「宗教」とは何か?(一)

【2021年1月3日配信 NO.95】

「迷信」と「宗教」について



           伊勢谷  功         


 迷うのは人間だけである

 「宗教」とは、元来「教えを宗(むね)と

する」ということですから、「仏さまの教え

やキリストの教えを、自分の生き方の中心に

据えて生きる」ということです。しかし、世

間一般では、宗教はもっと漠然とした意味で

考えられています。たとえば、うらないやま

じない、ご祈祷とか神だのみ、霊媒や霊鎮め、

浄霊・お清め・お祓い・神のお告げ等々……。

これらの中には、「宗教」のように見えるも

のもありますが、それらのほとんどが、私た

ち人間の「慾(よく)と無智(むち)」から

はじまった「迷信」や「迷い」にすぎないも

のです。


 「迷い」は私たち「一人ひとりの無智」か

ら起こるものですが、「迷信」は「世の中の

無智」つまり「集団化した無智」から起こる

ものです。「無智」は、単に知識が乏しい(

無知)ということではなく、「真実を見る智

慧(ちえ)が無い」ということです。


 ですから、仏教はまず、私たちを「迷いか

ら目覚めさせる智慧のはたらき」であるとい

えます。そしてもうひとつには、「慾を離れ

た慈悲のはたらき」なのです。


 「慈悲」ということは「野心や下ごころを

もたずに相手を思うこころ」のことです。


 この意味で、私たちが、こうした「うらな

いやまじない」「お祓いや神だのみ」などの

「迷信」から抜けだす(解脱する)ためには、

まず自分自身の「慾と無智」を問題にしなけ

ればなりません。つまりは、私たちの「慾と

無智」が迷いのもとなのです。


 「霊(れい)」は、テレビの迷信

 現代という時代は、無数の迷信が巷に満ち

あふれています。「バブル景気の崩壊後、土

地の神話が崩れた」などと、よくいわれまし

たが、「土地の神話」とは、つまり「土地の

迷信」ということです。


 科学や医学への迷信・政治や経済への迷信・

自分の体力や健康に対する迷信……。これら

は、私たちが、「限界のあるものを無批判に

過信してしまう誤り」を、「神話」とか「迷

信」とかという言葉でいい当てたものです。


 以前、民放テレビの「健康食品」番組で、

その効能の捏造が問題になりましたが、「テ

レビで放映していたから」ということだけで

鵜呑みにしてしまうとするならば、それこそ

が「テレビの迷信」というものです。


 最近では、民法のテレビなどで「霊」とい

うことが話題になっています。これは「生き

ものは肉体と霊魂とから出来ていて、死によ

って肉体は滅びても、霊魂(たましい)は生

き続ける」という「霊魂不滅(れいこんふめ

つ)」といわれる考え方によるものです。


 あやしげなタレントや自称専門家、そして

坊さんふうの男などがテレビなどに出てきて、

見てきたような話しをすると、ついつい信じ

てしまうのです。


 これは、私たちが「死」ということについ

て、あまりにも無智であるために、その「無

智」につけこんで、嘘がまかり通っているか

らです。


 仏教の結論からいえば、死者の霊とか霊の

祟りなどということは、人間の「無智と怖れ」

が考え出した「妄想」にすぎないのです。


 「霊魂不滅」という迷い

 この世に人間が出現して以来「霊魂不滅」

という考え方や教えが、多くの人々を迷わせ

てきました。人間以外の生きものには、こう

した迷いはありません。


 これは、「死によって、肉体は滅びても、

霊魂は生き続ける」という考え方で、「人間

は霊魂と肉体が一体となって成立している」

という「思いこみ」から成り立っているので

す。つまり、「いのち」というものを、霊魂

と肉体との二つの要素に分けて、「死とは、

この二つが分離することである」と考えるわ

けです。


 今日も、世界中で多くの人々がこの「霊魂

不滅」ということを信じていますが、お釈迦

さまは、この考え方こそが「私たちに、真実

の智慧と慈悲がないこと(無明)から起きる

迷いのもとである」と教えられました。



 このように、お釈迦さまは、「真実を知ら

ず、真実を求めようともしない私たちの生き

方こそが迷いである」と説かれたのですが、

私たちの、真実を求めようとする意欲をさま

たげるものは、じつは「自分自身の煩悩」な

のです。私たちは、自らの煩悩のためには、

真実にさえ目を背けるのです。


 その「煩悩」に従って生きている私たちに

とって、最も大きな打撃は「自分がいなくな

ること」です。つまり、私たちの煩悩にとっ

ては、自分の「死」ということ以上の打撃は

ないのです。そこで、「死後にも、何とかし

て、自分を存在させ続けたい」という空しい

願望が生み出した妄想の一つが、「霊魂不滅」

という迷いなのです。


 「死後往生(おうじょう)」とは何か?

 「死」によって、「自分というものがどこ

にもいなくなる」ということは、たしかに私

たちにとっては耐えがたいことなのですが、

これは、覚悟する以外にありません。じつは、

この覚悟するということによって、私たちの

生き方が変わってくるということが、仏教に

とっては最も大切な「第一歩」なのです。


 このごろテレビなどで、よく、自分が死ん

だあと、先に亡くなった人と「あの世」でま

た会えるかのようなことをいっています。


 葬儀の際の「弔辞」などでも、学問のあり

そうな人が、「あの世で、また会いましょう」

などというのを聞きます。火葬場でも、別れ

ぎわに、親族が「私もすぐ行くから待ってい

てね」などといっているのを、よく耳にしま

す。


 亡くなって何年もたってから、「死んだお

じいちゃんは、ちゃんといいところへ行けた

かしら?」などといったりもします。現代の

キリスト教徒の多くが、死んだあとに「天国」

に行くことが救いだと思っています。


 思想家の吉本隆明は、これを「永生願望(

永久に存在し続けたいという執着)」といっ

ています。生き残っているものにとっては、

時間は続いていますが、死んだものには、「

自分の死」以後には、時間は存在しません。

死ぬことによって、明日も明後日も永久にな

くなり、その人にとっての時間は、そこで終

わるのです。


 私たちがそのことを明確にしない限り、「

浄土往生」は、「死んだら極楽に往(ゆ)く」

という、ただのおとぎ話かウソ話になってし

まうのです。人間の煩悩が「浄土」を都合よ

く解釈しているにすぎないのです。「浄土宗」

に「真」の一字を入れて「浄土真宗」とされ

た親鸞聖人の「念仏往生の救い」は、そこが、

分かれ目なのです。


 「死者の霊」は祟るのか?

 「浄霊」という言葉があります。「霊」に

祟(たた)られているために、よくないこと

が起きるので、その「霊」を浄(きよ)める

ことによって、災難を逃れようとすることで

す。


 むかしの「芝居」などに、「魂魄(こんぱ

く)この世に留まりて」などという「せりふ」

が出てきますが、「死者のたましい」があの

世に往けずに、時折この世に出没して祟りを

なすというような「講談」や「落語」が、た

くさんあります。


 「浄霊」という考え方は、自分に禍(わざ

わい)をもたらす「悪い霊」を祓い除きたい

ということであって、亡くなった人を供養し

たいという思いとはまったく異質なものなの

です。


 「死者の霊」などというものが、実体的に

存在するはずはないのだということさえはっ

きりしていれば、人はそのような嘘に騙され

ることはないはずなのですが、人間の愚かさ

が、真実への目覚めをさまたげて、多くの人

が「霊の祟り」や「霊の信仰」にからめとら

れてきたというのが現状です。


 事故で大勢の人が亡くなったりすると、「

集団慰霊祭」のようなことをする場合があり

ます。戦没者なども、毎年さまざまの団体が

「慰霊祭」を開催したりしています。


 「慰霊祭」とは、亡くなった人の「霊を慰

(なぐさ)める祭」ということなのですが、

これらは何のためにするのでしょうか? 仏

教では「慰霊祭」をすることはありません。

では、仏教の行事として、「法事」は、何の

ために勤めるのでしょうか。


 「真実の宗教」を求めよう

 三十年ほど前、群馬県御巣鷹山に航空機が

墜落しました。毎年八月十二日には、遺家族

たちの多くが墜落の現場に出かけます。テレ

ビでは「遺族たちが、遺影やお花をもって、

墜落現場に集まり、亡き肉親の霊を慰めてい

ました」などと報道しています。


 「霊を慰める」ということが、すでに決ま

りきったこととして報道される「常識の無智」

ーーこれが、現代日本人の一般的な宗教観な

のでしょうが、日本のジャーナリズムの知性

と見識の乏しさを痛感させられます。


 またニュースや報道番組では、初詣でには

じまって、合格祈願や交通安全祈願、そして

能登の「あえのこと」のような各地の季節行

事やお祭りにいたるまで、じつに多くの神事

や仏事が放送されますが、アナウンサーや原

稿執筆者は、自分たちが、いかに低俗な宗教

理解に基づく説明や、事実無根の御利益の宣

伝をしているか、ということに気づいていな

いようです。


 今日、多くの日本人がイメージする「宗教」

は、御利益信仰・祟り鎮め・死者供養・勧善

懲悪、そして、せいぜいが哲学的教養か精神

鍛錬などとして理解されています。しかしこ

れらのすべては、「真実の救い」ではなく、

ただの「処世術」にすぎないとして、親鸞聖

人によって否定されたものであることを忘れ

てはなりません。


 そして、こうした日本人の宗教に対する理

解の低俗さは、寺院や僧侶の「無信仰」と「

経営主義」(怠慢と堕落)によるものである

ことを思い知らねばならないでしょう。


 人間の「賢さ」と「愚かさ」

 私たちはいつも、将来に良い結果を得よう

と、さまざまな努力や工夫をしています。人

間以外にも、目標に向かって、その達成のた

めに「正当な」努力を試みる生きものは無数

にいます。


 しかし人間には、他の生きものとちがって、

非常に愚かなところがあります。それは、「

正当な」努力以外に、まったく見当はずれな

工夫を試みることです。たとえば、うらない

やまじない、神だのみなど、これらは、賢い

はずの人間が考え出した、きわめて愚かな行

為なのです。日本では、科学者が大勢集まっ

て、人工衛星を打ち上げるのに、神主にお祓

いをさせたりしています。


 また、人間は「善(よ)いこと」をすれば、

「好(よ)い結果」が得られるのではないか、

と期待します。しかし、「善行」と「御利益

(ごりやく)」のあいだには何らの因果関係

もありません。むしろ「正直者は馬鹿を見る」

とか「悪い奴ほどよく眠る」などということ

わざは、江戸時代からいわれてきました。し

かも、ここでいう「善いこと」とは、限られ

た時代や地域の一般通念で「善とされている

こと」であり、「好い結果」というのは、自

分たちに「都合の好いこと」ということです。


 人間以外の生きものは、愚かなりに「正当

な」努力のみを試みますが、人間は彼らより

賢いはずなのに「愚かなこと」を考えます。

お釈迦さまは、このような考えは、因果の道

理を無視した、人間の傲慢さであると教えら

れました。宗教によって「救われる」という

ことは、まず第一に、自分自身の愚かさと傲

慢さから「救われる」ということなのです。


 「平安時代」の民衆の宗教

 親鸞聖人が誕生されたのは、いまから八四

〇年あまり前の、平安時代末期のころでした。

当時の一般庶民たちは、貴族階級による支配

体制のなかで、抑圧と貧困による地獄の苦し

みを強いられていました。世の中は「一寸先

は闇」といわれるように、地震や大火があい

つぎ、戦乱や飢餓が絶えることなく、その上、

疫病が蔓延して、この世はまさに生き地獄さ

ながらであったのです。


 ひとびとが生き延びるためには、善悪をわ

きまえるゆとりもなく、死んだあとにも、こ

のような彼らを待ち受けるのは「地獄の責め

苦」以外にはないのだと教えこまれてきまし

た。まさに名もなき庶民は、「生きるも地獄、

死んでも地獄」という「苦」の人生を生き死

にしていったのです。


 自分たちの人生から「禍をしりぞけ、福を

招き寄せたい」という欲求は、人間誰しもが

抱く当然の思いだともいえますが、これを現

実生活で実現するために「神仏」を味方につ

けて「御利益」を獲得しようという宗教を、

親鸞聖人は「罪福信仰」として否定されまし

た。いわゆる「御利益信仰」とか「おねだり

信仰」とかというものです。このような人間

の欲望を手伝う「神仏(かみほとけ)」が、

現実に存在するはずがありません。


 私たちが、現実社会に目を開くならば、今

日のように自然科学や医療技術が発達した時

代に、いまだにこうした低俗な「御利益信仰」

を捨てきれない人たちが、あまりにも多いこ

とに驚きます。


 「祟り鎮め」と「死者供養」

 仏教が伝来した奈良・平安の時代、天皇や

貴族階級の人たちは、自身の名利栄達のため

にライバルを陥れたり殺害したりして手に入

れた「地位」を守るために、かつて抹殺した

政敵を「手厚く葬る」という、いわば「死者

の供養」ということを盛んに行ないました。

彼らは「人は死後にも、生前の怨(うら)み

をはらすために、怨霊(おんりょう)となっ

て災禍をもたらす」という怖れから、僧侶に

「怨霊退散」や「祟り鎮(しず)め」のため

の「読経(どきょう)」をさせ、「死者」を

供養することによって、死者たちの往生成仏

を祈りました。


 また庶民は、「死後の地獄」を免れるため

に、精進潔斎(けっさい)や念仏三昧(さん

まい)などの善根功徳(くどく)を積むこと

によって、死後には、極楽浄土に往生できる

よう、仏のお慈悲にすがろうとしたわけです。


 以上のように、遥か八四〇年むかしの平安

末期、支配階級の掌の中(てのうち)にあっ

て、仏教からは見捨てられた人々が、淡い期

待を寄せた「救い」とはどのようなものであ

ったのかをふり返ってみますと、現代に生き

る私たちが、こうした「真宗以前の迷いや誤

り」をそのまま受け継いでいることに気づか

せられます。



 いまだに地上にあふれている「御利益信仰」。

そして、読経による「祟り鎮め」、「死者供

養」や「死後の極楽往生」など。法然上人や

親鸞聖人のご苦労の甲斐もなく、「本願念仏

による真実の救い」からは遠く隔たって、私

たちは、浄土真宗以前の迷いの中を、いまも

なお、さまよい続けているのです。そして、

その責任の大半が、真宗の寺院や僧侶にある

ことを忘れてはなりません。


 「自己の死」によってすべてを終えて行か

ねばならない人生にとって、自分たちの安泰

や名利栄達などというものよりもっと大切な

もののために生きた人たちがあったことを知

ること、そしてその足跡をたどろうとするこ

とから、真実の宗教がはじまるのです。


 私たちは、すでに法然没後八〇〇年、親鸞

滅後七五〇年の時代を越えました。現代を生

きる私たちに与えられた責務は、法然上人・

親鸞聖人による「本願念仏の教え」が、真に

現代人に救いをもたらすか否かを、身を以て

明かすこと以外にはありません。











〈参考〉

 当講座 NO.88、96 にも伊勢谷功さんの

 記事掲載。

   併せて、NO.15、16、34、70、76、77、

 87、89の記事も参照していただきたい。


人気の記事(過去30日)

338. 初めての方へ・記事項目と開き方

【2024年4月20日配信】小社発信記事 当講座記事NO.300の続き 来たる時代への提言(1)      来たる時代への提言(2)         日本の重心富山県沖、大陸から見た日本        みんな仲良く      (富山県作成)                                            261 知られざる歴史「海に消えた布引丸」   267 連帯はいかにして可能か・日本人の気骨 . 318 世界に範たる日本国になるには .     久慈あさみ『ブンガワン・ソロ』 同題名映画で歌う アレクサンドラ・ベリコヴァ『鶴 (Журавли)』 『碑木』   신영옥 (シンヨンオク・申英玉)が歌う                          立山、劔岳、虻ヶ 島、鳥、色、紫雲、富山湾     上杉謙信、菅原道真、大伴家持も欲した景色    鳥の位置が立山頂上、世界で三ヶ処の海越景     2023.2.22 撮影  氷見市 木偶乃坊写楽斎さん                 灘浦小学校校歌合唱 - 同校全児童           曹秀美が歌う『クリウン金剛山』         写真の右横をクリックすると拡大できます。             さらにクリックするとさらに拡大できます。                             「現代の声」講座全記事項目の紹介 NO. 223、「職」に関する記事 314、「哲学」に関する記事 227、「コロナ」に関する記事 228、「スポーツ」に関する記事 229、「自然」に関する記事 230、「教育」に関する記事 231、「歌」「音」「踊り」「情」に関する記事 232、「歴史」「非戦」に関する記事 233、「人文」「人権」「人道」に関する記事 170、   世界に響けこの音この歌この踊り 237、   当講座登場作家とその作品・書籍紹介 240、   当講座推薦動画・ツイッターXなど紹介 290、   川柳、俳句、短歌、和歌、詩、小説紹介 当講座記事の開き方  「現代の声」講座へアクセスをいただき 有り難うございます。 NO. 300の記事でも 紹介しましたが、改めて以下のとおり再度 記します。  この講座の趣旨は、「講座の開設にあた って」を見ていただければ幸いです。  当講座を自由に

224. 天と地をつなぐ「おわらの風」

【2022年1月22日配信】   大寒           七尾市 石島 瑞枝             雪解けの春風を待つ坂の町               秋風 (2023.9.3)            横浜市 髙祖 路子    夜流しの音色に染まる坂の街                         鏡町地方衆、先人のご苦労をしのびその息吹に応える夜流し .  今町のおわら .      2023.9.3 最終日、西町青年団最終おわらの舞い .                               撮影 木偶乃坊写楽斎さん         〈参考〉                               越中八尾おわら風の盆               「深夜の夜ながし」      日本と日本人が失くしてしまった、  奪 われてしまった温かい心情、 郷愁  --それらを求めて各地から 数多の  見物者 が、 魅入られたかのように、  取りもどす か の ように八尾へ と 足を  運 ぶ の だろうか。  高橋治と石川さゆりの『風の盆恋歌』  の影響が大きいとも八尾ではいわれ  て いる。言葉と 歌の 力のすごさか。  事実、この 歌 の前と後とでは、風の  盆訪問 者 数に圧倒的な差がある。  紅白で、「命を賭けてくつ がえす」  と、着物の 袖 を 強く 握りしめ 揺さぶ  り ながらうた った 「くつがえす」の  一語の中に、日本の 歌手 として歩ん  できた 石川さゆりの、 自 らの心の奥  底にある深い 懐 いをも 包んだ 全 情念  が 込め ら れて い る。  旅人の多くが八尾に滞在してい る中、  わずかのさすがの通だけが、おわら  本来 の良 さ が漂っている深夜の夜流  し の、 後ろ姿を見ている。個性 ある  いで たちもすばらしい。  おわらは見せるものなのか、見られ  るこ とを意識すらせずに心ゆく まで  自ら楽しむものなのか。あるいはま  た、…… …… 高橋治と 石川さゆりは、  諸々のことを考える、見直すための  たいへ ん な「契機」 を 与 えて くれ た  ので ある 。    個人的な所感を述べれば、おわらは  縄文と江戸の文化が八尾で花開いた  ような気がする。  (当講座編集人)    鏡町の踊りに魅入

328. ふるさとなまり

 【2024年1月28日配信】   おばばの言葉                       白山市 番匠 俊行                                私の両親は石川県石川郡美川町(現白山 市)に生まれ育ちました。両親のそれぞれ の両親も同町の生まれ、育ちです。除籍簿 を見ると、私の先祖は全員、明治初期から 同町の住人でした。  私は高校時代まで美川で育ち、そのあと 関東の大学を卒業し、宮城県内で就職し、 現在、郷里の美川で塾教師をしています。  私の祖母は1900年生まれで伝統産業 の美川刺繍をしていました。亡くなるまで 町から一歩も出たことがなく、町の人たち との会話を楽しみに生きていたようです。  その会話を耳にした一端をご紹介します。  美川町は手取川の河口の町で日本海に面 しています。作家の島田清次郎、詩人の邑 井武雄、政治家の奥田敬和、歌手の浅川マ キ、五輪トランポリン選手の中田大輔らの 出身地でもあります。  「美川弁」といってもいい言葉は、隣町 の能美郡根上町(現能美市)や能美郡川北 村(現能美郡川北町)、石川郡松任町(旧 松任市、現白山市)ともちょっと異なって いると思います。  私は金沢市内の高校に通ったのですが、 私の話す言葉がおかしいと、いつも友人に 笑われていました。言葉だけで伝えるのは 難しいのですが、動詞、形容詞、形容動詞 のエ音便がイ音便になったり、また、人名 や名詞の発音のアクセントや抑揚、強弱、 長短が独特みたいです。  鹿児島弁が混じっているのではないかと 言う人もいます。もしそうであれば、最初 の石川県庁が美川町に置かれたことと関係 しているのかもしれません。内田政風とい う薩摩藩士がトップとなりはるばるこの町 にやって来たと聞いています。ひょうきん な美川の人たちが薩摩から来た役人たちの 言葉をおもしろがって真似して、流行らせ、 それがそのまま一部根づいたのではないか と思ったりもしています。  内田はなぜか金沢県とすることを拒否し、 県名を石川郡から拝借して石川県にし、さ らに「美川県」にとまで県名をかえようと したと聞きます。石川県はあわや美川県に なっていた可能性もあったということです。  これはこれでおもしろい話ですが、内田 は、美川町を中心にした金沢以上の新たな 県都を、白山を源として流れる

307. 職人の心意気 -「技」の文化 -

 【2023年7月3日配信】   手作りへのいざない    -「技」の文化-     縫い針のひとはりに込める夢  敦賀市 宮岸 かなえ                     てのひらに落ちる雨滴が灯をともす     鹿児島市 井上 治朗                        器(うつわ)  器への思い    九谷焼絵付師  宮保 英明         用という約束の形を提供しながら、その 形の中でどれだけ新鮮な自身の感覚を保ち 得るか、どんな可能性を引き出し得るか、 自身を試す姿勢で器と向かい合いたい。  自意識による変身、習慣のタガをはずし、 本来まったく自由に扱える創作表現への自 意識を、材質としての焼きものにぶつけた い。  盛られる料理に好かれる器。使いよくて 楽しくて、ついつい使ってしまう器。見た 目に静かで、しかし強い存在感を持ち、素 直に語りかけてくる。そんなものを心がけ てつくりたい。 みやぼ ひであき 20歳から絵付けをはじめる。 1950年石川県白山市生まれ。 石川県加賀市日谷(ひのや)在住。 日谷川をはさんで両側に民家と山が並ぶ。 谷間の村・日谷の向こうには人はいない。 宮保家の裏もすでに森である。 仕事をするのにいい場所をさがし歩き、 1984年の夏、白山市から引っ越してきた。 「ときどき熊が顔を出す」と妻の文枝さん。 小社発行・『北陸の燈』第4号より 撮影・八幡スタジオ 当講座記事NO.21、249再掲 当講座記事NO.223、「職」に関する記事から     芭蕉布ムーディー綾番匠くずし 平良 敏子   鋏 川澄 巌  文駒縫(あやこまぬい) 竹内 功   匠  足立区が誇る「現代の名工」    当講座記事NO.269、「世界屈指の技と清ら」から   流し猫壺 河井 寛次郎      「祖父寛次郎を語る」鷺 珠江さん     当講座記事NO.280、「湯の人(4)」から   樹 -卒業制作- 青木 春美     当講座記事NO.22、「織を通して学んだこと」から     絹本著色方便法身尊影  1500年製作      当講座記事NO.72、「松帆榭にて」から   千年の土 珠洲焼 篠原 敬    当講座記事NO.296、「あの日のこと」から     バンチェン土器   タイ・バンチェン遺跡     当講座記事NO.288、「個

348. 来たる時代への提言(3)

 【2024年6月23日配信】小社発信記事 当講座記事NO.300、338の続き           来たる時代への提言(1) .           来たる時代への提言(2) .                   261 知られざる歴史「海に消えた布引丸」   267 連帯はいかにして可能か・日本人の気骨 . 318 世界に範たる日本国になるには .             久慈あさみ『ブンガワン・ソロ』 同題名映画で歌う                                                                    日本の重心富山県沖、大陸から見た日本        みんな仲良く      (富山県作成)      高句麗、渤海からも近い    立山、劔岳、虻ヶ 島、鳥、色、紫雲、富山湾     上杉謙信、菅原道真、大伴家持も欲した景色    鳥の位置が立山頂上、世界で三ヶ処の海越景     2023.2.22 撮影  氷見市 木偶乃坊写楽斎さん                 灘浦小学校校歌合唱 - 同校51名全児童         曹秀美が歌う『クリウン金剛山』          申英玉が歌う『碑木』         アレクサンドラ・ベリコヴァ『鶴 (Журавли)』   図書館へ行く道を   きいている   あのおじさんはきっと   好い人にちがいない!     気仙沼と全世界の   図書館さまへ                      大空詩人・永井叔         政治、ジャーナリズム、思想、文化を考える 当講座記事NO.338から 2024.6.22 林浩治さん書評「愚銀のブログ」より  『ガザ日記』ヒューマニティの闘いとしての文学   アーティフ・アブー・サイフ著 『ガザ日記 ジェノサイドの記録』 (中野真紀子訳、地平社、2024.5) 2024.6.23 沖縄戦没者追悼式 宮古高校3年 仲間友佑さん 平和の詩「これから」全文  NHK 当講座記事NO.246 この世を「みるくゆ」へ 同NO.341 碑木 同NO.342 なつかしき金剛山 『碑木』   신영옥 (シンヨンオク・申英玉) 『クリウン金剛山』   조수미 (チョスミ・ 曺 秀美) 2024.6.23 佐藤章さん 八丈島小池百合子直撃取材報告

275. スポーツを文化にするために

【2022年10月10日配信】    史上最高の演技     交驩のエール      花開きつつあるエンジョイベースボール    「学生野球考」            慶應義塾大学野球部監督                   前田 祐吉      「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」 と いう元気な掛け声の間に、「カーン」と いう 快いバットの音がひびくグラウンドが 私の職 場である。だれもが真剣に野球に取 り組み、 どの顔もスポーツの喜びに輝いて いる。息子 ほどの年齢の青年たちに囲まれ、 好きな野球 に打ち込むことのできる私は、 つくづく、し あわせ者だと思う。  学生野球は教育の一環であるとか、野球 は人間形成の手段であるということがいわ れるが、私の場合、ほとんどそんな意識は ないし、まして自分が教育者だとも思わな い。どうしたらすべての野球部員がもっと 野球を楽しめるようになるのか、どうした らもっと強いチームになって、試合に勝ち、 選手と喜びを共にできるのか、ということ ばかり考えている。  野球に限らず、およそすべてのスポーツ は、好きな者同志が集まって、思いきり身 体を動かして楽しむためのもので、それに よって何の利益も求めないという、極めて 人間的な、文化の一形態である。百メート ルをどんなに早く走ろうと、ボールをどれ だけ遠くへカッ飛ばそうと、人間の実生活 には何の役にも立たない。しかし、短距離 走者はたった百分の一秒のタイムを縮める ために骨身をけずり、野球選手は十回の打 席にたった三本のヒットを打つために若い エネルギーを燃やす。その理由は、走るこ とが楽しく、打つことが面白いからにすぎ ない。さらにいえば、より早く走るための 努力の積み重ねが何物にも替えがたい喜び であり、より良く打つための苦心と練習そ のものに、生きがいが感じられるからであ る。  このように、スポーツは余暇を楽しみ、 生活を充実させるための手段で、それ以外 には何の目的もないはずである。むしろ目 的のないことがスポーツの特徴であり、試 合に勝つことや良い記録を出すことは、単 なる目標であって終局の目的ではない。  かつて超人的な猛練習でスピードスケー ト の王者といわれ、冬季オリンピックの金 メダルを独占したエリック・ハイデンは「 金メダルは私の人生の目的ではない。そ

311. レジェンド記者、真実を追う

 【2023年8月2日配信】小社発信記事      木原事件、ジャニーズ事件、 松本VIP事件、 自民裏金脱税事件、政治、ジャーナリズム                      佐藤章 さんの発言とともに考える            尾崎豊『ダンスホール』1984.3.15  東京新宿RUIDO 浅 川マキ/ ライブ夜 1977.11.19 京大西部講堂 桃山晴衣『遊びをせんとや生まれけん』 最新順の当記事 当講座記事NO.320 お金から「いのち」の時代へ(9) 2024.3.6 谷本誠一さん、中川秀直衆議秘書時代を語る 広島県前呉市議(6期)の谷本さんが 高校生の インタ ビューに応えてパー券販売、地盤培養活動などを話す。 撮影 2023.8.3 2021.5.21 佐藤章さんスクープ解説動画 第二次安倍内閣安倍晋三首相退陣の真相 木原事件を考える 2023.8.2 志あるジャーナリストへの呼びかけ .  2023.8.20 黒澤明『天国と地獄』仲代達矢の圧巻の台詞 .                       「被害者・遺族の無念を晴らす。これが刑事の仕事」     佐藤誠元刑事記者会見 2023.7.28 コロンボ、安浦吉之助、 十津川省三、杉下右京をしのぐ 佐藤誠さん の 言葉。「 日本の心」はまだまだ生きている。 同時に加害者側の動機、心情も併せて理解すべきである。 日本の歴史、社会、政治を変える日本史上最高記者会見                    2023.8.8 真犯人 Z氏と木原氏の人生を考える 2023.8.17 事件当日の Z 氏の行動を考察する 2024.8.24 民主主義の岐路.検察再捜査の動き    2029.8.30 事件のもみ消しを決して許してはならない    2023.8.31 事件を報道しない既存のメディアへの怒り                                                     文春報道によれば、2006 年 4月 9日の 午後10時ごろに東京都内で安田種雄さんと いう方が殺されたが自殺とされた。そして 2018年春に捜査が再開されたが、本格的な 捜査に入ろうとした矢先の同年10月下旬に 捜査が突然打ち切られた。  この事件の捜査に当たった警視庁元刑事 の佐藤誠さんが、先月28日に

303. 教え子を再び何処へ送るのか

【2023年5月25日配信】   マスクをめぐる学校との苦闘                   千葉県 今野 ゆうひ  17歳                          2019年。新型コロナウイルスが突如 として私たちの生活に現れました。何もわ からないまま政府に舵をゆだね、ウイルス の災いとして ”コロナ禍” は四年目に突入し ました。 当時中学三年生だった私の日常も  “コロナ禍” によって一変しました。  外出自粛、一斉休校、ソーシャルディス タンス、マスク、消毒...   それら政策を半ば面白がりながら、20 21年まで三年間、流されて過ごしました。  人との接触をなるべく避けながらいかに 楽しめるか。マスクをしていかにおしゃれ をできるか。いつしか私たちの生活は“コロ ナ禍”ファーストへと姿を変えていました。  2021年、高校一年生になった私も“コ ロナ禍”ファーストな高校生活を送っていま した。  その年の夏、母と私は新型コロナと全く 同じ症状を発症。病院に行っても薬がない ので PCR検査などはしていませんが、あの 症状は確実に新型コロナだったと思います。 その時母と、“コロナ禍” ファーストな生活 をしていても感染はするし、普通の風邪と 同じように治るということに気づきました。  もちろん個人差はありますが、なぜここ まで徹底して感染源を特定したり外出制限 をしたりするのか、その時からじんわりと 疑問が生まれます。  経験は人を変化させますね。  そんなこんなで私と母は、自転車に乗っ ている時だけ。から始まり、すこしずつマ スクを外すことにしました。  ある日、母と一緒に近くの大きめのスー パーで買い物をすることになります。 「注意されるまでマスクしないで入ってみ るわ」  正直遊びの部分もありました。ちょっと 面倒くさくなっちゃったのです。強い意志 もないただのチャレンジだったので、何か 言われたらすぐ付けるつもりでした。  ところが、なんかいけちゃったのです。 一時間弱いたものの、誰にもなんにも言わ れず買い物終了。  なんということでしょう。今までやって きたことはなんだったんだと思うほどあっ けなくチャレンジは成功。今思えば、この スーパーで何か言われていたら、この文を 書くこともなかったです。大いに感謝です。  その日から勢い

266. 混迷する現代と統一協会 

【2022年8月28日配信】        親友ヨッチにささげる手記          -最期まで友情を信じて-                  石川県河北郡津幡町                 書店員 22歳  酒井 由記子  人は、どんな人と巡り合うか、どんな本 と出会うかによって人生が決まってくると、 ある作家が述べていたのをふと思い出す。 私にとってはまさにそうであった。出会っ た人達も書物もとても大きな影響を残し、 忘れられない出来事となっていったのであ る。   一、高校生の頃  今から六年前(1977年)、私は金沢 二水高校の二年生であった。いや二年生と いうより吹奏楽部生というほうが適切であ るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。 みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン をして基礎固めをなして、全員そろって校 舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌 いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の 一致によって一つの音楽をつくり出すとい う喜びを存分に味わった私の青春時代の真 っ盛りであった。ただ残念なことは、部活 動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ ぱり力がはいらなかったことである。中学 生のときは、「進学校にはいるために」と いうただそれだけの目的で受験勉強ができ た。しかし、いざ高校にはいってみると、 また「いい大学にはいるために」と先生方 が口をすっぱくして押しまくる文句に素直 になれなかった。勉強する本当の意味が見 出せなかったのである。その頃から、私は 人間は何のために生きるのだろうかという ことまで突っ込んで考えるようになってい った。  父母が書店を経営しているため本は充分 にあり、書物を読むことによって答えを見 出そうとした。私の強い求めに応じるかの ように一冊の本が転がり込んできた。クリ スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ っての風』という随筆集であった。聖書の 言葉がそこに登場しており、それはズシリ と心に響いたのである。その本に魅せられ て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい った。しだいに私の魂は、人間をはるかに 越えた大いなる存在があることを感じてい った。確信までは至らなかったけれども、 それらの本によって金沢のプロテスタント の教会に足を運び、牧師さんのお話を聞く ようにもな

319. 人間とは何か

【2023年11月4日配信】小社発信記事                   小を積めば即ち大と為る.『報徳記』富田高慶1856  二宮尊徳翁曰く 「励精小さなる事を勤めば大なる事必ずなるべし。  小さなる事をゆるがせにする者、大なる事必ず  できぬものなり」                 読書のすすめ 背負い歩き考える二宮金治郎          ロダンの『考える人』よりもりっぱに思える         薪を負いて名定まる         損得から尊徳の世へ 哲学の時代へ(第14回)                                        以下の文はkyouseiさんという方のnote にある文です。偶然みつけ共感するものが ありこれまで何度か勝手にその文を紹介し てきました。どこのどなたかまったく存じ 上げませんが、またお叱りを受けるかもし れませんが、本日掲載の文をご紹介します。 (当講座編集人)           本当の哲学とはなにか            note での投稿も長くなった。 連続投稿 が 370 を超えたようだ。そんなことはどう で もい いことだが、ぼくはこれまで 「哲学」 だと 思って書いていた記事は、「本当に哲 学 な のだろうか」と思うことがよくある。 皆の言う「哲学」は、「○○哲学では…」 と 難しい話をよく知っている。 ぼくはというと、思考を治療的に使って 現 状の維持、回復を狙うものだ。 「何が不満か」「何がそうさせるのか」と いった答えを探すものだ。だから「治療的 哲学」と銘打っているのだが、はたしてそ れは哲学なのだろうかと思うこともある。 ぼくの哲学は「結果が全て」であり、再 現 性も求める。結果が出ないとすれば、や り 方がまずかったとすぐに修正する。自分 自 身を実験台にして確かめるのだ。 難しい話を好まないのは「使えない」 か ら だ。使えないものは真理ではないと 考え て いる。 だからといって、ぼくの視野が広いか とい えばそうではなく、個人という狭い世 界観 をどう変えるかといったものだ。 「大したことないな」と思われるだろう が、 では、誰がこれまでそのことに挑戦し てき ただ ろうか。 他人の褌で相撲を取る話ならいくらでもあ る。傍観者という意味だ。 ぼくの哲学には答えがないかもし
         柿岡 時正
         廣田 克昭
         酒井 與郎
         黒沢  靖
         神尾 和子
         前田 祐吉
         廣田 克昭
         伊藤 正孝
         柿岡 時正
         広瀬 心二郎
         七尾 政治
         辰巳 国雄
         大山 文人
         島田 清次郎
         鶴   彬
         西山 誠一
         荒木田 岳
         加納 韻泉
         沢田 喜誠
         島谷 吾六
         宮保 英明
         青木 晴美
         山本 智美
         匂  咲子
         浅井 恒子
         浜田 弥生
         遠田 千鶴子
         米谷 艶子
         大矢場 雅楽子
         舘田 信子
         酒井 由記子
         酒井 由記子
         竹内 緋紗子
         幸村  明
         梅  時雄
         家永 三郎
         下村 利明
         廣田 克昭
         早津 美寿々
         木村 美津子
         酒匂 浩三
         永原 百合子
         竹津 清樹
         階戸 陽太
         山本 孝志
         谷口 留美
         早津 美寿々
         坂井 耕吉
         伊佐田 哲朗
         舘田 志保
         中田 美保
         北崎 誠一
         森  鈴井
         正見  巖
         正見  巖
         貝野  亨
         竹内 緋紗子
         滋野 真祐美
         佐伯 正博
         広瀬 心二郎
         西野 雅治
         竹内 緋紗子
         早津 美寿々
         御堂河内 四市
         酒井 與郎
         石崎 光春
         小林 ときお
         小川 文人
         広瀬 心二郎
         波佐場 義隆
         石黒 優香里
         沖崎 信繁
         山浦  元
         船橋 夕有子
         米谷 艶子
       ジョアキン・モンテイロ
         遠藤  一
         谷野 あづさ
         梅田 喜代美
         小林 ときお
         中島 孝男
         中村 秀人
         竹内 緋紗子
         笠尾  実
         前田 佐智子
         桐生 和郎
         伊勢谷 業
         伊勢谷 功
         中川 清基
         北出  晃
         北出  晃
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         濱田 愛莉
         伊勢谷 功
         伊勢谷 功
         加納 実紀代
         細山田 三精
         杉浦 麻有子
         半田 ひとみ
         早津 美寿々
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         若林 忠司
         若林 忠司
         橋本 美濃里
         田代 真理子
         花水 真希
         村田 啓子
         滋野 弘美
         若林 忠司
         吉本 行光
         早津 美寿々
         竹内 緋紗子
         市来 信夫
         西田 瑤子
         西田 瑤子
         高木 智子
         金森 燁子
         坂本 淑絵
         小見山 薫子
         広瀬 心二郎
         横井 瑠璃子
         野川 信治朗
         黒谷 幸子
         福永 和恵
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         小社発信記事
         秋山 郁美
         加藤 蒼汰
         森本 比奈子
         森本 比奈子
         吉村 三七治
         石崎 光春
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         中野 喜佐雄
         八木  正
         堀  勇蔵
         家永 三郎
         広瀬 心二郎
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         石井 洋三
         小島 孝一
         キャリー・マディ
         谷本 誠一
         宇部  功
         竹内 緋紗子
         谷本 誠一
         酒井 伸雄
163、コロナ禍の医療現場リポート
         竹口 昌志
164、この世とコロナと生き方を問う
         小社発信記事
165、コロナの風向きを変える取材
         橋本 美濃里
166、英断の新聞意見広告
         小社発信記事
167、ワクチン接種をしてしまった方へ
         小社発信記事
168、真実と反骨の質問
         小社発信記事
169、世論を逆転する記者会見
         小社発信記事
170、世界に響けこの音この歌この踊り
         小社発信記事
171、命の責任はだれにあるのか
         小社発信記事
172、歌人・芦田高子を偲ぶ(1)
         若林 忠司
173、歌人・芦田高子を偲ぶ(2)
         若林 忠司
174、歌人・芦田高子を偲ぶ(3)
         若林 忠司
175、ノーマスク学校生活宣言
         こいわし広島
176、白山に秘められた日本建国の真実
         新井 信介
177、G線上のアリア
         石黒 優香里
178、世界最高の笑顔
         小社発信記事
179、不戦の誓い(2)
         酒井 與郎
180、不戦の誓い(3)
         酒井 與郎
181、不戦の誓い(4)
         酒井 與郎
182、まだ軍服を着せますか?
         小社発信記事
183、現代時事川柳(六)
         早津 美寿々
184、翡翠の里・高志の海原
         永井 則子
185、命のおくりもの
         竹津 美綺 
186、魔法の喫茶店
         小川 文人 
187、市民メディアの役割を考える
         馬場 禎子 
188、当季雑詠
         表 古主衣 
189、「緑」に因んで
         吉村 三七治 
190、「鶴彬」特別授業感想文
         小社発信記事
191、「社会の木鐸」を失った記事
         小社発信記事
192、朝露(아침이슬)
         坂本 淑絵
193、変わりつつある世論
         小社発信記事
194、ミニコミ紙「ローカル列車」
         赤井 武治
195、コロナの本当の本質を問う①
         矢田 嘉伸
196、秋
         鈴木 きく
197、コロナの本当の本質を問う②
         矢田 嘉伸
198、人間ロボットからの解放
         清水 世織
199、コロナの本当の本質を問う③
         矢田 嘉伸
200、蟹
         加納 韻泉
201、雨降る永東橋
         坂本 淑絵
202、総選挙をふりかえって
         岩井 奏太
203、ファイザーの論理
         小社発信記事
204、コロナの本当の本質を問う④
         矢田 嘉伸
205、湯の人(その2)
         加藤 蒼汰
206、コロナの本当の本質を問う⑤
         矢田 嘉伸
207、哲学の時代へ(第1回)
         小社発信記事
208、哲学の時代へ(第2回)
         小川 文人
209、コロナの本当の本質を問う⑥
         矢田 嘉伸
210、読者・投稿者の方々へお願い
         小社発信記事
211、哲学の時代へ(第3回)
         小社発信記事
212、哲学の時代へ(第4回)
         小社発信記事
213、小説『金澤夜景』(2)
         広瀬 心二郎
214、小説『金澤夜景』(3)
         広瀬 心二郎