子供らと共に
【2020年12月18日配信 NO.88】
「学校」で「人間教育」ができますか?
伊勢谷 功
ことしの春、中学生になったばかりの次男
が、「きょう、学校で上級生に殴られた」と
言って帰ってきた。くわしく聞くと、「髪を
伸ばしているから」という理由で、連日いや
がらせをされていたらしい。幼児のころから
の髪型のままで中学生活をするという、ただ
それだけのことが、これからの三年間にわた
る闘争の日々を覚悟しなければならないとい
う、そのことは親子とも、すでに入学時から
わかっていたのではあるが……。
私はさっそくその晩、その「上級生」に会
った。彼は思ったより小柄な可愛い少年だっ
た。私が、その家へ電話したことで、親によ
ほど叱られでもしたのか、ひどくしょげかえ
っていた。彼の頭は、もちろんツルツルの丸
刈りだった。
「ねえ、君は校則についてどう思う?」
「どれもみんな、嫌い」
「特に嫌いなことは?」
「丸刈りと制服……」
「君も、髪を伸ばしていたいの?」
私がたずねると、少年は眼をふせてうなず
いた。
「学校の”きまり”で丸刈りを強制することに
は、ぼくは反対だ。うちの子もイヤだと言っ
ている。もし、君もぼくらの考えに賛成なら、
学校じゅうで、たった一人で抵抗しているう
ちの子に声援を送ってくれないかな。君が在
学中に実現するかどうかはわからないが、や
がては、こんな野蛮なきまりは廃止されねば
ならないとぼくは思う。そのためにも長髪で
頑張り通す子が二人、三人とふえていくこと
が大事なことだ。ねえ、君も長髪にしたら?」
少年は、うらめしそうに、上目づかいに私
をチラと見た。私はあとになって、その少年
には、とても残酷なことを言ってしまったこ
とに気づいた。学校のきまりを押し切って、
敢然と考えを通そうとしても、第一に親たち
が賛成してくれないにちがいない。それどこ
ろか、「学校のきまりは絶対に守れ」と言っ
て、子供を責める場合がほとんどである。学
校と家庭の両方から責められて、多くの子供
たちは居場所を失ってしまっているのである。
この事件があってから、二、三日たった日
のこと、中学校から帰ってきた息子が私を見
るなり、はき捨てるような口調で言った。
「来週から、係りの生徒が全校集会で身なり
の検査をして、違反者を列外に立たせるよう
になったよ」
「髪の検査もするの?」
「うん」
「それで、業(たくみ)はどうするの?」
息子は、誇らしげに言った。
「ぼく、毎週立つよ」
私は、その言い方の明るさに思わずほほえ
んだ。しかし、その明るさが、かえって私を
悲しい思いに沈ませた。
仲間同士で監視させて管理を強化するやり
方は、先ごろ大問題になった”主任制”と同種
の発想によるものである。江戸期の五人組制
度や、先の大戦時の”連帯責任”をあげるまで
もなく、監視される者たちの中から、監視す
る役割の者を選び出して分断支配する手口は、
権力者の常に用いるところである。そこには、
少年の日の友情の絆を切りきざんで、管理す
る側への”こび”と”たれこみ”と、生徒間の相
互不信を生み出す狡猾ささえもが感じ取られ
る。
「ぼくも、ほんとうは髪を伸ばしたい」と
言いたげだった先日の「上級生」の顔を思い
出し、私は、彼のような生徒が、検査の係り
に立てられたときの心の疼きを思いやらずに
はいられなかった。
この同じ中学校へ、五年前に入学した長男
も、三年間長髪のままで頑張り通した。幾度
かのトラブルで、私は何回も学校へ出向いて
行った。髪を伸ばすことを何故禁ずるのか、
その根拠について、教師たちのナマの意見を
聞きたかったからである。しかし、返答はい
つも「校則で決められているから」とか、「
市内の他の中学校でもそうしているから」と
かという全く主体性のないものばかりであっ
た。長髪禁止の妥当性など、あろうはずがな
いのである。
制度や丸刈りによって、かつての侵略戦争
に狂奔した軍隊を思い出す人も少なくないだ
ろう。そして、私たち親子のように、制服の
嫌いなものは、それでも学校から帰ったら早
速これを脱ぎ捨てて着替えることができる。
しかし、丸刈りの嫌いな親子は、子供が家庭
に帰っても、この横暴な学校の支配を受け続
けねばならない。頭髪は身体の一部であって、
脱着が不可能だからである。
私が問題に思うことは、実は制服や髪型な
どという、いわばセンスや好みに属すること
がらについてではない。こうした問題に何の
疑問も抱けないほどに、精神の弾力を失った
人たちに、また、疑問を感じたり、あるいは
そのことには多少反対の気持ちがあっても、
敢然と身を賭して反論することを決してしな
い”ことなかれ主義”に埋没した人たちに、子
供の教育を委ねねばならぬことが堪え難いの
である。
少年たちのちょっとした過失や愚行を、す
べて家庭や社会のせいにして、何の責任も負
い得ない教師。子供を人質にとられている弱
みから、学校に向けて何らの抵抗も提言すら
もできない親たち。こうした大人たちに絶望
している子供たちは、学校と家庭の間に醸さ
れる奇妙なチームワークからはじき出されて、
大人たちから配給されるたいくつな人生観を
ふりほどこうと必死にもがきつづけているの
である。
出世主義にひたはしり、真実を問うことを
忘れはてた大人たちの欺瞞と押しつけに辟易
しながら、それでも”何か”を求めて生きざる
を得ない、こうした小さな魂たちを思うとき、
非行や暴走に彼らを駆り立てた元凶は、むし
ろわれわれ大人ではなかったのかと、心が痛
む思いがする。
決して、ゆえなくして子供たちが大人への
敬愛と信頼を捨てたのではない。われわれが
その資格を失ってしまっているのである。大
人は、子供をリードするのではなしに、自ら
が、子供たちから敬愛され信頼されるに足る
生きる姿勢を回復し、彼らと共に生きつづけ
ようと努力する以外にないのではなかろうか。
(石川県加賀市 常願寺住職)
〈参考〉
伊勢谷功さんは当講座NO.95と 96の記事も
執筆しています。
当講座NO.6、86、107の記事も併せて参照
していただきたい。
小社発行・『北陸の燈』第3号より
「現代の声」講座第17回提言者
テーマ:日本人の宗教意識