能登境の村
【2020年12月15日配信 NO.85】
加能民俗の会
前田 佐智子
富山には「薬売」に代表される多くの行商
がある。その他に、鏡売、縫針売、眼鏡売、
布団売、掛軸売、苗木売があげられるが、石
川県との県境の山村からも、箕、そうけ等の
竹細工の行商人が多く出ている。
富山の行商の特徴は、その土地で作られた
ものばかりでなく、他の土地のものも持ち歩
くという仲継的なものであるといわれている。
竹細工の行商にしても、最近はインテリア調
の竹籠、置物がほとんどで、これらは九州地
方の製品を問屋で仕入れたもので、これは近
くに大消費地がなく、地理的な条件も悪く、
大規模生産がおこなえないといった理由によ
る。
石川県に来ている竹細工の行商人のほとん
どは、県境の富山県側の山村、射水郡速川村
三尾、床鍋、葛葉、久米村の老谷と、熊無村
熊無、論田の出身者である。現在この地域は
氷見市となっている。
三尾のそうけ
昔から、そうけを作っていたといわれるの
は、三尾、老谷、床鍋、葛葉の山村であり、
『国産抄』(元禄中農隙所作村々寄帳と同内
容)の射水郡に
一 そうけ仕候 仏生寺 葛葉村
同 老谷村
と記されている。
その後、そうけ作りの技術は、床鍋、三尾
にも伝えられ、改良され、「三尾のそうけ」
の名で、人々のあいだに高く評価されるよう
になった。仏生寺というのは、十村組の名で
ある。これらの村の名が文献上にはじめてあ
らわれたのは、寛文十年(一六七〇年)の『
村御印帳』で、中世のころ、射水郡上の荘の
うちに開拓された土地のひとつとみられる。
三尾のおもな産業は稲作で、一世帯あたり、
五、六反の耕地をを持っているが、棚田にな
っているため収穫量は少ない。しかし、この
あたりで生産される三尾杉は、木の葉模様の
木目が美しく、天井板・なげしなど、化粧材
として用いられ、よい収入源となっている。
そうけは、「米あげソーケ」として、また
茹でたソーメンの水切り用としてつかわれ、
明治四十年(一九〇七年)には、三尾一村で
六万枚、昭和三十四年度の総生産量は十六万
枚と、順調に伸びるにしたがい人口もふえ、
昭和三十五年の世帯数七十戸、人口三百四十
一人となった。製品は、仲買人に買ってもら
ったり、個人で行商に出て売って歩いた。販
路は北海道、長野、新潟、富山、石川と、か
なり広い市場をもっていた。
そうけを作るようになった起源ははっきり
していないが、昔、金沢ー氷見間の仲使をし
ていた床鍋村の籐兵衛が、金沢城の工事の人
夫が「丸そうけ」をつかっているのを見て、
その製法を習いうけたと伝えられている。
最近は、安価なプラスチックの代用品や東
南アジアの製品が出回ってきたことによって、
三尾のそうけの需要が減少したことと、道路
の拡張による若い労働人口の町への流出が、
生産者の老齢化をもたらし、以前ほどの活気
はないが、昔からのお客の注文に応じたり、
また競馬場用の塵取り、箒等と、新しい販路
の開拓に努力している。
論田の藤箕(ふじみ)
前述の『国産抄』にも
一 箕仕候 加納 論田村
とある。
論田は、隣村熊無とともに、古くから箕を
生産してきているところだが、伝承によると、
北陸路を訪れた蓮如上人が、女竹をつかって
村人に教えられたのが始まりで、その後、こ
こに移り住んだ天台宗の僧たちによって、藤
皮を交えて編むことが考えられ、より堅牢で
耐久性のある藤箕が作りだされた。これが現
在の「論田箕」であるという。当時、農業に
とって欠くことのできない農具であった箕の
生産に対して藩は、「加賀、能登、越中地内
ではどこの土地からでも、藤皮をとってよい」
という特例の許可を与えた。
明治四十年頃の両村の年間生産量は、四万
から五万枚、大正十二年頃から昭和十年頃(
世帯数、論田百三十戸、熊無百二十戸)では、
年平均十万枚、昭和二十七年には、生産九万
枚、最盛期には、伏木から函館まで船で、函
館からは、十トンの車扱いで、北海道内へ送
り込んだ。
材料のほうも、富山、石川だけでは足りな
いので、九州の竹を貨車ではこんだという。
北海道では、「越中の論田、熊無の箕は穀物
がはねず、じゃがいものような重いものでも
入れられる」と重宝がられ、総生産量の六割
が買われた。
明治四十二年には、出荷組合が結成された
が、大正十五年の二月に、産業組合として、
「保証責任双光信用購買販売利用組合」を新
たに結成した。戦後は、農協がこれにかわり、
市場調査、商品計画、販売促進、価格の決定
などをひきうけている。
現在では、プラスチック製品が出回り、稲
刈、脱穀、乾燥の過程の、機械化といった農
業の変化によって、箕の需要もまた大きく減
少し、今では年間一万枚ほど販売するのがや
っとという。そのうえ、三尾と同じように、
生産者の高齢化、後継者問題と、論田の箕の
将来も危ぶまれてきている。
昭和四十六年「氷見市民芸品振興会」を農
協の中に作り、藤箕を民芸品化し、神社の初
詣の縁起物として「幸運をすくい取る」とい
うキャッチフレーズで、ミニチュアの箕に、
銅製の恵比寿、大黒をつけて、関西方面の神
社に出している。その他にこれを、土産物、
記念品用として個人的に作っている人もあり、
沈滞している箕の生産に活力を与える努力が
はらわれている。
このあたり、地形的にいって、特別に高い
山、難所といったものがないことから、県境
をはさんで両方の山村どうしの交流があった
のではなかろうか。それを、竹細工の行商人
の道から探ってみた。
論田と菅池
氷見ー熊無峠ー神子原ー羽咋への道は、大
正年間にそれまであったのを改修したもので、
昭和五十八年四月より国道となり、越中と能
登を結ぶ重要な貨物輸送路となっている。
はじめは、論田ー菅池(石川県羽咋市)へ
の道の改修が考えられていたが、道路の拡張
による水田の減少を恐れた論田側の反対によ
って、熊無峠のほうへ変更になったと聞く。
石川県側の菅池でも論田から習いうけた技
術で、古くから箕が作られているが、今は、
三軒だけである。論田から菅池への道は舗装
され、歩いても三十分ほどしかかからない。
両集落の間には、婚姻関係もあり、言葉も同
じということで、他県意識はほとんどない。
臼が峰(うすがみね)
子浦ー散田ー深谷(所司原)ー臼が峰ー床
鍋ー氷見への道は、古くからの官道であった。
臼が峰(標高二百六メートル)の頂上はかな
り広く、真中を両県の境界線が通っている。
氷見側にある展望台からは、立山連峰、宝
達山、石動山、富山湾、羽咋の海が望まれ、
大伴家持の歌碑、石川県側には、親鸞聖人像
がある。その手前を右に折れると深谷に着く。
三尾から頂上へ向かう途中に右へ折れる道が
あり、「右見砂道、左子浦往来」と書かれた
道標が立っている。
頂上、道の管理、整備は、県境の村々が分
担しておこない、今も昔の名残をとどめてい
る。
向瀬往来、所司原往来
大正三年に、飯山ー杉野屋ー向瀬ー走入ー
三尾ー氷見の道・向瀬往来と、子浦ー散田ー
所司原ー岩ヶ瀬ー氷見の道・所司原往来とが
整備されると、臼が峰の子浦往来は廃道とな
ってしまった。
富山県側から云う「三尾越」の新道が採用
されると、床鍋の新道は、三尾ー葛葉ー見内
と迂回して小久米から氷見へ、また、床鍋ー
老谷ー岩ヶ瀬をまわり、見内で合流して氷見
へというようになった。
床鍋では、状況の変化によって、北海道へ
移住する人がふえた。
四和会(よつわかい)
車の普及しなかった頃は新道ができても三
尾の人びとは、三尾ー原平ー清水原ー走入へ
と杣道(そまみち)を通った。このあたりは
論田と同じ地辷(じすべり)地帯なので、道
路の管理が難しく、関係ある集落の協力が必
要であった。
現在、三尾と、石川県側の見砂、走入、清
水原の四集落が、「四和会」という会を作り、
道路の点検や工事、草刈等の奉仕活動をして
いる。
寄り合いの会場は、集落ごとの当番制で、
難しい問題を解決する時には、両県の県議会
議員に出席してもらうこともある。古くから、
これらの集落間で縁組がとりかわされるなど、
交流はたいへんうまくいっている。
村民たちは、自分のおかれた生活環境、論
田地域の女竹と藤皮、三尾地域の真竹と孟宗
竹を、巧みに生かし、豊かに暮らしてきたこ
とは、藩の時代の免の高さからも知ることが
できる。山村だから貧しいのだろうという既
成概念は、現地へ行ってみてふっとんでしま
った。
テレビを前に置いて夫婦並び、孟宗竹で箒
を作っていた三尾の中田さん、若々しい口調
で、論田の箕の将来を話す荒屋さん、どちら
も純朴な風貌の中に、伝統を守りつづけてこ
られた落ち着きがうかがわれるのであった。
氷見市在住で「とやま民俗」の
橋本芳雄先生、氷見市の博物館の
高木せつ子さんに、資料、その他
でたいへんお世話になりました。
〈参考〉
2013年、論田・熊無の藤箕製作技術が
国の重要無形民俗文化財に指定。
文中の集落の読み方
三尾 みお
床鍋 とこなべ
葛葉 くずは
老谷 おいだん
熊無 くまなし
論田 ろんでん
菅池 すがいけ
神子原 みこはら
子浦 しお
散田 さんでん
深谷 ふかたに
所司原 しょしはら
見砂 みしゃご
向瀬 むこせ
飯山 いのやま
杉野屋 すぎのや
走入 はしり
岩ヶ瀬 いわがせ
見内 みうち
小久米 おぐめ
原平 はらたいら
清水原 しみずはら
小社発行・『北陸の燈』第4号より
「現代の声」講座第8回提言者
テーマ:飴の民俗
NO.18、84、115の記事も併せて
参照していただきたい。