不戦の誓い(4)

【2021年7月29日配信 NO.181】   

 

 

  死を急ぐ人々    

 

 

                           酒井 與郎   

 

 私たち学徒動員組は、途中何の事故もな

く武昌に着いたが、その先は作戦地域なの

で、単独追及は不可能である。折よくそこ

へ、嵐兵団の補充要員として初年兵の追及

隊が、前線に急ぐのがあった。私たちは分

散して、追及隊と行を共にすることになっ

た。

 

 私が配属されたのは福井・滋賀徴集の初

年兵の追及隊で、隊長は西島中尉といわれ

る中年の召集将校だった。何でも召集前ま

では、中学校の英語の先生だったらしい。

私の仕事は、追及隊の駄馬として参加する

軍馬三十八頭の衛生管理である。当初私は、

三十八頭という軍馬の少ないのにガッカリ

したが、まもなくそれが大変な仕事である

ことに気づくのである。

 

 馬の受け取りに病馬廠(軍馬の病院)に

行け、と言う。三十八頭全部が、病馬廠の

退院馬なのである。馬の栄養は極度に悪か

ったし、体格もひどく見劣っていた。そし

て、年齢も十歳以上の馬ばかりである。歩

様(歩き方)も、何かしら危なっかしいの

である。

 

 しかし、考えてみれば当然である。当時、

軍の糧秣(軍隊における人と馬の食糧)の

補給は、現地調達がその中心だった。言葉

でいえばただそれだけのことであるが、そ

の中身が問題である。ここでいう現地とは

敵地のことであるが、敵地といっても色々

ある。すでに日本軍に占領された地域で、

一応市民生活が開始されている地域もあれ

ば、まだ治安の確立されていない地域もあ

る。そしてまた、現に作戦行動中の地域も

ある。このようにおおよそ現地を三つに区

分されるのであるが、この地域で三百万に

もなろうという日本軍の人馬の食糧を調達

しようというのだから大変である。

 

 ある地域では強制買い上げであり、また、

ある地域では略奪同然の調達行為が、作戦

の一部として日常行われていたのである。

何せ「奪って食え、奪って戦え」というの

だから日本軍とは大変な軍隊だった。敵国

民衆から収奪することによってのみたつ戦

争を大東亜共栄圏確立のための戦争といい、

聖戦と呼んでいたのだから、話にも何にも

ならないのである。しかし当時の国民は、

一部の人々を除きほとんどの者がこれを是

と信じて疑わなかったのだから、教育と世

論操作とは恐ろしいものである。それはと

もかく、日本軍占領下の中国(当時は支那

といっていた)である。当然農業生産が低

下している。そしてこれを中国民衆と日本

軍が分けるのであるから、当然のように食

糧がいつも不足しているのである。このた

め、軍馬も慢性的な栄養不足に悩まされて

いるというわけである。

 

 西島隊に着任して、私はビックリした。

隊長はじめ将校の多くが、召集将校である。

年齢を聞いたわけではないが、召集前まで

役場の助役とか収入役をしていたという将

校がいたのだから、おおよその年齢が推測

できるのである。そしてまた、兵隊を見て

二度ビックリである。初年兵であるので風

貌が稚々としているのは当然であるが、そ

の体格が弱々しいのである。長い戦争によ

る日本国内の食糧の不足が、ようやく兵士

の体格の劣弱という形で表面化したのであ

るが、私は何ともいえない恐怖におそわれ

るのをどうすることもできなかった。

 

 とにかく私たちは、中年の召集隊長統率

のもと、弱々しい初年兵と病馬廠帰りの栄

養不良の軍馬三十八頭を連れて一月の某日、

苛烈な戦いが続いている前線へ向けて行軍

を開始した。その姿は、お世辞にも勇武凛

々といえるようなものではなかった。事故

は行軍初日から続出した。兵士と軍馬の落

伍である。道とは名ばかりの泥んこ道を、

体力気力不充分の初年兵が、重い装備を身

につけての行軍であれば、当初から予想さ

れたこととはいえ大変なことだった。部隊

ただ一人の若い兵科将校は、私と同じ学徒

出陣組の木村見習士官だったが、彼と私は、

決まって落伍兵士と落伍軍馬の収容が毎日

の仕事であった。ある日、こんなことがあ

った。

 

 宿営地に着いて、もうすぐ夕食という時

刻だった。突然「ドーン」という手榴弾の

爆発音である。すわ!敵襲かと、私はすぐ

に爆発音のほうに走った。ところがその音

は、兵士の手榴弾自殺の爆発音だった。兵

士の体は跡形もなかった。ちょうど生豆腐

を地面にたたきつけたように、肉片が付近

一面に散乱しているだけである。体力気力

尽きての覚悟の自殺にしては、少し早すぎ

る。まだまだ体力気力があるはずである。

しかし、現に兵士の体は散乱した肉片と化

している。当時の私には、死を急ぐ兵士の

気持ちを知る心の余裕はなかったが、今思

えば戦いの前途と自分の行末を悲観しての

死ではなかったかと思う。

 

 そしてその根本原因は、「戦いの意義」

を納得できないまま戦いに駆り出されたこ

とにあるのではないかと思う。昔から「女

は弱し、されど母は強し」といわれている

が、もしこの兵士に「母の子を思う心」と

同じ「戦いの意義」がしっかりと納得され

ていたとしたら、こんなにも死を急ぐこと

はなかったのではないかと思うのである。

しかし当時の日本は、戦争終結の見通しも

なくただ惰性で戦争を続けていたようなも

のだから、この兵士が「戦いの意義」を納

得できなかったとしても、それは当然であ

る。私は、やはり孫子のいう「道理のない

戦争は亡国への道」というのが正しいのだ

と思う。

 


 現在靖国神社には、戦争推進者も反対者

も、共に護国の神々として祀られている。

そして、この死を急いだ兵士も、同じよう

に靖国神社に祀られているにちがいない。

そしてまた一方では、私たち日本軍に殺さ

れた中国の軍民の数だけでも、千二百万人

にもなるという。私たち日本人は、一般に

心情的である。靖国の神々の遺族の心情を

理解できない日本人は、一人もいないと思

う。まして戦争が風化してしまった今日、

「国のため、一身を犠牲にして散った靖国

の神々」という時、誰がこのことに反対で

きるであろうか。しかし私たちはここで冷

静にならなければならない。「何が理由で

わが父、わが夫が、わが子が、わが兄弟が

靖国の神々になったのか」という、その根

源の理解である。

 

 前にも私は書いたが、多くの靖国の神々

は、生と死の間(はざま)にあってノタウ

チまわって死んでいったのである。そして、

その神々と私たちが殺傷死させた中国軍民

の数は、千二百万人にもなるというが、こ

れは決して簡単なことではない。もちろん

「靖国の英霊」などという美化された言葉

ですむ問題ではない。まして再軍備推進に、

この靖国の神々を利用しようなどという下

心が許されるはずがない。私は東京へ出る

たびに、できる限り靖国神社へ一人で参拝

する。そして、かつて戦友だった靖国の神

々と対話する。「つらかったろうなあ。ろ

くすっぽ食べたいものも食べずに死んでし

まって。青春を犠牲にして。学問や仕事を

犠牲にして。また、男なら誰もが願うであ

ろう、愛する女性と生きられなくて。そし

て、日本は負けてしまったんだ。そのうえ

私たちが殺した中国の軍民の数は、千二百

万人にもなるというではないか。何のウラ

ミもないのになあ」と。さらに私は、私た

ちが荒らしまわった中国の村や町に思いを

馳せるのである。私たちが殺した中国軍民

千二百万人という人数は、現在の東京都の

全人口に匹敵するのである。これはいった

いどういうことなんだ、と私の胸は癒しよ

うもなく疼くのである。

 

 

 行軍も日を重ねるにつれ、敵情がだんだ

んと険しくなってきた。岳州をすぎると、

わが軍の焼けただれた自動車の残骸が点々

とどこまでも続いている。また遠く近くで、

せわしい軽機関銃や小銃の音がひっきりな

しに聞こえてくる。私たちの西島隊は、初

年兵の前線追及だから戦闘部隊でない。し

たがって、長い行軍隊形のどこをつかれて

も大敗は間違いない。私たちは上空と敵襲

に気をくばりながら行軍を続けるのである

が、落伍兵士と落伍軍馬の続出は毎度のこ

とである。

 

 その日も天気は良かったが、行軍は難渋

だった。糧秣の欠乏が、ようやく兵士と軍

馬に表面化して、行軍隊形がだんだんと伸

びてきたのである。例によって私は、よろ

めく馬をあやしながら部隊の最後尾を大分

遅れて歩いていた。日はとっくに暮れて、

あたりは暗くなっている。行軍が難渋して、

明るいうちに着かねばならない目的地に予

定どおり到着できないのである。木村見習

士官は、落伍兵を収容しながら、私よりさ

にはるか後方を歩いているはずである。

何せ坐り込んで動かない兵を収容しての部

隊追及だから、大変なことであった。

 

 突然、「バァーン」という小銃の発射音

が後方でした。軽機関銃や小銃の音は毎度

のことなので、私は別に気にもしないで先

を急いだ。しかし、まもなく後方から足早

に私たちを追ってくる気配に気づいた。私

たちは、すぐに部隊に急を報せて後方に駆

けた。「何かあった」のである。私たちは、

木村見習士官の指揮する落伍兵収容の一団

にまもなく到達した。

 

 「チクショウ!  死ンデタマルカ!!  コン

ナコトデ死ナンゾ!!!」と叫んでいる声は、

木村見習士官である。三人ほどの兵が見習

士官の応急手当にあたっていたが、あとの

兵は古年兵の班長の指揮で付近に散開して

応戦隊形をとっていた。薄暗くてよく分か

らないが、胸に血がベットリとついている。

まもなく木村見習士官の「チクショウ !!

死ナンゾ!!!」という声が、とぎれてきた。

死んだのである。中国軍の便衣やゲリラが

日本軍の将校を狙い撃ちするという話は行

軍前から聞いていたが、木村見習士官はこ

れにやられたのである。私は仕事の関係で

ほとんど軍刀を身につけていなかったが、

木村見習士官は兵科将校である。軍刀を持

たない兵科将校などあるはずがないが、中

国の狙撃兵は、いつもこの腰の軍刀を将校

の目印として狙っていたのである。何とも

手痛い犠牲であった。

 

 どうやら私たちは、二か月かかってよう

やく目的地衝陽に着いた。私はここで西島

隊とも別れ、次の目的地宝慶に急ぐのであ

る。そして私はいくつかの出来事に遭いな

がら、やっと五月某日、私の原隊輜重兵第

一一六連隊に復帰した。だが連隊は芷江

戦でさんざんな敗戦にあい、自動車も馬も

一切合切中国軍にとられ、裸同然の惨状だ

った。馬部隊で連隊長の乗馬もないという

話はかつて一度も聞いたことがないが、そ

れが現実となったのだから何とも凄まじい

負け方である。私は連隊長に原隊復帰の申

告を終えると、すぐに T君の姿を求めた。

しかし、哀れ T君はすでに前の芷江作戦で

戦死していたのである。私は、 T君と最後

に会った日の T君の寂しそうな顔と、下北

沢の彼女がモンペの紐を堅く握り締めて嗚

咽をこらえていた顔を思い出した。

 

 軍馬のいない部隊に獣医官の必要はない。

原隊復帰の翌日、私は早くも独立山砲兵第

五連隊に転属を命じられた。連隊本部でそ

の部隊の所在地を聞いたが、「分からない」

と言う。そして、「将校だろう。自分で捜

してゆけ」と言う。「そうだ、私はもう輜

重兵第一一六連隊の人間ではないのだ。今

日からは、独立山砲兵第五連隊が私の部隊

であり、家である」と私は私の軽率な質問

を恥じた。とはいっても、独立山砲兵第五

連隊がどこにいるのか私には皆目分からな

いし、連隊本部の誰もが知らないと言う。

一方、芷江作戦で完全な勝利をおさめた米

式装備の中国軍の精鋭が、すぐ目の前まで

日本軍を追ってきている。今日もその小競

合いの銃砲の音が、しきりに聞こえてくる。

一晩連隊に泊めてもらった私は、翌早朝、

一人で連隊をあとにした。

 

 








 小社発行・『北陸の燈』第4号より


〈後記〉

 酒井與郎さんは、1922年生まれ。福井県

 大野市出身。旧制大野中学(現大野高校)・

 岐阜高等農林学校(現岐阜大学)獣医学科・

 陸軍獣医学校卒業。戦後、福井市で動物医

 院を開業。

 また、自らの戦争体験を通して、あの戦争

 とはいったい何だったのか、あの時、実際、

 いったい何が行われていたのか等、独学で

 調べ勉強しつづけてきた。小社主催「現代

 の声」講座第1回提言者(全2回提言)。


 残念ながら亡くなられましたが、ご存命で

 あれば、現在行われているワクチン接種の

 危険性を、獣医学の知見・見地・見識から、

 後世のため、率先して訴えられていたにち

 がいありません。


〈追記〉

 酒井さんと同世代の方々の登場する

   当講座記事

    5、ビルマ従軍当時を省みて

     40、秋

     41、秋の夕陽

     66、飢えながら

     81、一俘虜の今後の願い

 261、知られざる歴史「海に消えた布引丸」

 282、政治家の使命・戦争とスポーツ

   299、石田甚太郎『野の荊棘』跋文







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 【2024年1月8日配信】          お金から「いのち」の時代へ(10)             たくましくやさしき能登に光させ                    2024年3月11日              気仙沼市 菅野 千鶴子                              二隻だけでは足りない話にならない      被災者全員を救う方法を考えるべき    「五百年のひびき」   「日々是稽古」 .        輪島名舟の人たちへのインタビュー .    当講座記事NO.318 世界に範たる日本国になるには 強震モニタ .    地震情報 .                           緊急に避難所の設備充実を          大地震から一週間たった今、改めて 以下の記事を再掲します。   日本海側の原発の現況が気になります。  当講座記事 NO.296と 297で珠洲原発  のことに言及しました が、珠洲原発が  建設されていたらこの地震で日本列島  と朝鮮半島には人が住めなくなってい  たのではないでしょうか。珠洲原発を  絶対に安全だと主張して推進していた  関 西 電力、中部電力、北陸電力、経産  省、政府は 謝罪声明を出すべきだと思  います。    震災被災者の避難先に下記写真のように  ビニールハウスが何箇所かありました。  ここは個人や隣近所で自主的に避難した  場所だと思います。ビニールハウスは、  地震に強いのではないでしょうか。    また、私は高校時代、山岳部で部活動を    していたのでその経験からすれば、冬用    テント、ツエルト、シュラフ、ヤッケ、  ポンチョ、コッフェル、ラジウスなどの  山岳装備を キ スリングに入れておき、 か  つ、テントの張り方、炊事の仕方を日頃  から練習し、いつでも野営に備えていた  らいいのではないかと思いました。  もっともこれらに相当する準備は、国、  県、市町 村の首長や各議員が、常日頃か  ら個人の人権とプライバシーに心配りを  したうえで、率先してしなければならな  い極めて重要な政治の仕事であると思い  ます。特に今現在おこっている震災は、  何年も前から充分に予測できたことだけ  に、最低でも上記の準備だけはできたは  ずです。「残念」とか「遺憾

275. スポーツを文化にするために

【2022年10月10日配信】     交驩のエール     花開きつつあるエンジョイベースボール    「学生野球考」          慶應義塾大学野球部監督                   前田 祐吉      「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」 と いう元気な掛け声の間に、「カーン」と いう 快いバットの音がひびくグラウンドが 私の職 場である。だれもが真剣に野球に取 り組み、 どの顔もスポーツの喜びに輝いて いる。息子 ほどの年齢の青年たちに囲まれ、 好きな野球 に打ち込むことのできる私は、 つくづく、し あわせ者だと思う。  学生野球は教育の一環であるとか、野球 は人間形成の手段であるということがいわ れるが、私の場合、ほとんどそんな意識は ないし、まして自分が教育者だとも思わな い。どうしたらすべての野球部員がもっと 野球を楽しめるようになるのか、どうした らもっと強いチームになって、試合に勝ち、 選手と喜びを共にできるのか、ということ ばかり考えている。  野球に限らず、およそすべてのスポーツ は、好きな者同志が集まって、思いきり身 体を動かして楽しむためのもので、それに よって何の利益も求めないという、極めて 人間的な、文化の一形態である。百メート ルをどんなに早く走ろうと、ボールをどれ だけ遠くへカッ飛ばそうと、人間の実生活 には何の役にも立たない。しかし、短距離 走者はたった百分の一秒のタイムを縮める ために骨身をけずり、野球選手は十回の打 席にたった三本のヒットを打つために若い エネルギーを燃やす。その理由は、走るこ とが楽しく、打つことが面白いからにすぎ ない。さらにいえば、より早く走るための 努力の積み重ねが何物にも替えがたい喜び であり、より良く打つための苦心と練習そ のものに、生きがいが感じられるからであ る。  このように、スポーツは余暇を楽しみ、 生活を充実させるための手段で、それ以外 には何の目的もないはずである。むしろ目 的のないことがスポーツの特徴であり、試 合に勝つことや良い記録を出すことは、単 なる目標であって終局の目的ではない。  かつて超人的な猛練習でスピードスケー ト の王者といわれ、冬季オリンピックの金 メダルを独占したエリック・ハイデンは「 金メダルは私の人生の目的ではない。それ に至るプロセスの喜びが私

266. 混迷する現代と統一協会 

【2022年8月28日配信】        親友ヨッチにささげる手記          -最期まで友情を信じて-                  石川県河北郡津幡町                 書店員 22歳  酒井 由記子  人は、どんな人と巡り合うか、どんな本 と出会うかによって人生が決まってくると、 ある作家が述べていたのをふと思い出す。 私にとってはまさにそうであった。出会っ た人達も書物もとても大きな影響を残し、 忘れられない出来事となっていったのであ る。   一、高校生の頃  今から六年前(1977年)、私は金沢 二水高校の二年生であった。いや二年生と いうより吹奏楽部生というほうが適切であ るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。 みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン をして基礎固めをなして、全員そろって校 舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌 いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の 一致によって一つの音楽をつくり出すとい う喜びを存分に味わった私の青春時代の真 っ盛りであった。ただ残念なことは、部活 動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ ぱり力がはいらなかったことである。中学 生のときは、「進学校にはいるために」と いうただそれだけの目的で受験勉強ができ た。しかし、いざ高校にはいってみると、 また「いい大学にはいるために」と先生方 が口をすっぱくして押しまくる文句に素直 になれなかった。勉強する本当の意味が見 出せなかったのである。その頃から、私は 人間は何のために生きるのだろうかという ことまで突っ込んで考えるようになってい った。  父母が書店を経営しているため本は充分 にあり、書物を読むことによって答えを見 出そうとした。私の強い求めに応じるかの ように一冊の本が転がり込んできた。クリ スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ っての風』という随筆集であった。聖書の 言葉がそこに登場しており、それはズシリ と心に響いたのである。その本に魅せられ て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい った。しだいに私の魂は、人間をはるかに 越えた大いなる存在があることを感じてい った。確信までは至らなかったけれども、 それらの本によって金沢のプロテスタント の教会に足を運び、牧師さんのお話を聞く ようにもな

272. 「命」の新文化創造の世へ

【2022年10月4日配信】        学級通信「あいこでしょ」の願い                       小松市立稚松小学校              教諭 辰巳 国雄                                                                   題字 井上碧山さん (北九州市)         絵  本多千鶴子さん(金沢錦丘高校1年) 薪を負いて名定まる  背負い歩き考える二宮金治郎  ロダンの『考える人』よりもりっぱに思える 損得から尊徳の世へ 当講座記事NO.314 山下秀美、哲学の時代へ 同266 酒井由記子、混迷する現代と統一協会 同294 小原基子、おんな川にかかる橋 同303 今野ゆうひ、教え子を再び何処へ送るのか 同318 髙森文子、世界に範たる日本国になるには  学級文集とか、学級通信とか、学級機関 紙 といわれるもの を発行することを、教師 の仕 事の軸の一つに して実践を積み重ねて いる人 がずい分多いと 思う。  私は、学級通信(学級文集・学級機関紙 も 含めて)を発行してから、もう三十年近 くに なる。あるときは季刊であったり、月 間であ ったり、週刊であったり、日刊であ ったり、 その形はさまざまである。その一 年、一年で 形も異なり、内容も変わってき ている。大ざ っぱな言い方をすれば次のよ うになるだろう。  子どもたちの生活のなかみや、思いや考 え を、本音のところで知りたい。それは、 話す ということででもできるかも知れない が、数 十人の学級の子どもたち全員の本音 を知るこ とはむずかしい。話すことの不得 手な子でも 書くことによって本音を語って くれるだろう。 また書くことによって、さ らに、自分の生活 や、思いや考えを、見つ め直すことになり、 印刷されたものを通し て、学級のみんなの共 通の認識を得られる だろう。共通の認識を持 った学級集団(子 どもたち)は、それをステ ップに、学級集 団の文化を創り上げていく力 にするだろう。  これが、私の教育の大きな柱だった。こ う して始めた学級通信発行の仕事は、子ど もた ちの全面発達を願う私の教育実践のそ のとき そのときの証しともなるものになっ た。学級 通信が発行できなくなるというこ とは、私と 子どもた

280. 湯の人(4)現実と夢

 【2022年11月22日配信】   大きな便り                       加藤 蒼汰          秋とはいっても冬のような寒い夜だった。 浴室にはだれもおらず、脱衣場には番台に 座っている銭湯の主人と私ともうひとり。  その人は銭湯の近所の人であり、かつて 高校の教員をしていた。在職当時、馳浩・ 現石川県知事を教えていたと語っている。 八十歳を超えている。  この銭湯でよく顔を合わせ、会うたびに 知事の高校在学中のエピソードを繰り返す ので、私はその話の内容をすっかり諳んじ られるようになってしまった。高校入学時 から卒業までの様子、レスリング部での活 躍などであるが、私が特に感銘を受けた話 は、知事は高校時代、冬、雪が降り積もっ た朝には真っ先に早出登校して、生徒・教 職員を思いやり、校門から校舎玄関入り口 までの路をひとりスコップで雪かきをして いたというくだりである。  そんなすばらしい教え子をもつ元先生が、 服を脱ぎ裸になって浴室入り口に向かって 五、六歩あるきながら大便を三個落とした のである。気づかずに落ちたようなので、 私は「先生、落としもの」と声をかけると、 「ありりー、まったく気いつかんかった。 あはははは」と笑うのである。  私は、脇にあったチリトリでこの塊をす くいとり、「みごとな色と固さやね」と言 いながらトイレに流した。しかしながら、 脱衣場にはその匂いが全面に沁みわたり、 息が苦しくなるほどだった。このとき私は、 幼いころサーカスを見たときのことを思い だした。  それは曲芸をしていた象が巨大な大便の 塊を三個落とし、団員があわててスコップ で拾いあげていた光景であった。このとき の衝撃の記憶がよみがえり、私にとっさに チリトリを思いつかせたような気がする。 本を読んでいた番台の主人もその匂いで事 のいきさつに気づき、「匂いもすばらしい ね」と笑いながら脱衣場の窓を全開し床を 雑巾でふいてくれたが、その強力な匂いは 容易に消えなかった。  その間、先生は先に浴槽へ入り、気持ち よさそうに浸かっていた。私は先生と湯壺 にいっしょに漬かることに一瞬躊躇したが、 免疫機能が高まるまたとないチャンスでは ないかとの思いも何ゆえか突然こみあげて きて湯船に同席、お伴したしだいである。  「よくあることなんけ」と湯中、思わず
         柿岡 時正
         廣田 克昭
         酒井 與郎
         黒沢  靖
         神尾 和子
         前田 祐吉
         廣田 克昭
         伊藤 正孝
         柿岡 時正
         広瀬 心二郎
         七尾 政治
         辰巳 国雄
         大山 文人
         島田 清次郎
         鶴   彬
         西山 誠一
         荒木田 岳
         加納 韻泉
         沢田 喜誠
         島谷 吾六
         宮保 英明
         青木 晴美
         山本 智美
         匂  咲子
         浅井 恒子
         浜田 弥生
         遠田 千鶴子
         米谷 艶子
         大矢場 雅楽子
         舘田 信子
         酒井 由記子
         酒井 由記子
         竹内 緋紗子
         幸村  明
         梅  時雄
         家永 三郎
         下村 利明
         廣田 克昭
         早津 美寿々
         木村 美津子
         酒匂 浩三
         永原 百合子
         竹津 清樹
         階戸 陽太
         山本 孝志
         谷口 留美
         早津 美寿々
         坂井 耕吉
         伊佐田 哲朗
         舘田 志保
         中田 美保
         北崎 誠一
         森  鈴井
         正見  巖
         正見  巖
         貝野  亨
         竹内 緋紗子
         滋野 真祐美
         佐伯 正博
         広瀬 心二郎
         西野 雅治
         竹内 緋紗子
         早津 美寿々
         御堂河内 四市
         酒井 與郎
         石崎 光春
         小林 ときお
         小川 文人
         広瀬 心二郎
         波佐場 義隆
         石黒 優香里
         沖崎 信繁
         山浦  元
         船橋 夕有子
         米谷 艶子
       ジョアキン・モンテイロ
         遠藤  一
         谷野 あづさ
         梅田 喜代美
         小林 ときお
         中島 孝男
         中村 秀人
         竹内 緋紗子
         笠尾  実
         前田 佐智子
         桐生 和郎
         伊勢谷 業
         伊勢谷 功
         中川 清基
         北出  晃
         北出  晃
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         濱田 愛莉
         伊勢谷 功
         伊勢谷 功
         加納 実紀代
         細山田 三精
         杉浦 麻有子
         半田 ひとみ
         早津 美寿々
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         若林 忠司
         若林 忠司
         橋本 美濃里
         田代 真理子
         花水 真希
         村田 啓子
         滋野 弘美
         若林 忠司
         吉本 行光
         早津 美寿々
         竹内 緋紗子
         市来 信夫
         西田 瑤子
         西田 瑤子
         高木 智子
         金森 燁子
         坂本 淑絵
         小見山 薫子
         広瀬 心二郎
         横井 瑠璃子
         野川 信治朗
         黒谷 幸子
         福永 和恵
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         秋山 郁美
         加藤 蒼汰
         森本 比奈子
         森本 比奈子
         吉村 三七治
         石崎 光春
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         中野 喜佐雄
         八木  正
         堀  勇蔵
         家永 三郎
         広瀬 心二郎
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         石井 洋三
         小島 孝一
         キャリー・マディ
         谷本 誠一
         宇部  功
         竹内 緋紗子
         谷本 誠一
         酒井 伸雄
163、コロナ禍の医療現場リポート
         竹口 昌志
164、この世とコロナと生き方を問う
         小社発信記事
165、コロナの風向きを変える取材
         橋本 美濃里
166、英断の新聞意見広告
         小社発信記事
167、ワクチン接種をしてしまった方へ
         小社発信記事
168、真実と反骨の質問
         小社発信記事
169、世論を逆転する記者会見
         小社発信記事
170、世界に響けこの音この歌この踊り
         小社発信記事
171、命の責任はだれにあるのか
         小社発信記事
172、歌人・芦田高子を偲ぶ(1)
         若林 忠司
173、歌人・芦田高子を偲ぶ(2)
         若林 忠司
174、歌人・芦田高子を偲ぶ(3)
         若林 忠司
175、ノーマスク学校生活宣言
         こいわし広島
176、白山に秘められた日本建国の真実
         新井 信介
177、G線上のアリア
         石黒 優香里
178、世界最高の笑顔
         小社発信記事
179、不戦の誓い(2)
         酒井 與郎
180、不戦の誓い(3)
         酒井 與郎
181、不戦の誓い(4)
         酒井 與郎
182、まだ軍服を着せますか?
         小社発信記事
183、現代時事川柳(六)
         早津 美寿々
184、翡翠の里・高志の海原
         永井 則子
185、命のおくりもの
         竹津 美綺 
186、魔法の喫茶店
         小川 文人 
187、市民メディアの役割を考える
         馬場 禎子 
188、当季雑詠
         表 古主衣 
189、「緑」に因んで
         吉村 三七治 
190、「鶴彬」特別授業感想文
         小社発信記事
191、「社会の木鐸」を失った記事
         小社発信記事
192、朝露(아침이슬)
         坂本 淑絵
193、変わりつつある世論
         小社発信記事
194、ミニコミ紙「ローカル列車」
         赤井 武治
195、コロナの本当の本質を問う①
         矢田 嘉伸
196、秋
         鈴木 きく
197、コロナの本当の本質を問う②
         矢田 嘉伸
198、人間ロボットからの解放
         清水 世織
199、コロナの本当の本質を問う③
         矢田 嘉伸
200、蟹
         加納 韻泉
201、雨降る永東橋
         坂本 淑絵
202、総選挙をふりかえって
         岩井 奏太
203、ファイザーの論理
         小社発信記事
204、コロナの本当の本質を問う④
         矢田 嘉伸
205、湯の人(その2)
         加藤 蒼汰
206、コロナの本当の本質を問う⑤
         矢田 嘉伸
207、哲学の時代へ(第1回)
         小社発信記事
208、哲学の時代へ(第2回)
         小川 文人
209、コロナの本当の本質を問う⑥
         矢田 嘉伸
210、読者・投稿者の方々へお願い
         小社発信記事
211、哲学の時代へ(第3回)
         小社発信記事
212、哲学の時代へ(第4回)
         小社発信記事
213、小説『金澤夜景』(2)
         広瀬 心二郎
214、小説『金澤夜景』(3)
         広瀬 心二郎