安政の絶叫
【2020年10月6日配信 NO.35】
「七稲地蔵のことども」
石川県金沢市
郷土史家 梅 時雄
一、はじめに
金沢市橋場町から浅野川大橋を渡るとすぐ
右に卯辰山へ通ずる観音坂までの細長い道路
(元観音町、今は東山一丁目)があり、観音
坂にさしかかるほんの僅か手前に小さな尼寺
「寿経寺」がある。この寺の門前に稲を抱い
た七体の地蔵が安置されている。これが、い
わゆる「七稲地蔵」である。
私は子供の頃、父に連れられてよくこの界
隈を廻った。今は卯辰山へは主として天神橋
を渡って帰厚坂を選ぶが、私達の子供の頃は、
この観音坂か宇多須神社横の子来坂を登った
ものである。それゆえ、七稲地蔵のあらまし
については聞かされていたが、今でも年一、
二回用事がある時、この門前に詣でて、百数
十年前のことどもを想像して、犠牲となった
七人の方々の冥福を祈るのである。
二、七稲地蔵とは
七稲地蔵を出したこの界隈についての環境
から述べてみたい。
昔から、この界隈、卯辰千軒、大衆免千軒
といわれ、比較的貧しい人達が多く住んでい
たと考えられる。事件のあった安政五年(一
八五八年)は、初代藩主利家が入城してから
二百七十余年、明治維新から十年ばかり前の
頃である。
その年は、毎日のように冷たい雨が降り続
き、稲がさっぱりみのらず、七月にはいって
米の値段がグングン上がりだし、金沢の町の
人達は、「何とか役所から米を出して欲しい」
と願い出たが聞き届けてもらえず、そこで人
々はいろいろと相談したあげく、じかに殿様
に聞こえるようにしようと、七月十一日の夜、
二千人もの人達が卯辰山庚申塚に登った。
庚申塚の松林では、草むらに身をかがめ、
そうした町の人々の心の動きに思いを走らせ
ている男達がいた。原屋甚吉、能美屋佐吉、
高橋屋弥左衛門、越中屋宇兵衛、平田屋弥兵
衛、それに河原市屋文右衛門と北市屋市右衛
門の七人だった。それらの人々は何の権力も
持たない素手の町人達であった。
「四ツ半やぞおー」の叫び声を合図に、
「よし、やるまいか!」
こうして集まった人達は城と思われる方向
にむかって絶叫した。
「米が高いわいやあー」
「ひだるいわいやあー」
「米、くれまいやあー」
「食えんわいやあー」
「中納言さーん……米だせまいやあー」
「頼んまいやあー」
こうして絶叫は繰り返された。この絶叫は
次の日の夜も繰り返された。
この絶叫がとうとう殿様の耳にもはいり、
城の蔵の中にある米を安い値段で町の人達に
売るように、家来に命じた。町人達は大喜び
であった。
しかし、藩の役所では、騒動を起こしたこ
とをただではすまさなかった。そして、取り
調べのあげく前記の七人を捕らえて殺してし
まった。これを知った町の人達は、大層気の
毒に思い、その頃、卯辰茶屋町にいた綿津屋
政右衛門などの心遣いで、亡くなった七人の
霊をなぐさめるために、稲を抱いた七体のお
地蔵様を作って、卯辰山へ登る観音坂の道の
脇に建てた。
これが「七稲地蔵」と呼ばれ、やがて現地
の寿経寺に移り祀られたのである。
三、卯辰、大衆免界隈とは
金沢の町の北端の大衆免(だいじゅめ)は
農村地帯の一つであった。海星(ひとで)が
触手を伸ばしたように町がふくれはじめた頃、
飢饉などで流民化した百姓や貧しい商家の二
男や三男達が、この辺りに住みついた。中心
部のような大きな商家も宏壮な武家屋敷もな
かった。中でも大衆免七曲りと呼ばれる処な
どは、狭い路地が幾つにも折れ曲がり、低い
小さな文字どおりの掘立小屋のような家や棟
割り長屋が密集していた。
大衆免には、その日稼ぎの人足や職人、町
家の奉公人や小身の侍に奉公する小者、とい
った人々が圧倒的に多かった。ほとんどの家
が板ぶきの屋根で、風に吹き飛ばされないよ
うにごろた石を置き並べてある。
一方、卯辰のほうは、山裾近くの地域に、
とりわけ多くの寺院が集められた。一方には
大衆免と同じ人達が住んでいた。
今はかつての卯辰、大衆免の町々の家並み
はすっかり姿を変え、すべて瓦屋根になり、
その間に宏壮なビルが渾然と建っている。道
路も舗装されたが、その広さは安政の頃とさ
ほど変わっておらず、各家の前には、その家
に住む人のゆかしい心を偲ぶに足る色々の植
木鉢、草花の鉢が五つ六つ並んでいるのであ
る。
先日、『樋口一葉全集』の評伝を読んでみ
て一葉の一家が、東京本郷の菊坂町の借家に、
明治二十三年から二十六年まで、足かけ四年
程も暮らしていて、その界隈は大正の大震災
と第二次世界大戦の戦火を免れたため、広い
東京の中でも明治のたたずまいを偲ばせる数
少ない場所の一つであると書いてあったが、
大衆免の町にもそれと同じ場面が方々に見受
けられるのである。
大衆免の町中を歩いてみて、町家の二階の
両端に出ている壁で、袖というのを見受ける。
盗難や火災の予防のためで、道幅は狭く二メ
ートル余り、そのうえ、紆余曲折して迷路が
多く、傘をさしたら雨の日など二人並んで通
れない。旧態依然として、城下町のイメージ
をそのまま残して、深い郷愁と愛着をそそる
のである。
このような界隈の中で、庶民の「背に腹は
代えられぬ」という、どうにもならないとこ
ろから智慧がしぼられて、「安政の絶叫」が
生まれ、そして七人の尊い犠牲者が出たので
ある。終戦前後の数年間の厳しい食糧事情を
体験した者にとって、この悲劇の犠牲者に対
し、深い哀悼の念を禁じ得ないのである。
小社発行・『北陸の燈』創刊号より
追記・参考
当講座記事NO