不戦の誓い(4)
【2021年7月29日配信 NO.181】
死を急ぐ人々
酒井 與郎
私たち学徒動員組は、途中何の事故もな
く武昌に着いたが、その先は作戦地域なの
で、単独追及は不可能である。折よくそこ
へ、嵐兵団の補充要員として初年兵の追及
隊が、前線に急ぐのがあった。私たちは分
散して、追及隊と行を共にすることになっ
た。
私が配属されたのは福井・滋賀徴集の初
年兵の追及隊で、隊長は西島中尉といわれ
る中年の召集将校だった。何でも召集前ま
では、中学校の英語の先生だったらしい。
私の仕事は、追及隊の駄馬として参加する
軍馬三十八頭の衛生管理である。当初私は、
三十八頭という軍馬の少ないのにガッカリ
したが、まもなくそれが大変な仕事である
ことに気づくのである。
馬の受け取りに病馬廠(軍馬の病院)に
行け、と言う。三十八頭全部が、病馬廠の
退院馬なのである。馬の栄養は極度に悪か
ったし、体格もひどく見劣っていた。そし
て、年齢も十歳以上の馬ばかりである。歩
様(歩き方)も、何かしら危なっかしいの
である。
しかし、考えてみれば当然である。当時、
軍の糧秣(軍隊における人と馬の食糧)の
補給は、現地調達がその中心だった。言葉
でいえばただそれだけのことであるが、そ
の中身が問題である。ここでいう現地とは
敵地のことであるが、敵地といっても色々
ある。すでに日本軍に占領された地域で、
一応市民生活が開始されている地域もあれ
ば、まだ治安の確立されていない地域もあ
る。そしてまた、現に作戦行動中の地域も
ある。このようにおおよそ現地を三つに区
分されるのであるが、この地域で三百万に
もなろうという日本軍の人馬の食糧を調達
しようというのだから大変である。
ある地域では強制買い上げであり、また、
ある地域では略奪同然の調達行為が、作戦
の一部として日常行われていたのである。
何せ「奪って食え、奪って戦え」というの
だから日本軍とは大変な軍隊だった。敵国
民衆から収奪することによってのみたつ戦
争を大東亜共栄圏確立のための戦争といい、
聖戦と呼んでいたのだから、話にも何にも
ならないのである。しかし当時の国民は、
一部の人々を除きほとんどの者がこれを是
と信じて疑わなかったのだから、教育と世
論操作とは恐ろしいものである。それはと
もかく、日本軍占領下の中国(当時は支那
といっていた)である。当然農業生産が低
下している。そしてこれを中国民衆と日本
軍が分けるのであるから、当然のように食
糧がいつも不足しているのである。このた
め、軍馬も慢性的な栄養不足に悩まされて
いるというわけである。
西島隊に着任して、私はビックリした。
隊長はじめ将校の多くが、召集将校である。
年齢を聞いたわけではないが、召集前まで
役場の助役とか収入役をしていたという将
校がいたのだから、おおよその年齢が推測
できるのである。そしてまた、兵隊を見て
二度ビックリである。初年兵であるので風
貌が稚々としているのは当然であるが、そ
の体格が弱々しいのである。長い戦争によ
る日本国内の食糧の不足が、ようやく兵士
の体格の劣弱という形で表面化したのであ
るが、私は何ともいえない恐怖におそわれ
るのをどうすることもできなかった。
とにかく私たちは、中年の召集隊長統率
のもと、弱々しい初年兵と病馬廠帰りの栄
養不良の軍馬三十八頭を連れて一月の某日、
苛烈な戦いが続いている前線へ向けて行軍
を開始した。その姿は、お世辞にも勇武凛
々といえるようなものではなかった。事故
は行軍初日から続出した。兵士と軍馬の落
伍である。道とは名ばかりの泥んこ道を、
体力気力不充分の初年兵が、重い装備を身
につけての行軍であれば、当初から予想さ
れたこととはいえ大変なことだった。部隊
ただ一人の若い兵科将校は、私と同じ学徒
出陣組の木村見習士官だったが、彼と私は、
決まって落伍兵士と落伍軍馬の収容が毎日
の仕事であった。ある日、こんなことがあ
った。
宿営地に着いて、もうすぐ夕食という時
刻だった。突然「ドーン」という手榴弾の
爆発音である。すわ!敵襲かと、私はすぐ
に爆発音のほうに走った。ところがその音
は、兵士の手榴弾自殺の爆発音だった。兵
士の体は跡形もなかった。ちょうど生豆腐
を地面にたたきつけたように、肉片が付近
一面に散乱しているだけである。体力気力
尽きての覚悟の自殺にしては、少し早すぎ
る。まだまだ体力気力があるはずである。
しかし、現に兵士の体は散乱した肉片と化
している。当時の私には、死を急ぐ兵士の
気持ちを知る心の余裕はなかったが、今思
えば戦いの前途と自分の行末を悲観しての
死ではなかったかと思う。
そしてその根本原因は、「戦いの意義」
を納得できないまま戦いに駆り出されたこ
とにあるのではないかと思う。昔から「女
は弱し、されど母は強し」といわれている
が、もしこの兵士に「母の子を思う心」と
同じ「戦いの意義」がしっかりと納得され
ていたとしたら、こんなにも死を急ぐこと
はなかったのではないかと思うのである。
しかし当時の日本は、戦争終結の見通しも
なくただ惰性で戦争を続けていたようなも
のだから、この兵士が「戦いの意義」を納
得できなかったとしても、それは当然であ
る。私は、やはり孫子のいう「道理のない
戦争は亡国への道」というのが正しいのだ
と思う。
現在靖国神社には、戦争推進者も反対者
も、共に護国の神々として祀られている。
そして、この死を急いだ兵士も、同じよう
に靖国神社に祀られているにちがいない。
そしてまた一方では、私たち日本軍に殺さ
れた中国の軍民の数だけでも、千二百万人
にもなるという。私たち日本人は、一般に
心情的である。靖国の神々の遺族の心情を
理解できない日本人は、一人もいないと思
う。まして戦争が風化してしまった今日、
「国のため、一身を犠牲にして散った靖国
の神々」という時、誰がこのことに反対で
きるであろうか。しかし私たちはここで冷
静にならなければならない。「何が理由で
わが父、わが夫が、わが子が、わが兄弟が
靖国の神々になったのか」という、その根
源の理解である。
前にも私は書いたが、多くの靖国の神々
は、生と死の間(はざま)にあってノタウ
チまわって死んでいったのである。そして、
その神々と私たちが殺傷死させた中国軍民
の数は、千二百万人にもなるというが、こ
れは決して簡単なことではない。もちろん
「靖国の英霊」などという美化された言葉
ですむ問題ではない。まして再軍備推進に、
この靖国の神々を利用しようなどという下
心が許されるはずがない。私は東京へ出る
たびに、できる限り靖国神社へ一人で参拝
する。そして、かつて戦友だった靖国の神
々と対話する。「つらかったろうなあ。ろ
くすっぽ食べたいものも食べずに死んでし
まって。青春を犠牲にして。学問や仕事を
犠牲にして。また、男なら誰もが願うであ
ろう、愛する女性と生きられなくて。そし
て、日本は負けてしまったんだ。そのうえ
私たちが殺した中国の軍民の数は、千二百
万人にもなるというではないか。何のウラ
ミもないのになあ」と。さらに私は、私た
ちが荒らしまわった中国の村や町に思いを
馳せるのである。私たちが殺した中国軍民
千二百万人という人数は、現在の東京都の
全人口に匹敵するのである。これはいった
いどういうことなんだ、と私の胸は癒しよ
うもなく疼くのである。
行軍も日を重ねるにつれ、敵情がだんだ
んと険しくなってきた。岳州をすぎると、
わが軍の焼けただれた自動車の残骸が点々
とどこまでも続いている。また遠く近くで、
せわしい軽機関銃や小銃の音がひっきりな
しに聞こえてくる。私たちの西島隊は、初
年兵の前線追及だから戦闘部隊でない。し
たがって、長い行軍隊形のどこをつかれて
も大敗は間違いない。私たちは上空と敵襲
に気をくばりながら行軍を続けるのである
が、落伍兵士と落伍軍馬の続出は毎度のこ
とである。
その日も天気は良かったが、行軍は難渋
だった。糧秣の欠乏が、ようやく兵士と軍
馬に表面化して、行軍隊形がだんだんと伸
びてきたのである。例によって私は、よろ
めく馬をあやしながら部隊の最後尾を大分
遅れて歩いていた。日はとっくに暮れて、
あたりは暗くなっている。行軍が難渋して、
明るいうちに着かねばならない目的地に予
定どおり到着できないのである。木村見習
士官は、落伍兵を収容しながら、私よりさ
らにはるか後方を歩いているはずである。
何せ坐り込んで動かない兵を収容しての部
隊追及だから、大変なことであった。
突然、「バァーン」という小銃の発射音
が後方でした。軽機関銃や小銃の音は毎度
のことなので、私は別に気にもしないで先
を急いだ。しかし、まもなく後方から足早
に私たちを追ってくる気配に気づいた。私
たちは、すぐに部隊に急を報せて後方に駆
けた。「何かあった」のである。私たちは、
木村見習士官の指揮する落伍兵収容の一団
にまもなく到達した。
「チクショウ! 死ンデタマルカ!! コン
ナコトデ死ナンゾ!!!」と叫んでいる声は、
木村見習士官である。三人ほどの兵が見習
士官の応急手当にあたっていたが、あとの
兵は古年兵の班長の指揮で付近に散開して
応戦隊形をとっていた。薄暗くてよく分か
らないが、胸に血がベットリとついている。
まもなく木村見習士官の「チクショウ !!
死ナンゾ!!!」という声が、とぎれてきた。
死んだのである。中国軍の便衣やゲリラが
日本軍の将校を狙い撃ちするという話は行
軍前から聞いていたが、木村見習士官はこ
れにやられたのである。私は仕事の関係で
ほとんど軍刀を身につけていなかったが、
木村見習士官は兵科将校である。軍刀を持
たない兵科将校などあるはずがないが、中
国の狙撃兵は、いつもこの腰の軍刀を将校
の目印として狙っていたのである。何とも
手痛い犠牲であった。
どうやら私たちは、二か月かかってよう
やく目的地衝陽に着いた。私はここで西島
隊とも別れ、次の目的地宝慶に急ぐのであ
る。そして私はいくつかの出来事に遭いな
がら、やっと五月某日、私の原隊輜重兵第
一一六連隊に復帰した。だが連隊は芷江作
戦でさんざんな敗戦にあい、自動車も馬も
一切合切中国軍にとられ、裸同然の惨状だ
った。馬部隊で連隊長の乗馬もないという
話はかつて一度も聞いたことがないが、そ
れが現実となったのだから何とも凄まじい
負け方である。私は連隊長に原隊復帰の申
告を終えると、すぐに T君の姿を求めた。
しかし、哀れ T君はすでに前の芷江作戦で
戦死していたのである。私は、 T君と最後
に会った日の T君の寂しそうな顔と、下北
沢の彼女がモンペの紐を堅く握り締めて嗚
咽をこらえていた顔を思い出した。
軍馬のいない部隊に獣医官の必要はない。
原隊復帰の翌日、私は早くも独立山砲兵第
五連隊に転属を命じられた。連隊本部でそ
の部隊の所在地を聞いたが、「分からない」
と言う。そして、「将校だろう。自分で捜
してゆけ」と言う。「そうだ、私はもう輜
重兵第一一六連隊の人間ではないのだ。今
日からは、独立山砲兵第五連隊が私の部隊
であり、家である」と私は私の軽率な質問
を恥じた。とはいっても、独立山砲兵第五
連隊がどこにいるのか私には皆目分からな
いし、連隊本部の誰もが知らないと言う。
一方、芷江作戦で完全な勝利をおさめた米
式装備の中国軍の精鋭が、すぐ目の前まで
日本軍を追ってきている。今日もその小競
合いの銃砲の音が、しきりに聞こえてくる。
一晩連隊に泊めてもらった私は、翌早朝、
一人で連隊をあとにした。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
〈後記〉
酒井與郎さんは、1922年生まれ。福井県
大野市出身。旧制大野中学(現大野高校)・
岐阜高等農林学校(現岐阜大学)獣医学科・
陸軍獣医学校卒業。戦後、福井市で動物医
院を開業。
また、自らの戦争体験を通して、あの戦争
とはいったい何だったのか、あの時、実際、
いったい何が行われていたのか等、独学で
調べ勉強しつづけてきた。小社主催「現代
の声」講座第1回提言者(全2回提言)。
残念ながら亡くなられましたが、ご存命で
あれば、現在行われているワクチン接種の
危険性を、獣医学の知見・見地・見識から、
後世のため、率先して訴えられていたにち
がいありません。
〈追記〉
酒井さんと同世代の方々の登場する
当講座記事