親友である私を導かずにはおれな
かったのであろう。
私にとって三年最後の思い出の吹奏楽コン
クールがあったが、それを見に来てくれたの
も彼女。そして力一杯拍手してくれたのも彼
女であった。夏休みに、ただそんなヨッチの
姿見たさ、顔見たさに雨の中彼女の家まで自
転車をこいでいった私。共に図書館に通った
り、受験勉強の息抜きに海を見に行き、小舟
の陰でずっと水平線を見つめていたヨッチと
私。しんしんと雪の降りしきる夕闇の中を、
肩を並べて下校していく私達。目を閉じれば
あの遠い高校3年生の時のことがすぐに思い
浮かぶ。彼女のひたむきな友情は、私を理屈
なしに統一協会へと導く大きな要因となって
いった。
翌春、ヨッチは明治学院大学に、私は日本
大学に受かり、それぞれ東京へ、静岡の三島
へと新しい出発を踏み出していった。
親元から離れて、私は統一協会へ自由に通
うようになれた。全国大学原理研究会太田会
長の講演会をはじめ、埼玉県での修練会、東
京の秋川での内部修練会、品川の協会に泊ま
り込みで原理を学び、講義練習、駅前での路
傍演説、パンフレット配り、夜の訪問伝道…
…。私をこうまで駆り立てたのは、あらゆる
批判を乗り越えて立つ統一原理の素晴らしさ
であった。私は、理路整然として疑う余地の
ないと思われるような論理に、最終的に圧倒
されてしまった。
夏休みにはいると、ヨッチのほうは、原理
研究会の兄弟姉妹とキャラバンカーに乗り込
んで、東北の田舎へ「経済部隊」として派遣
されていった。カンカン照りの中、町々村々
をてくてくと歩き回り、物を売って統一協会
の資金にするのである。名目は、「交通遺児
のために」「ベトナム難民のために」などの
売口上をつくったり、あるいは、「父はガン
で死に、母は半身不随。このままでは授業料
も払えません」と、土下座する泣き落とし作
戦もあり、また、手相・人相を占い、「この
印鑑を授かれば(買えば)、あなたの運は開
かれますよ」と言って、幸福を願う人の心を
利用するやり方まで繰り広げられていく。
活動に邁進するきょうだい達は、何の罪の
意識も感じないのである。私も協会に深くは
いっていくうちに、いつのまにかそうなって
しまった。「国の法を守らなくても、統一協
会は真のキリスト教であるから神様も許して
くださるのです」とアベル(統一協会用語で
上司の人)の言う言葉に従順であることが、
信仰的と見なされるのであった。
(つづく)
小社発行・『北陸の燈』創刊号より