「宗教」とは何か?(二)
【2021年1月4日配信 NO.96】
「葬儀」に「宗教」は必要か
伊勢谷 功
「直葬」が四割を超えた
近年、東京都内では、家族が亡くなっても
葬式をしないで、直接火葬場に搬入して火葬
だけですませる「直葬(じきそう)」が四割
を超えたという報告があります。
①葬儀社に支払う費用がかかりすぎる。
②寺院や僧侶への費用が多すぎる。
③葬儀の儀式に意味が認められず、必要性
を感じない。
④従来のような葬儀をしなくても、何ら不
都合はない。
などというのが、おもな理由だというのです。
最近では、ほとんどの人が病院で亡くなり
ます。ですから、まず、遺体を自宅へ搬送す
ることを葬儀社に依頼します。多くの場合、
その葬儀社が葬儀のすべてを引き受けること
になりますから、葬儀社のあいだでは、病院
との連携を取ろうと、入院患者の争奪戦が繰
り広げられているわけです。
しかし、多くの人が誤解していることです
が、身内のものの遺体ぐらいは、自分たちの
手で運べばいいのです。道路交通法の規定で
は、遺体は「物品」というあつかいですから、
肉親が「死亡診断書」を携行すれば、搬送に
は何らの制約もありません。
遺体は、死後二十四時間を経過しないと、
火葬できませんから、都会の高層アパートや
マンションでは、遺体の安置や納棺後の搬出
もままならず、結局は病院から葬儀社に直送
することも少なくありません。
近年多くなったのが、「自宅でのお別れ会」
というものです。この場合、多くは宗教色抜
きで「告別のつどい」がおこなわれます。そ
れでも、遺体の搬送はほとんどが葬儀社に依
頼しますから、お別れ会という「葬儀」も、
依然として葬儀社まかせで、結局は、宗教的
意味を失った「葬儀」をしたというだけのこ
とになっているのです。
近親者だけでいとなまれる「家族葬」など
も、「身内の死は、他人には関係がない」「
人間は、自分や家族や親族のためだけに生き
ればよい」という人生観の反映だともいえま
すが、人間の生き方が個人的になって、「生」
も「死」も他人にとっては無関係な出来事だ
と考える人が増え、地域共同体の連帯が風化
してきたことの現れであるともいえましょう。
何のための葬儀か?
人が一度限りの人生を生きて死んで逝った
ということは、当人や、身内だけの問題では
ありません。すべての人たちの問題です。と
同時に、その人がどんな生き方をして、何を
残し何を失っていったかは、あとに残された
すべての生命(いのち)あるものの問題です。
つまりは、私たちが「人の死に出会う」と
いうことは、人間として限りある生命を、ど
のように生きるかを考える、大切な機会を与
えられるということなのです。この意味で、
むかしの葬儀は、村やその地域共同体全体の
行事でした。同時に、仏教の行事(仏事)で
した。現在では、仏教の僧侶が法衣を着て仏
教の経典を読むだけで、そこで「仏(ほとけ)
の教え」(仏教)が語られることはほとんど
ありません。
葬式をしないで「直葬」ですませる人たち
が語る理由のひとつに、「葬儀の儀式に意味
が認められず、必要性を感じない」とありま
したが、それは、言い換えれば、「何度葬儀
に参列しても、あるいは、自らが葬儀を主催
しても、葬儀の意味も必要性も感じられない」
「そのような儀式を、寺院や僧侶が執行して
きた」ということではないでしょうか。
浄土真宗の寺の本堂は、まず第一に、教え
を聞くための空間として発達したものです。
そのことは、私たち凡夫の救いは、ただ聴聞
(教えを聞くこと)による以外にはない、と
いうことの現れです。
ですから「葬儀」の場合も、「法話を聞く」
ということがないと、「葬儀」が仏教の行事
にはなりません。
東京などで葬儀をすませた人が、「お骨を
預かってほしい」とか、「法名(戒名)」を
つけてほしい」とかいって郷里の田舎の寺を
訪れることがあります。(浄土真宗では、仏
門に入る「お剃刀(かみそり)」の際に戒律
を授けたりしないので、戒名という言葉は用
いません。)
東京では火葬後の遺骨と遺灰は、残らずも
ち帰らねばならない場合がほとんどなので、
お骨壷もおヒツほどの大きさがあります。
「お墓も仏壇もなく、家も狭くて、置く場
所が無い。放置しておくと、死んだ人が浮か
ばれないのではないか」というのです。
また、「法名」も、東京でいただくとむや
みに高くつくから、法名無しで葬式をしても
らった、などといいます。
年寄りは「粗大ゴミ」などといわれますが、
死んでもなお、人は「ほとけさま」どころか、
処分に莫大な費用のかかる「粗大ゴミ」にな
ってしまう、というのが、今日の都会生活で
のいつわらざる現状なのです。
死者の処分を「直葬」ですませ、もてあま
した「お骨(こつ)」は田舎の寺に預け、手
遅れながら「法名」も田舎でつけていただい
て、これでひと安心ということなのですが、
これは、さいわいに親切な「田舎の寺」など
というものがあった場合の話しであって、多
くの都会人たちは、そのような幸運には恵ま
れていません。しかも、その多くが、まとも
な葬儀を出したくても、経済的に困難な人た
ちの苦肉の策なのかもしれません。
しかし、かりに何らかの葬儀が出来たとし
ても、それで問題が解決できたといえるので
しょうか?
「お骨」や「法名」や、そのあとの「供養」
などをしなければ、「亡くなった人が浮かば
れないのではないか」とか、「それを放置す
ると、こちらに祟りが来るのではないか」な
どといった、私たちのほうの「迷い」や「心
得違い」は、何ら解決しないで、そのまま残
っているのです。
「人は死んだらどうなるのか」「死者を供
養するとはどういうことか」「結局は、自分
たちへの祟りや禍を怖れて、自分たちのため
に死者を供養しているだけではないのか」等
々……。仏さまの教えは、そのへんからはじ
まってくるのです。
罪福信による宗教利用
いまの日本では、なかなか死ねない時代に
なったと多くの人がいいます。
これは医療技術や延命治療の発達と福祉や
医療制度の進展によるところが多分にありま
すが、それとは別の意味で、死後にお金がか
かってウカウカとは死ねないという人も少な
くないのです。
しかし、死んだあとにかかるお金の多くは、
葬儀や埋葬のための費用がほとんどをしめて
います。はじめに述べた「直葬」が激増する
背景には、葬儀費用の節約・倹約に原因があ
ることも否定できません。また、葬式だけで
なく、年回法事や墓参り、その他、亡くなっ
人の供養を何故しなければならないのか、そ
の理由もよく分からないのです。
①供養しなければ、亡くなった人が浮かば
れない。
②死んだ人の供養をしない家には、いいこ
とがない。
③ご先祖を供養すれば、ご先祖が守ってく
ださる。
④法事をしなければ、親戚や近所の目がう
るさい。
しかし、こうした考え方には大きな落とし穴
があります。
親鸞聖人は、このような信仰を「罪福信(
ざいふくしん)」といって否定されました。
結局は、自分たちの利益だけしか考えない宗
教利用だといわれるのです。
人間の欲望を満たすために宗教を利用しよ
うという信仰を「罪福信仰」といいます。人
類の発祥から、ほとんどの「信仰」は、この
「罪福信仰」からはじまっています。
「神」も「仏」も、自分たちの日常を豊か
にするように手助けし、禍から守り、願いを
かなえてくれるもの、と考えて期待してきま
した。しかし、このような、自分たちだけに
都合のよい「神」や「仏」などというものは、
どこにも存在しません。これは、人間の慾が
つくった妄想なのです。
お釈迦さまは、「人間の幸・不幸や運命は、
それらを支配する、超自然的・超能力的な、
何か ” 尊い存在 ” によって支配され、決定づ
けられている(尊祐因説)」という「宗教意
識」を、人間の迷いとして、すべて否定され
ました。
「おまもり」や「おふだ」や「神だのみ」
といった信仰は、すべて、人間の慾がつくっ
た妄想なのです。
過去の日本人の宗教観
江戸時代には町人文化が栄え、「風呂と床
屋は喰いはぐれがない」といわれていました。
また、「薬九層倍(くそうばい)、坊主丸儲
け」などともいわれていたものです。しかし
現代では、それらはすべて、様がわりしてし
まいました。
いまから四〇〇年前の江戸時代のはじめこ
ろ、鎖国とキリシタン禁圧にともなって「寺
請の制度・宗門改めの制度」がしかれました。
これによって、日本に住む民のすべてが、い
ずれかの仏教寺院に檀家(浄土真宗では門徒
という)として所属し、お上(かみ)に無断
で所属寺(お手つぎの寺)や宗派を替わるこ
とができなくなりました。
この制度は、明治維新まで続きました。明
治四年(一八七一年)になって「宗門人別帳」
が廃止されることになりますが、この二五〇
年ほどの間に、日本人の宗教観は大きく変わ
っていきました。
体制権力によって、個人の信ずる(所属す
る)宗旨が固定されてしまいますと、信仰は
家によって決まったものであり、「家の宗派
を守る」ということ以外には、「宗教」を選
んだり「個人の信仰」を成り立たせる場所が
ありません。
そのため、仏教の救済(救い)は、固定さ
れた宗派内での「精神の修養」や「人づきあ
いでの心の工夫」、そして、それぞれの宗派
とは無縁な勧善懲悪に基づく「死後の極楽往
生」や「輪廻転生(生まれ変わり)」などと
して、どの宗派ででも同様に説かれるように
なりました。また、読経や儀式などによる「
死者供養」や「まじない」などが、農村社会
にまで普及して、教団や寺院の運営に経済的
基盤を与えてきました。
先に、「直葬」についてお話しするなかで、
死者は、「ほとけさま」どころか、処分に莫
大な費用のかかる「粗大ゴミ」になってしま
う、と述べましたが、「人間は、死ねばゴミ
になるのか?」という問いには『旧約聖書』
の記述に、その歴史があります。
「すると、主である神は、土の塵(ちり)
で人を形造りその中に霊(れい)を入れら
れた。そこで、人は生きた人格となった。」
(創世記2ー⑦)
「あなたは、一生涯あくせく働いて食物を
得、ついに死ななければならない。あなた
は土の塵から造られたから、死ねばその塵
に帰る。」 (創世記3ー⑲)
現代語『聖書』尾山令二訳
「人間、死ねばゴミなのか」という問いか
けは、同時に「ゴミでないのなら、何なのか
?」と、私たちが逆に問われてもいるのです。
『聖書』は、「神の息吹を吹き入れられて、
はじめて人は、生きた人格となるのであって、
神の息吹(救済)を享(う)けないものは、
生涯、塵を造り続けて、塵となって終わる」
と語っているのです。
では、そのことを、私たちはどのように考
えているのでしょう。また、仏教はどのよう
に教えてきたのでしょう。人間は、死んで「
粗大ゴミ」になるのでしょうか。それとも、
「土の塵に帰る」のでしょうか。あるいは、
「ほとけさま」になるのでしょうか。
亡き人にみちびかれて
お釈迦さまは「老病死を見て世の非常(無
常)を悟り」出家された、と経典に説かれて
います。亡くなった人から何を学ぶかは、あ
とに残されたものの仕事です。多くを学ぶ人
もあれば、あまり学ばない人もあるかもしれ
ません。しかし、いずれにせよ人は他人の死
からさまざまのことを学びます。しかもこれ
らの問いは、決して他人事ではなく、どれも
が自分自身の問題なのです。
「人は、何のために、そして自分は何のため
生まれてきたのか?」
「人生には目的があるのか? 人は何を達成
しようとして生きているのか?」
「亡くなった人の一生は、いったい何のため
だったのか?」
「ーー自分の人生には、どんな意味があるの
か?」
「すべて、人間は必ず死ぬ。そして、自分も
必ず死ぬ」
「しかも、死は、突然やってくる」
「人は死んだら、どうなるのか?」
「死後も、自分というものに続きがあるのだ
ろうか?」
「世の中が、ずっと続いても、自分は、永久
に、どこにも居なくなるのだろうか?」
長生きさえすれば、私たちには、このよう
な疑問や問いが、まだまだ無数に出てくるか
もしれませんが、これらの問いの多くが亡き
人からいただいた大切な問いかけなのです。
ところが、私たちには、こうした「問い」
を無限に見出だす智慧など、とてもありませ
ん。なぜならば、私たちの知恵は、生きるた
めの知恵であって、生きることそのことを見
据える深さをもった智慧ではないからです。
答えを見出だしたものだけが、善く問うこ
とのできるものなのです。仏教は、今日まで、
その「仏の智慧」を伝えてきました。
身近な人が亡くなると、私たちは、深い悲
しみや、心残りや後悔の中で、じつに多くの
ことを学びます。しかし、それはあくまでも
自分なりの学びにすぎません。仏教の行事と
して葬儀や法事をいとなむのは、そこに「仏
の智慧」をいただくことなのです。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残
す」という言葉があります。しかし、これは
むかしの話しです。現代人である私たちは、
「死して、何を残す」のでしょう。いや、む
しろ、「何を残したい」のでしょうか。
「自分が死んだあとのことなど、どうでも
いい」という考え方もあります。それが本当
なら、その人は、そのような人生を生きてい
るということです。
じつは、私たちには、自分の死後に「残し
たいもの」と「残したくないもの」とがあり
ます。
お釈迦さまは、自分の死後には「業」が残
ると教えてくださいました。業(ごう)とは、
私たちが「おこなったこと」です。
私たちの「おこない」は、当人が死んでも無
くならないものがたくさんあります。
書いた手紙や植えた樹木、産んだ子どもや
孫、借金。他人に与えた被害や怨みや屈辱や
迷惑。ひとりの人間がしばらく生きるために
浪費した生活物資と、その生産に携わった人
たちの労苦。そして、放射能のゴミなど、お
びただしいゴミの山……。
これらを残したまま、ほとんど何のあと片
づけもできずに、人は去っていくのです。し
かし、私たちの多くが、何とかして死後にも
残したいと願っている「自分自身」というも
のは、いったいどこに、どんな形で残るので
しょうか。
人は死ねば仏になるか?
「死後にも自分というものを残したい」と
いう願望は、人間最後の、自己自身に対する
「執着」です。しかし、この執着も、本人の
死とともに消えていくのです。
欲望の残骸は、「業」として当分のあいだ
は残りますが、欲望そのものは「死」によっ
て、確実に死に絶えます。
死者には、すでに衣食住も必要なく、生き
てあれば当然あるはずの数々の「心残り」や
「心配」も、あとに残ったものたちが引き受
けねばならなくなるのです。つまり、「亡き
人のあとをどのように引き受けるのか」、こ
れを明らかにすることが、あとに残されたも
のたちの「責務(つとめ)」なのです。
「苦も楽も超越し、煩悩を断ちきった者」、
これを「仏」というのならば、その意味では
「人は死ねば仏さまである」ということにな
ります。
しかし、「仏さま」とは、元来、「覚りを
ひらいた者」(覚者)という意味でした。し
かも、「覚りをひらいた者」は、同時に「他
の人々を教えみちびく者」でもありました。
亡くなった人を、いまだに「衣食を欲しが
って餓鬼道をさまようもの」にしてしまうの
か、あるいは、あとに残った私たちを「仏道
に教えみちびいてくださる仏さま」になって
いただくのかは、私たち、残されたものたち
一人ひとりの、今後の生き方にかかっている
といわねばなりません。
お釈迦さまやキリストは、何を私たちに残
してくださったでしょうか。法然上人や親鸞
聖人は、どんな生き方を私たちに示してくれ
たでしょうか。私たちには、先人たちによっ
て残されたものが、たくさん手渡されていま
す。
親鸞聖人のお言葉を記した『歎異抄』の「
第十章」に、「念仏者は無碍の一道なり」と
いうお言葉があります。「無碍(むげ)」と
は、「何ものにも碍(さまた)げられない」
という意味です。
古くから、「無碍の一道」というのだから、
「念仏者は」よりも「念仏は」のほうがいい
のではないか、という見方がありました。
「念仏の道が無碍の一道である」というこ
となら、分かりやすいのですが、「念仏に生
きる者(念仏者)が道である」というのには、
たしかに多少の違和感があります。
しかし、人は「道」になるのです。
親鸞聖人や蓮如上人、そして、無数の念仏
者たちが歩んでゆかれた「道」と「足跡」が、
私たちに残されています。私たちの親たちも
また、その「足跡」をたどり、ひとすじの「
道」を残して生涯を尽くしてゆかれました。
その親たちの願いにみちびかれて、同じ「
足跡」をたどり、全生涯を、本願念仏の一道
に生きてゆく「道」が、私たちにも、手渡さ
れてきたのではないでしょうか。
人は先人のたしかな「足跡」をたどり、自
らもひとすじの「足跡」を残して「仏道」の
中に「いのち」を尽くしていくのです。
この一道に出会うために、亡き人の「死」
を大切に受けとめ引き受けていくこと、これ
こそが「真宗の葬儀」の精神なのです。
希望とは もともと
あるものだとも言えぬし、
ないものだとも言えない。
それは、地上の路(みち)のようなものだ。
地上には もともと
路はなかった。
歩む人が多くなれば、
おのずと路になるものなのだ。
魯迅 『故郷』より