私の学生生活
【2020年12月17日配信 NO.86】
涙で歌った応援歌
東京都世田谷区
会社員 桐生 和郎
応援団。それは、ともすれば肩で風を切っ
て衆人を威嚇する暴力的集団と見られがちで
ある。かくいう私も早稲田大学応援部に入部
する以前は、そのような浅薄な偏見を応援団
に対して抱いていた。
実際の応援団は、内的には確かに練習は厳
しく典型的なタテ社会が厳然と存在し、鉄拳
制裁は当然の如く行使される。だが、外的(
神宮球場等における応援活動)には、学生の
範たる態度で行動し、応援に参集してくれた
学生に真摯な態度で接して応援を指導し、一
体感のある応援を、プレイしている選手に伝
えることがその主たる目的となり、決して陰
湿なイメージを与えるものではないのである。
早稲田大学応援部の信条の一つに「たくま
しい根に美しい花を」というものがある。こ
れは、真の応援団の存在意義が的確に表現さ
れた名文句である。応援団とは、応援に参集
してくれた学生と、自軍のプレイヤーとの間
の媒介者にすぎないのである。学生の声援・
意思をいかにして効果的にプレイヤーに伝え
るか。応援団の役割はまさにその一点に凝縮
される。応援団は、その精神的・肉体的なた
くましさをもって、母校の応援を華麗にかつ
雄々しく創造していかなくてはならないので
ある。
以上のような確固たる認識の下にある早稲
田大学応援部は、様々な競技の応援活動を行
なうが、やはりその中心となるのは、春夏季
六大学野球リーグ戦である。さらに、その中
でも5万有余の学生が参集する早慶戦は、ま
さしく応援団冥利につきるものである。大観
衆の声援・拍手を応援部リーダー・吹奏楽団・
チアガール計百余名の手で一つにまとめ上げ
て、一体感のある爆発的な応援を創り出すの
である。
この早慶戦での応援も一朝一夕にできるわ
けではない。何か月も前から応援部内で綿密
な計画が練られ、試行錯誤を繰り返しながら
練習するのである。また、早慶戦という長時
間にわたる応援活動(他の応援活動も同様な
のだが)に耐えられるだけの体力、及び人前
での華麗かつ機敏な動作を養うために、普段
からほとんど毎日のように発声、技能、体力
トレーニングが行なわれる。
以上のような過程を経て神宮球場での本番
に臨むのであるが、いざ試合となると、計画
していたことがすべてうまくいくわけではな
い。その進行状況に応じて、臨機応変に、観
客の雰囲気を察知して、意気消沈させること
なく円滑に応援を展開していかなくてはなら
ないのである。
応援団とは、ただ闇雲にバンカラを装い、
ツッパッていてはいけない。そのような態度
では、観客を魅了し応援をリードしていくこ
とはできない。応援団として最も要求される
のは、強靭な肉体と、敏速かつ的確な判断力、
そして華麗かつ壮大な応援を演出する創造力
である。
さて、以上応援団・応援論について仰々し
く述べてきたが、このことは学年が上がるに
つれて、だんだんと思うようになってきたこ
とで、私も最初からそのような信念を持って
いたわけではない。
大学に入学するやいなや、わけもわからず
飛び込んだ応援部。当時流行っていた漫画「
花の応援団」の青田赤道にあこがれていた私
は、何のためらいもなく応援部に入部した。
しかし、漫画はあくまでも漫画。実際の応援
部というのは、他の運動部にもひけをとらな
いほど、その練習は厳しかった。高校時代に
野球をやっていて体力には自身のあった私も、
これはとんでもないクラブに入部したと、自
身の浅はかさを恨んだ。
度肝を抜かれたのは、大声を張り上げなが
らのランニング、うさぎ跳び、ダッシュ等で
ある。声を出すということがこれほどまでに
苦しいものとは知らなかった。全力でそうし
た運動をやり、大声を張り上げると、体力の
消耗度はすさまじく、すぐに意識がもうろう
としてくる。事実、練習中に失神状態となり、
バタバタと倒れる者が必ず一人や二人はいた。
さらに、そうした肉体的なダメージだけでな
く、精神的にも相当のプレッシャーがある。
なぜなら、そばにいる上級生がジッと監視し
ていて、少しでも手を抜こうものなら、罵声・
鉄拳が容赦なく飛んでくる。
毎日が応援部部室と下宿との往復である。
キャンパス・ライフというものには、新人の
頃は全く縁がなかった。練習で一日が始まり、
浴びるほどの酒を飲まされ、気がついたら次
の日の朝練という具合に、片時も応援部、あ
るいは上級生から解放されることはなかった。
さて、神宮球場での最初の応援であるが、
さすがに初めて人前に出た時には、気後れが
して緊張のあまり顔がひきつり足が地につい
ていなかった。しかし、ボケーッと突っ立っ
ているわけにはいかない。とにかく動いて声
を出していなければ、そこに待っているのは、
大衆の面前での鉄拳制裁である。応援歌も拍
手の仕方もろくに知らない私は、無我夢中で
動き回り大声を出していた。試合の経過など
全くわからない。常に学生のほうを向いてい
なければいけないのである。
当時の早稲田は、岡田、島貫、有賀を擁し、
非常に強かった(事実、この春のシーズンで
優勝したのである)。チャンスになると、コ
ンバット・マーチが無限に続くのであるが、
この頃の早稲田は、始終コンバット・マーチ
が鳴り響いていた。コンバットが始まると、
私たち新人は、応援席を景気づけするために、
大声を出して走り回らなければならない。こ
れはまさに新人にとって地獄であった。あの
急な勾配のある応援席を、常に平気な顔で走
り回るというのは、並みの人間のできるもの
ではない。そのうち足がもつれ、顔面に苦痛
の色が現われる。私は、何故人前でこんなに
恥をさらさなければいけないのかと思い、い
っそこのまま応援席を駆け抜け、ネットをよ
じ登り、グランドに出て試合を妨害すれば、
この苦しみに終止符を打つことができると思
った。
私は強い早稲田が憎かった。岡田や島貫を
殺してやりたいと思った。勝つにしろ、負け
るにしろ、投手戦で最終回にホームラン一本
が出て、試合終了というのが、私たち新人に
とって最高のパターンであった(そんな試合
は一度もなかったが)。そして、二連勝か、
二連敗、どちらでもよいから、二日で終わる
のが最良であった。
これが、入部当初の私の正直な気持ちであ
った。愛校心なんてものは一かけらもなかっ
た。私の新人の頃は、極限すれば、練習して
いるか、神宮で応援しているか、酒を飲んで
いるかのどれかであった。無我夢中、自我喪
失の日々が続いた。はっきり言って、私は応
援部が嫌いであった。その奇妙とも見える厳
格すぎる上下関係、それによって生ずる不合
理・不条理な活動すべてがうとましく思われ
た。
しかし、私は一度も部をやめたいとは思わ
なかった。何故か。それは、男の意地だけで
あった。ここでやめれば、自分は負け犬にな
る。それよりも応援部を続けて幹部になった
ら、応援・応援部というものを、より良い素
晴らしい明るいものにしてやろうという気概
を持ったからであった。そう思うことで、充
実した学生生活を送りたかったのである。し
かし、このような思いを抱くに至ったのも、
応援というものが根っから好きであり、応援
部というものが純粋に応援というものを追求
する集団であったからである。
いま思っても、私にとって早稲田大学応援
部は、私の学生生活のすべてであった。学業
を本分とする学生にとっては本末転倒も甚だ
しいが、それでも私は後悔はしていない。応
援部生活によって得た貴重な体験・先輩・友
人・後輩は、なにものにも代えがたい。特に、
幹部のときに早稲田大学創立百周年を迎え、
秋季シーズンにリーグ戦で優勝したことは、
辛かったが、思い出多き応援部生活に、感涙
極まる最高の終止符を打てたように思う。ま
た、私の高校時代(金沢泉丘高校)、ともに
部で汗を流した村山秀一君が、早稲田大学野
球部三塁手として神宮のグランドに姿を見せ
たときは、琴線に響く心躍る感動もした。後
輩の諸君は、応援部をもっともっといいもの
にして素晴らしい学生生活を送ってほしい。
春・秋のシーズン最後の練習、夏・春合宿
の最後の練習で歌う「紺碧の空」「早稲田の
栄光」「校歌」は、男を男泣きさせる名曲で
あった。
小社発行・『北陸の燈』第3号より
〈参考〉
日本一、世界一の応援
早慶戦.神宮球場.一生懸命の応援「紺碧の空」
早稲田大学卒業式
2019.3.25早稲田アリーナで初の当講座NO.6、87、88、107の記事も
併せて参照していただきたい。
なお、早稲田大学の校歌を作詩した
相馬御風は、新潟県西頸城郡糸魚川
町(現糸魚川市)・中頸城尋常中学
(現高田高校)出身。
相馬御風と東儀鉄笛のコンビは銚子
商業の校歌も1911年に作っている。
その歌詩は10番ある。
相馬御風 - 故郷糸魚川の翡翠の再発見者.『大愚良寛』著者
映画「愛怨峡」
1937年「復活」翻案 川口松太郎