「宗教」とは何か?(一)
【2021年1月3日配信 NO.95】
「迷信」と「宗教」について
伊勢谷 功
迷うのは人間だけである
「宗教」とは、元来「教えを宗(むね)と
する」ということですから、「仏さまの教え
やキリストの教えを、自分の生き方の中心に
据えて生きる」ということです。しかし、世
間一般では、宗教はもっと漠然とした意味で
考えられています。たとえば、うらないやま
じない、ご祈祷とか神だのみ、霊媒や霊鎮め、
浄霊・お清め・お祓い・神のお告げ等々……。
これらの中には、「宗教」のように見えるも
のもありますが、それらのほとんどが、私た
ち人間の「慾(よく)と無智(むち)」から
はじまった「迷信」や「迷い」にすぎないも
のです。
「迷い」は私たち「一人ひとりの無智」か
ら起こるものですが、「迷信」は「世の中の
無智」つまり「集団化した無智」から起こる
ものです。「無智」は、単に知識が乏しい(
無知)ということではなく、「真実を見る智
慧(ちえ)が無い」ということです。
ですから、仏教はまず、私たちを「迷いか
ら目覚めさせる智慧のはたらき」であるとい
えます。そしてもうひとつには、「慾を離れ
た慈悲のはたらき」なのです。
「慈悲」ということは「野心や下ごころを
もたずに相手を思うこころ」のことです。
この意味で、私たちが、こうした「うらな
いやまじない」「お祓いや神だのみ」などの
「迷信」から抜けだす(解脱する)ためには、
まず自分自身の「慾と無智」を問題にしなけ
ればなりません。つまりは、私たちの「慾と
無智」が迷いのもとなのです。
「霊(れい)」は、テレビの迷信
現代という時代は、無数の迷信が巷に満ち
あふれています。「バブル景気の崩壊後、土
地の神話が崩れた」などと、よくいわれまし
たが、「土地の神話」とは、つまり「土地の
迷信」ということです。
科学や医学への迷信・政治や経済への迷信・
自分の体力や健康に対する迷信……。これら
は、私たちが、「限界のあるものを無批判に
過信してしまう誤り」を、「神話」とか「迷
信」とかという言葉でいい当てたものです。
以前、民放テレビの「健康食品」番組で、
その効能の捏造が問題になりましたが、「テ
レビで放映していたから」ということだけで
鵜呑みにしてしまうとするならば、それこそ
が「テレビの迷信」というものです。
最近では、民法のテレビなどで「霊」とい
うことが話題になっています。これは「生き
ものは肉体と霊魂とから出来ていて、死によ
って肉体は滅びても、霊魂(たましい)は生
き続ける」という「霊魂不滅(れいこんふめ
つ)」といわれる考え方によるものです。
あやしげなタレントや自称専門家、そして
坊さんふうの男などがテレビなどに出てきて、
見てきたような話しをすると、ついつい信じ
てしまうのです。
これは、私たちが「死」ということについ
て、あまりにも無智であるために、その「無
智」につけこんで、嘘がまかり通っているか
らです。
仏教の結論からいえば、死者の霊とか霊の
祟りなどということは、人間の「無智と怖れ」
が考え出した「妄想」にすぎないのです。
「霊魂不滅」という迷い
この世に人間が出現して以来「霊魂不滅」
という考え方や教えが、多くの人々を迷わせ
てきました。人間以外の生きものには、こう
した迷いはありません。
これは、「死によって、肉体は滅びても、
霊魂は生き続ける」という考え方で、「人間
は霊魂と肉体が一体となって成立している」
という「思いこみ」から成り立っているので
す。つまり、「いのち」というものを、霊魂
と肉体との二つの要素に分けて、「死とは、
この二つが分離することである」と考えるわ
けです。
今日も、世界中で多くの人々がこの「霊魂
不滅」ということを信じていますが、お釈迦
さまは、この考え方こそが「私たちに、真実
の智慧と慈悲がないこと(無明)から起きる
迷いのもとである」と教えられました。
このように、お釈迦さまは、「真実を知ら
ず、真実を求めようともしない私たちの生き
方こそが迷いである」と説かれたのですが、
私たちの、真実を求めようとする意欲をさま
たげるものは、じつは「自分自身の煩悩」な
のです。私たちは、自らの煩悩のためには、
真実にさえ目を背けるのです。
その「煩悩」に従って生きている私たちに
とって、最も大きな打撃は「自分がいなくな
ること」です。つまり、私たちの煩悩にとっ
ては、自分の「死」ということ以上の打撃は
ないのです。そこで、「死後にも、何とかし
て、自分を存在させ続けたい」という空しい
願望が生み出した妄想の一つが、「霊魂不滅」
という迷いなのです。
「死後往生(おうじょう)」とは何か?
「死」によって、「自分というものがどこ
にもいなくなる」ということは、たしかに私
たちにとっては耐えがたいことなのですが、
これは、覚悟する以外にありません。じつは、
この覚悟するということによって、私たちの
生き方が変わってくるということが、仏教に
とっては最も大切な「第一歩」なのです。
このごろテレビなどで、よく、自分が死ん
だあと、先に亡くなった人と「あの世」でま
た会えるかのようなことをいっています。
葬儀の際の「弔辞」などでも、学問のあり
そうな人が、「あの世で、また会いましょう」
などというのを聞きます。火葬場でも、別れ
ぎわに、親族が「私もすぐ行くから待ってい
てね」などといっているのを、よく耳にしま
す。
亡くなって何年もたってから、「死んだお
じいちゃんは、ちゃんといいところへ行けた
かしら?」などといったりもします。現代の
キリスト教徒の多くが、死んだあとに「天国」
に行くことが救いだと思っています。
思想家の吉本隆明は、これを「永生願望(
永久に存在し続けたいという執着)」といっ
ています。生き残っているものにとっては、
時間は続いていますが、死んだものには、「
自分の死」以後には、時間は存在しません。
死ぬことによって、明日も明後日も永久にな
くなり、その人にとっての時間は、そこで終
わるのです。
私たちがそのことを明確にしない限り、「
浄土往生」は、「死んだら極楽に往(ゆ)く」
という、ただのおとぎ話かウソ話になってし
まうのです。人間の煩悩が「浄土」を都合よ
く解釈しているにすぎないのです。「浄土宗」
に「真」の一字を入れて「浄土真宗」とされ
た親鸞聖人の「念仏往生の救い」は、そこが、
分かれ目なのです。
「死者の霊」は祟るのか?
「浄霊」という言葉があります。「霊」に
祟(たた)られているために、よくないこと
が起きるので、その「霊」を浄(きよ)める
ことによって、災難を逃れようとすることで
す。
むかしの「芝居」などに、「魂魄(こんぱ
く)この世に留まりて」などという「せりふ」
が出てきますが、「死者のたましい」があの
世に往けずに、時折この世に出没して祟りを
なすというような「講談」や「落語」が、た
くさんあります。
「浄霊」という考え方は、自分に禍(わざ
わい)をもたらす「悪い霊」を祓い除きたい
ということであって、亡くなった人を供養し
たいという思いとはまったく異質なものなの
です。
「死者の霊」などというものが、実体的に
存在するはずはないのだということさえはっ
きりしていれば、人はそのような嘘に騙され
ることはないはずなのですが、人間の愚かさ
が、真実への目覚めをさまたげて、多くの人
が「霊の祟り」や「霊の信仰」にからめとら
れてきたというのが現状です。
事故で大勢の人が亡くなったりすると、「
集団慰霊祭」のようなことをする場合があり
ます。戦没者なども、毎年さまざまの団体が
「慰霊祭」を開催したりしています。
「慰霊祭」とは、亡くなった人の「霊を慰
(なぐさ)める祭」ということなのですが、
これらは何のためにするのでしょうか? 仏
教では「慰霊祭」をすることはありません。
では、仏教の行事として、「法事」は、何の
ために勤めるのでしょうか。
「真実の宗教」を求めよう
三十年ほど前、群馬県御巣鷹山に航空機が
墜落しました。毎年八月十二日には、遺家族
たちの多くが墜落の現場に出かけます。テレ
ビでは「遺族たちが、遺影やお花をもって、
墜落現場に集まり、亡き肉親の霊を慰めてい
ました」などと報道しています。
「霊を慰める」ということが、すでに決ま
りきったこととして報道される「常識の無智」
ーーこれが、現代日本人の一般的な宗教観な
のでしょうが、日本のジャーナリズムの知性
と見識の乏しさを痛感させられます。
またニュースや報道番組では、初詣でには
じまって、合格祈願や交通安全祈願、そして
能登の「あえのこと」のような各地の季節行
事やお祭りにいたるまで、じつに多くの神事
や仏事が放送されますが、アナウンサーや原
稿執筆者は、自分たちが、いかに低俗な宗教
理解に基づく説明や、事実無根の御利益の宣
伝をしているか、ということに気づいていな
いようです。
今日、多くの日本人がイメージする「宗教」
は、御利益信仰・祟り鎮め・死者供養・勧善
懲悪、そして、せいぜいが哲学的教養か精神
鍛錬などとして理解されています。しかしこ
れらのすべては、「真実の救い」ではなく、
ただの「処世術」にすぎないとして、親鸞聖
人によって否定されたものであることを忘れ
てはなりません。
そして、こうした日本人の宗教に対する理
解の低俗さは、寺院や僧侶の「無信仰」と「
経営主義」(怠慢と堕落)によるものである
ことを思い知らねばならないでしょう。
人間の「賢さ」と「愚かさ」
私たちはいつも、将来に良い結果を得よう
と、さまざまな努力や工夫をしています。人
間以外にも、目標に向かって、その達成のた
めに「正当な」努力を試みる生きものは無数
にいます。
しかし人間には、他の生きものとちがって、
非常に愚かなところがあります。それは、「
正当な」努力以外に、まったく見当はずれな
工夫を試みることです。たとえば、うらない
やまじない、神だのみなど、これらは、賢い
はずの人間が考え出した、きわめて愚かな行
為なのです。日本では、科学者が大勢集まっ
て、人工衛星を打ち上げるのに、神主にお祓
いをさせたりしています。
また、人間は「善(よ)いこと」をすれば、
「好(よ)い結果」が得られるのではないか、
と期待します。しかし、「善行」と「御利益
(ごりやく)」のあいだには何らの因果関係
もありません。むしろ「正直者は馬鹿を見る」
とか「悪い奴ほどよく眠る」などということ
わざは、江戸時代からいわれてきました。し
かも、ここでいう「善いこと」とは、限られ
た時代や地域の一般通念で「善とされている
こと」であり、「好い結果」というのは、自
分たちに「都合の好いこと」ということです。
人間以外の生きものは、愚かなりに「正当
な」努力のみを試みますが、人間は彼らより
賢いはずなのに「愚かなこと」を考えます。
お釈迦さまは、このような考えは、因果の道
理を無視した、人間の傲慢さであると教えら
れました。宗教によって「救われる」という
ことは、まず第一に、自分自身の愚かさと傲
慢さから「救われる」ということなのです。
「平安時代」の民衆の宗教
親鸞聖人が誕生されたのは、いまから八四
〇年あまり前の、平安時代末期のころでした。
当時の一般庶民たちは、貴族階級による支配
体制のなかで、抑圧と貧困による地獄の苦し
みを強いられていました。世の中は「一寸先
は闇」といわれるように、地震や大火があい
つぎ、戦乱や飢餓が絶えることなく、その上、
疫病が蔓延して、この世はまさに生き地獄さ
ながらであったのです。
ひとびとが生き延びるためには、善悪をわ
きまえるゆとりもなく、死んだあとにも、こ
のような彼らを待ち受けるのは「地獄の責め
苦」以外にはないのだと教えこまれてきまし
た。まさに名もなき庶民は、「生きるも地獄、
死んでも地獄」という「苦」の人生を生き死
にしていったのです。
自分たちの人生から「禍をしりぞけ、福を
招き寄せたい」という欲求は、人間誰しもが
抱く当然の思いだともいえますが、これを現
実生活で実現するために「神仏」を味方につ
けて「御利益」を獲得しようという宗教を、
親鸞聖人は「罪福信仰」として否定されまし
た。いわゆる「御利益信仰」とか「おねだり
信仰」とかというものです。このような人間
の欲望を手伝う「神仏(かみほとけ)」が、
現実に存在するはずがありません。
私たちが、現実社会に目を開くならば、今
日のように自然科学や医療技術が発達した時
代に、いまだにこうした低俗な「御利益信仰」
を捨てきれない人たちが、あまりにも多いこ
とに驚きます。
「祟り鎮め」と「死者供養」
仏教が伝来した奈良・平安の時代、天皇や
貴族階級の人たちは、自身の名利栄達のため
にライバルを陥れたり殺害したりして手に入
れた「地位」を守るために、かつて抹殺した
政敵を「手厚く葬る」という、いわば「死者
の供養」ということを盛んに行ないました。
彼らは「人は死後にも、生前の怨(うら)み
をはらすために、怨霊(おんりょう)となっ
て災禍をもたらす」という怖れから、僧侶に
「怨霊退散」や「祟り鎮(しず)め」のため
の「読経(どきょう)」をさせ、「死者」を
供養することによって、死者たちの往生成仏
を祈りました。
また庶民は、「死後の地獄」を免れるため
に、精進潔斎(けっさい)や念仏三昧(さん
まい)などの善根功徳(くどく)を積むこと
によって、死後には、極楽浄土に往生できる
よう、仏のお慈悲にすがろうとしたわけです。
以上のように、遥か八四〇年むかしの平安
末期、支配階級の掌の中(てのうち)にあっ
て、仏教からは見捨てられた人々が、淡い期
待を寄せた「救い」とはどのようなものであ
ったのかをふり返ってみますと、現代に生き
る私たちが、こうした「真宗以前の迷いや誤
り」をそのまま受け継いでいることに気づか
せられます。
いまだに地上にあふれている「御利益信仰」。
そして、読経による「祟り鎮め」、「死者供
養」や「死後の極楽往生」など。法然上人や
親鸞聖人のご苦労の甲斐もなく、「本願念仏
による真実の救い」からは遠く隔たって、私
たちは、浄土真宗以前の迷いの中を、いまも
なお、さまよい続けているのです。そして、
その責任の大半が、真宗の寺院や僧侶にある
ことを忘れてはなりません。
「自己の死」によってすべてを終えて行か
ねばならない人生にとって、自分たちの安泰
や名利栄達などというものよりもっと大切な
もののために生きた人たちがあったことを知
ること、そしてその足跡をたどろうとするこ
とから、真実の宗教がはじまるのです。
私たちは、すでに法然没後八〇〇年、親鸞
滅後七五〇年の時代を越えました。現代を生
きる私たちに与えられた責務は、法然上人・
親鸞聖人による「本願念仏の教え」が、真に
現代人に救いをもたらすか否かを、身を以て
明かすこと以外にはありません。
〈参考〉
当講座 NO.88、96 にも伊勢谷功さんの
記事掲載。
併せて、NO.15、16、34、70、76、77、
87、89の記事も参照していただきたい。