家永教科書裁判の争点
【2020年11月29日配信 NO.76】
『日本的霊性からの解放』より抜粋
ジョアキン・モンテイロ
「教科書裁判」は、二つのテーマが中心で
す。一つはいうまでもなく十五年戦争、すな
わち日本の戦争責任の問題です。「侵略」を
「進出」といいかえるなどしている文部省教
科書検定の動きです。
もう一つは中世史の問題です。どうして「
教科書裁判」で中世史が問題にならなければ
ならないのか、その理由はいろいろあります
が、最大の理由は、黒田俊雄氏という中世史
の専門家がはっきり発言しているように、も
し日本の歴史を皇国史観として承認しようと
すれば、中世日本という実際にあった存在・
事態を完全に抹殺しないとできないからです。
つまり、日本の中世史を厳密に分析すると、
後鳥羽をはじめとする三上皇が鎌倉幕府によ
り流罪にされた承久の乱(一二二一年)以降、
天皇の存在が、国王=王権とはいえない時代
に入るのです。極端な評価をすれば中世を、
国王としての天皇が空白の時代、日本社会の
なかで意味をもたない時代として位置づける
ことも可能です。ですから、日本中世史の学
習では、天皇が登場しなくても教科書叙述が
可能となりうるわけです。
皇国史観は、日本史が世界史に対して燦然
と輝きうるのは、有史以来、日本人が一貫し
て天皇を精神的な支えとして生きてきた民族
であり、天皇制=国体の護持こそ民族の誇り
であり、皇国の歴史には一点のキズもないと
いう考え方です。天皇のおかげで日本は、太
古の昔から、完全に連続していて、まったく
変わりのない、矛盾も対立もない、おめでた
い歴史ーーすなわち「歴史的連続性」をもっ
たというのです。
したがって、文部省が中世史を抹殺するの
は、天皇制の危機の時代としての中世の位置
づけに耐えられないからです。皇国史観ーー
文部省教科書検定官もこの立場ですーーにた
つと、このような中世の歴史的事実は、天皇
制を死守する者にとって、どうしても容認で
きるものではないわけです。
日本人はすべて皇室愛好者でなければなら
ないという趣向の歴史意識が文部省の立場で
す。そしてこのことが、浄土真宗と非常に関
連の深い出来事として「教科書裁判」で起き
ているのです。親鸞の天皇制批判ーー『教行
信証』(註1) の後序の有名な言葉「主上臣下、
法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ 」を、
家永氏は重要視しています。
家永教科書で親鸞の天皇制批判の立場の記
述が試みられ、検定官から再三の修正が求め
られましたが、家永氏が応ぜず修正拒否理由
書を提出し、「親鸞はこれにたいし、堂々と
抗議の言を発して屈しなかった」(家永三郎
『新日本史』・三省堂)という記述で通すこ
とができました。「親鸞の朝廷への抗議=『
教行信証』後序」に対する検定官の不当な修
正意見が、裁判の争点の一つになったわけで
す。
家永教科書を、文部省=皇国史観が憎悪し
た理由は、日本の中世史において親鸞という
仏教者がはっきりと天皇制批判をしているか
らです。文部省がもつ皇国史観にたてば、日
本を代表する仏教教団の宗祖・親鸞の歴史的
意義が「天皇制批判=皇国史観との訣別」で
は非常に具合が悪いのです。
そして、一九八〇年の検定に対する第三次
訴訟のなかで、後序の親鸞の言葉が、天皇制
批判と受けとめるべきか否かということが争
点になりました。
一九八七年六月に、家永側の証人として、
西本願寺の歴史学者・二葉憲香氏が法廷にた
ちました。一方、国側からは、これも西本願
寺の歴史学者・梅原隆章氏が証人として登場
しました。梅原氏は、親鸞が護国思想の持ち
主で天皇に敬愛の念を抱いているという皇国
史観によって、鎌倉新仏教を位置づける証言
をしました。激しい論争になりましたが、い
くら梅原氏が戦前の学説にたって証言しても、
親鸞が「主上臣下、法に背き……」という言
葉はすり消せません。
また、梅原証言は、検定官が修正意見で、
「弾圧時に抗議したのではなくて晩年になり
追憶してーー著書のなかでこっそりとのべた
ーー執筆した」と述べたことを支持したり、
『教行信証』後序が朝廷の不当弾圧に対して
出された奏状(申状)であるという近年の親
鸞研究で承認されつつある説を取るにたらな
い珍説として、提唱した古田武彦氏を若造呼
ばわりするなどの体たらくを発揮してしまい
ました。結果として国が大敗しました。証言
を通して梅原氏の破綻したものの考え方、彼
の説の欺瞞さが完全に証明されたのです。文
部省が敗れたことは事実です。(註2)
自らの皇国史観流の親鸞の位置づけが敗れ
たことに対して文部省は、敗れたことを謙虚
に認めて、日本史教科書で、親鸞が実際に天
皇制を批判したというところから鎌倉新仏教
の叙述を始めなければならないはずです。と
ころが、現状の日本史教科書がどうなってい
るかというと、親鸞の評価を、天皇制批判と
してとらえる教科書はみあたりません。家永
氏の『新日本史』が最初で最後になってしま
います。
日本史の教科書は法然・親鸞を、仏教の大
衆化ーーすべての人々に難解である仏教をわ
かりやすく、しかも簡単な行法で説いたこと
ーーを中心に叙述しています。つまり、仏教
の大衆化=民衆への開放というあたりで、法
然・親鸞の歴史的意義を理解しようというの
です。
法然・親鸞=専修念仏が行った天皇制批判
=日本主義への訣別=皇国史観からの開放ー
ーという歴史的意義を教科書叙述に認めない
というのは、歴史の改竄を意味します。こう
した日本の体制の歴史観を”消しゴム歴史観”
と私は名づけることにしました。なぜなら、
国家や体制に不都合なことは、時代に応じて
好きなように”消しゴム”してしまうからです。
ただ、法然・親鸞の正しい歴史的評価が教
科書で記述されることが難しくなったり、鎌
倉新仏教のもっている信仰的・思想的意味あ
いが教科書検定により抹殺されたりすること
は、逆に法然や親鸞の開いた仏教史観が皇国
史観とまったく異質なものであることを証明
しています。
(註1) 『教行信証』 浄土真宗の教え・思想
を著した親鸞の書。
(註2) 『新日本史』 ( 一九八〇年検定済教科
書・三省堂) の「法然・親鸞らは朝廷から
弾圧をうけたが 、 親鸞はこれにたいし 、
堂々と抗議の言を発して屈しなかった」と
いう叙述に対して、検定官から修正意見が
出され、家永氏が修正拒否理由書を出して
もとの叙述のままで検定を通すことができ
た。検定意見は、『教行信証』の「後序」
は、晩年の親鸞の回顧であり、流罪時に書
かれたような誤解が生じる叙述に対して修
正を求めた形になっている。
このことは、もとより、鎌倉新仏教の反
天皇制的性格の叙述を弱めようとしてのも
のである。したがって、裁判では、検定官
が定説としてもちだした赤松俊秀(故人・
元京都大学名誉教授・真宗大谷派僧侶)説
と、家永側が主張する古田武彦(昭和薬科
大学教授)説の妥当性について争われるこ
とになった。
証言では、家永側証人の二葉憲香氏(龍
谷大学名誉教授・京都女子学園長)が親鸞
研究者として、「後序」は念仏弾圧時に朝
廷に出した「奏状」がもとであるという古
田武彦説(「親鸞の奏状と教行信証の成立」、
一九六六年『真宗史の研究』・永田文昌堂
が初出)の妥当性を述べた。
国側証人である梅原隆章氏(富山大学名
誉教授)は、検定官が定説とした赤松俊秀
氏(『親鸞』・吉川弘文館・一九六一年)
の権威性を証言した。
この証言で劇的だったことは、梅原氏に
対する家永氏本人の反対尋問での
家永 「権力によって、赤松説の通り
書かないのを欠陥とされ、古田説をと
ってはいけないとされるのは、研究者・
教育者として耐えがたいと思うが、証
人はそうは考えないか」
梅原 「そのように考える」
というやりとりで、国側の証人が家永氏の
主張する教科書検定=検閲の問題性を証言
してしまった点であろう。この証言の概要
については、森谷公俊「教科書裁判第三次
訴訟ーー親鸞の抗議をめぐって」(『歴史
学研究月報』第三三二号・歴史学研究会・
一九八七年八月)を参考にしていただけれ
ばありがたい。
『日本的霊性からの解放
ー 信仰と歴史認識・菩提心の否定と浄土真宗 ー』
(A5判70頁 1995年2月・小社発行)
著者 ジョアキン・モンテイロ
「現代の声」講座第74回から連続5回提言
テーマ:現代と個人
〈追記〉
参考当講座記事