ある女の人生
【2021年2月22日配信 NO.136】
石川県石川郡美川町(現白山市)
秋山 郁美
夕食にしようと覗いた居間の縁側に、背を
丸めた祖母がつくねんと座って空をみつめて
いる。秋の早い夕暮れがすぐにあたりを包み
はじめているのに………… 常にぐちひとつこぼ
したことも、涙も見せたこともない八十六歳
の祖母だけに、小さなその背に、たまらなく
いとおしさを感じ思わず涙ぐんでしまった。
若く三十歳にして夫と死別、五人の子ども
もつぎつぎ早逝、今、最後の頼みの孫にまで
も先立たれたばかりなのである。きっと祖母
は今胸中を去来する過ぎ去りし不運に慟哭を
こらえているのであろう………声をかけそびれ
てそっと部屋を出た。
造り酒屋の一人娘で育った祖母は、同じ町
内で何百年もつづいた薬種商に嫁いだが、そ
の時すでに貧乏のどん底にあったらしく、婚
礼がすんで四、五日もすると家の中の目ぼし
いものが無くなっていたそうです。実家では
驚いて早速帰るようにとすすめたが、一度縁
あって嫁いだからには………と県庁に勤める夫
にかわって商売に精を出してきたが、病弱な
夫は五人の子どもを残し早逝して文字通りの
苦労がはじまったといいます。
色つやのいい、いつも八十過ぎとは見えな
い身ぎれいで笑顔をたやさない祖母からは、
信じられない事実なのです。
私がその孫の嫁として来た当時、祖母はま
だ毅然として家伝の薬を作っていました。ひ
とつひとつ原料の吟味をとても大切に、生薬
の皮を去り、きざみ、焙炉にかけ乾燥させ、
碾臼で引く………丸くなった背をさらに小さく
曲げて………今もありありと見えるようです。
とうてい他所者の私なぞさわることもできま
せんでした。
店を孫に譲ってからも商売のことで気づい
たことはやかましく注意されました。また、
どんなに寒い冬でも、炬燵に入って暖まると、
居間で自分のものはほとんど縫いつくろいを
されました。当時はストーブなどありません
から本当に感心します。
そして、老いさき短いからと新しいものは
買わないで何でも更生されました。よく孫た
ちの着た紺かすりなども色をかけてくれと言
われて、私が茶色に染めて、白のかすりを目
立たなくしてあげました。
ふとんなどもよく染め直したりさせられま
した。ふとんの染め直しで思い出すことは、
出来上がりに想像もしなかったシミができた
ことです。もちろん気に入ろうはずがありま
せん。早速染め直しを何べんもさせられまし
たが、消えるどころか、だんだんはっきりす
るのです。とうとう本職の方にききましたら、
ふとんなどは特に、よだれや汗の体液がつき
やすいので熱を加えるほど濃く出てくると言
われました。けれどいくら説明しても、きき
入れてもらえない頑固さもたくさんありまし
た。
「御飯かいね」………… さっきの淋しさなど
どこへやら、いつもの笑顔で食膳に座られる
祖母………九十歳で亡くなられるまで、毎日の
姿勢は変わりませんでした。
あれは三月のはじめ、北陸には珍しい暖か
い日の夕暮れ、大好きなサイダーを横飲(よ
このみ)で末期の水のかわりにおいしそうに
飲み、それこそ下の世話もさせないで、私一
人にみとられて、それはそれは安らかな終焉
でした………祖母の孫すなわち私の夫が亡くな
ってから三年目でした。
その間、祖母と一つ部屋で起居を共にしま
した。二人とも大切なものを失った同じ思い
の女が二人………… でもとうとう気丈な祖母の
姿勢に出会っては、負けてなるものかと、枕
を涙で濡らすこともできませんでした。今し
ずかにふり返ってみると、何もしてあげられ
なかったけれど………… 他所から頂いたお菓子
など要領よくそのまま預けて、祖母にとって
はひ孫たちは、祖母にお菓子をねだることに
しておきました。これは楽しそうでした。
では、祖母から学び取ったものを紹介して、
少しでも参考になりましたらと……思います。
自分にきびしく正直であれ
世の中には良いことは少ない 今日一日を
感謝する
人とのつきあいはほどほど 決して深入り
はしない
食事は腹八分 一日くらいと思っても無理
に食べない
自分のからだは自分で管理(消化剤は一日
もかかさず自分で処方された ビカル ス
ターゼー ケン末 各何g……………といった
具合 また、目は特に大切にされ、ホーサ
ン水で一日数回洗われる)
過去はふり向かない ぐちは言わない
行きづまったら明日と来年があると…………
小社発行・『北陸の燈』第2号より
〈参考〉
秀吉の時代、中国から長崎へ「唐薬種」(主
製品は目薬)が入り、船着き場(後の船場)
に着き、道修谷(後の道修町)と日本橋本町
に唐和薬種問屋ができて、薬種製造もするよ
うになり薬種商が全国の各地へと広がった。
これを売り捌いたのが黒田官兵衛一族と富山
の薬売り行商者で、その後、伏見屋市兵衛商
店が小野薬品工業に近江屋長兵衛商店が武田
薬品になるなどして、薬品製造販売会社が日
本の商工業、金融業の中心となっていった。
黒田一族は自らもニセ目薬をつくっていた。
当講座のNO.85の前田佐智子さんの記事「能
登境の村」も併せて参照していただきたい。