275. スポーツを文化にするために
【2022年10月10日配信】
交驩のエール
花開きつつあるエンジョイベースボール
「学生野球考」
慶應義塾大学野球部監督
前田 祐吉
「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」
という元気な掛け声の間に、「カーン」と
いう快いバットの音がひびくグラウンドが
私の職場である。だれもが真剣に野球に取
り組み、どの顔もスポーツの喜びに輝いて
いる。息子ほどの年齢の青年たちに囲まれ、
好きな野球に打ち込むことのできる私は、
つくづく、しあわせ者だと思う。
学生野球は教育の一環であるとか、野球
は人間形成の手段であるということがいわ
れるが、私の場合、ほとんどそんな意識は
ないし、まして自分が教育者だとも思わな
い。どうしたらすべての野球部員がもっと
野球を楽しめるようになるのか、どうした
らもっと強いチームになって、試合に勝ち、
選手と喜びを共にできるのか、ということ
ばかり考えている。
野球に限らず、およそすべてのスポーツ
は、好きな者同志が集まって、思いきり身
体を動かして楽しむためのもので、それに
よって何の利益も求めないという、極めて
人間的な、文化の一形態である。百メート
ルをどんなに早く走ろうと、ボールをどれ
だけ遠くへカッ飛ばそうと、人間の実生活
には何の役にも立たない。しかし、短距離
走者はたった百分の一秒のタイムを縮める
ために骨身をけずり、野球選手は十回の打
席にたった三本のヒットを打つために若い
エネルギーを燃やす。その理由は、走るこ
とが楽しく、打つことが面白いからにすぎ
ない。さらにいえば、より早く走るための
努力の積み重ねが何物にも替えがたい喜び
であり、より良く打つための苦心と練習そ
のものに、生きがいが感じられるからであ
る。
このように、スポーツは余暇を楽しみ、
生活を充実させるための手段で、それ以外
には何の目的もないはずである。むしろ目
的のないことがスポーツの特徴であり、試
合に勝つことや良い記録を出すことは、単
なる目標であって終局の目的ではない。
かつて超人的な猛練習でスピードスケー
トの王者といわれ、冬季オリンピックの金
メダルを独占したエリック・ハイデンは「
金メダルは私の人生の目的ではない。それ
に至るプロセスの喜びが私の真の目的であ
る」と語ったと伝えられるが、まさにアマ
チュア・スポーツの真髄を表わす名言であ
る。現在のハイデンにとって、オリンピッ
クの金メダルは、若き日の努力の輝かしい
記念碑としての意味しかなく、金メダルの
栄光を自分の生活の糧にしようなどという
気持ちは、全くないのではなかろうか。
勝つことを義務づけられ、勝つことが人
生のすべてであると思いつめた暗い表情の
選手たちを見るにつけても、ハイデンのス
ポーツマンらしい明るさが、思い出されて
ならない。
日本じゅうで三千数百の高校野球チーム
の選手たちが、甲子園を夢見て努力を重ね
ているが、甲子園も決して真の目的ではな
く、単なる目標にすぎない。そう考えなけ
れば、甲子園に出場できない大多数の選手
たちはだれも目的を達することなく、その
努力はすべて無駄になってしまうわけで、
こんな不合理な話はない。甲子園への出場
を口実に数千万円から億単位の募金を集め
て、大会後にその金を利用し、そのために
また選手に勝つことを強要するなど、ある
種の大人たちにとっては甲子園こそ最終の
目的であり、打出の小槌であるようである。
郷土と母校の栄誉のためにという空疎な
題目が、いかに高校野球を毒しているのか、
まことに寒心に耐えない。スポーツはあく
までも自分の意志で自分自身のためにやる
べきもので、野球は郷土のためや母校のた
めにやるものではない。
それにしても高校野球の実態の暗さと息
苦しさはどうだ。高校野球は教育であると
多くの関係者は信じて疑わないが、はたし
てそうであろうか。確かにいろいろな教育
的効果が認められるし、そのこと自体は大
変歓迎すべきことである。しかし高校生の
教育は、何よりもまず学校ですべての生徒
を対象に行なわれるべきもので、野球部で
の生活がそれに代わることはできない。こ
のあたりの自覚のない指導者は、野球の訓
練がそのまま教育であると思い込み、自ら
を教育者であると錯覚する。こうして野球
部の部活動が絶対至上のものとなり、選手
にはすべてを犠牲にして野球に打ち込むこ
とを強要する。そしてそのことが「野球で
人間を造る」唯一の方法であるという確信
に達するようである。野球で人間を造ると
はまた何という思い上がりであろうか。マ
ッサージを覚えた素人が医者の名を騙る類
いで、一種の社会的な罪悪といわざるを得
ない。しかも、もともと当人たちの善意に
発するだけに、かえって事が面倒である。
冷静に考えて、もし選手の将来を真剣に思
うなら、少なくとも学業との両立を果たさ
せることは、野球の指導者としての最低の
モラルであるはずで、この点については、
むしろ大学野球のほうに反省すべきことが
多いようである。
こうして教育という錦の御旗の下に、野
球の形を借りた私刑(リンチ)が猛練習と
呼ばれ、前時代的な上下の差別や、礼儀と
は似て非なる虚礼がしつけと称して横行す
るのである。異様な坊主頭がなぜ純真さの
印なのか。なぜ下級生は不作法な大声を張
り上げて上級生に挨拶を繰り返さなければ
ならないのか。教室の出入りにお辞儀をし
たこともない生徒が、なぜグラウンドにお
辞儀をするのか。甲子園で敗れたチームが、
なぜグラウンドの土を取るのか。しかも、
泣きながら公共物である土を取る姿を観衆
やテレビカメラに晒して恥じない。「勝者
は敗者を思いやり、敗者は勝者を讃える」
というスポーツの爽やかさは、どこへ行っ
てしまったのだろうか。
最後には、どうしても高野連(日本高校
野球連盟)の指導方針に触れざるを得ない。
ここでも高校野球は教育であるという認識
に根強く支配されている。野球部の生活に、
ある種の教育的効果がある点は認めるとし
ても、何かといえばチームに課せられる出
場停止の罰則は、いったい何のためなのか。
一方で勝つための強引な選手集めや非常識
な募金など、高校野球の本質を歪めるよう
な事態はほとんど不問のまま、重箱の隅を
つつくような処罰、それも時代錯誤も甚だ
しい連帯責任型の処分が通例となっている。
野球が教育であると信ずるなら、なぜ罪も
ない多くの選手たちまで長い期間野球がで
きない処置をとるのか。これほど非教育的
な処分は他に類を見ない。さらに重大なこ
とは、事件を起こした本人の人権と将来を
どう考えているのかである。事件の多くは、
若者にありがちな小さな不心得であるが、
それが原因でチームが出場停止となった結
果、何よりも本人たちがどれほど深く傷つ
くだろうか。せっかく新聞が少年A・Bと
いう形で名前を秘しても、ひとたびチーム
の出場停止が決まれば、本人の周囲の人々
はすべて名前入りでその不祥事をしっかり
と記憶してしまい、決して忘れてはくれな
い。中には郷里を棄て親元を離れて他に生
活の場を求めざるを得ない場合もあるだろ
う。高校野球に対する一般の関心が高けれ
ば高いほど、処分を下す側には、その影響
を深く考える必要があるはずである。
全国で無数に発生しているはずの小事件
の中で、たまたま新聞紙上に出たことが処
分のキッカケになることも不合理で、レギ
ュラーになれなかった選手の父母が、腹い
せに自校の不祥事を新聞に投書する例が多
いなど、高校野球の暗さの元は、案外この
出場停止制度そのものにあるのではなかろ
うか。高野連が最も直接的に教育にかかわ
るのが、出場停止処分という最も非教育的
な形であるという皮肉な結果となっている
ような気がしてならない。
高野連自体が、一般の生徒の事件はチー
ムの処分の対象にしないなど、近年全般的
に良識的な方向に向かっていることは確か
であり、歓迎すべきであるが、教育のこと
は最高責任者である校長と、直接指導に当
たる部長の判断を信頼して、無用の口出し
をやめるよう勇断をもって改善のスピード
を早めていただきたい。冗談にもせよ、「
生類憐れみの令」に次ぐ悪法と嘲笑される
制度を根本的に改め、愚にもつかぬ前例に
こだわることをやめ、高校野球の世界が本
来の明るさを取り戻す日の一日も早いこと
を期待するものである。 (1984.1.1)
小社発行・『北陸の燈』第3号掲載
第13回「現代の声」講座提言者
当講座記事NO.6再掲
〈以下参考〉
前田祐吉 - Wikipedia
2024.2.7 kyouseiさん、 新しいことを始める難しさ