小説『金澤夜景』(1)
【2020年11月16日配信 NO.69】
『金澤夜景』(全六篇・2009年7月小社発行)
「帯の言葉」
なくしてしまった うばわれてしまった
優しさ 悲しみの情は
どこまでとりもどせるのか
広瀬 心二郎
第一篇 箸の先
どうもこんな店しか知らんがでね、と山本
は言って、厚い眼鏡の奥から柔和な目で笑っ
た。いいえ、と裕子は小さく答えて、山本が
いかにも不器用そうに扱う菜箸の先から葱が
テーブルにこぼれるのを見かねて手を伸ばし、
具を盛ったざるを引き寄せていた。
鍋から風味に富んだ香りがしてくる。魚類
を発酵させてつくった能登独特のいしりを使
った料理だった。
こんな店とはいうが、裕子が今まで入った
こともないような、犀川沿いの小綺麗な割烹
だった。窓の外の夕闇が淡い花の色に染めら
れている。待ち合わせてせせらぎの音を聞き
ながら春の宵をそぞろに歩いてきた、その余
韻が心をぬくめている。
山本が実にゆっくりものを食べる、その姿
がほほえましかった。百八十センチは優にあ
る体を窮屈そうに屈め、小さな皿の中のもの
を不器用な箸使いで必死につまむ。初めてこ
うしてふたりきりで食事をした時に、裕子が
食べ終わっても山本のほうはまだかなり残し
ていた。お茶を用意する裕子に、自分はとて
も飯が遅くて、と鼻の頭を汗で光らせて真っ
赤な顔をして笑っていた。
勤労者の福祉にあずかる県の外郭団体に勤
めているという。口数の少ない男だったが、
しばしば訪れる沈黙が気詰まりにならないの
が不思議だった。むしろ山本の沈黙に裕子の
心の糸がほどけていくようでさえあった。
「もう四十ちかいのにまだ独り身のがおるが
やけど、ちょっと会ってみん」
伯母がもちこんだ見合い話に裕子は初めは
気が進まなかった。向こうの条件に不満があ
ったわけではなく、裕子自身が一度失敗して
いる、その傷をあらためて探られるようで気
後れがあったからだ。
「まあ、あたしの顔をたててくれてもいいが
やない。ちょっこ変わってはおるらしけど、
いちおう大学はでとっし。あんたも大人なん
やから、すこしはつきあってみてよ。もしだ
めでも後腐れがあるよな人やないがやから」
伯母の勧めに渋々ながらも応じたのは、さ
すがにこの頃は、もう三十代の半ばに近いと
いう年齢をつくづくと感じるようになってき
ていたことと、強まる春の光がかえって心細
さを募らせる、そんな季節のせいでもあった
のかもしれない。
最初の日は、見合いといっても、若い人た
ちのそれのようにしゃちこばることもなく、
農家の苦労が肌ににじみ出た向うの母親と伯
母は、短い紹介をしただけで帰っていった。
そのふたりのものの言いように放り出すよう
な気楽さがあり、かえって裕子には有り難か
った。
「なにかこう、人がものを食べとる姿という
のは、なんとなく悲しいような感じがするが
です。そう思われることってないですか」
山本は酒もあまり強くはないらしい。ビー
ル二杯ほどで目のまわりを紅葉のように染め
て、しんみりと言い出した。
「事務所に去年、新卒ではいったばかりの
女の子がおるんやけど、小さな手で箸を使っ
てうつむくようにして子どものもんのような
弁当箱をつつくんです。ひっそりと自分の世
界にこもるようにして」
「ああ、わたしもそんなふうに思ったことあ
ります」
裕子が思い出したのは祖母のことだった。
離れにふせっている祖母に食事を届けるのが、
一時期裕子の役目だった。小学生の頃だ。む
しろ、かって出たような覚えがある。こぼさ
ないようにと裕子は懸命に盆を捧げていく。
初めは肩をいからせ、肘に力を入れて運んで
いたが、これは腰で運ぶようにすればいいん
だ、と納得した日があった。目の落ち窪んだ
祖母がせつなそうにその目をしばたきながら、
「おお、あんやとね」といつも同じ言葉をか
けて身を起こしかかる。
さほど大きな家ではなかったはずだが、そ
の頃はずいぶん長く感じられた廊下を渡り、
判で押したような祖母の声を聞き、その顔を
見るのが楽しみでさえあった。ブローカーの
ようなことをなりわいとし、気紛れでひどく
頑固だったという祖父に長年連れ添って、そ
のため泣き顔が晴れることもなかったという
祖母への獏とした同情があった。加えて、日
々変わらぬものに寄せる子供らしい愛着も混
じっていた気がする。
小さな卓袱台にわずかな食べ物を置いて、
裕子は近所の製材所から聞えてくる電気のこ
ぎりの物憂げな音にひたるようにして障子に
軽く凭れかかり、祖母の様子を眺めるともな
く眺めている。時々祖母がおかずを箸でつま
み上げ、これをあげようかと尋ねても、うう
んと笑みをつくって首を振る。そしてまた庭
にある池の面から跳ね返った光が天井にゆら
ゆらと揺れるのを無心に眺め、うっとりとな
っていく。
毎日繰り返される、なにかしら陶酔に似た
ものをもたらしてくれるそんな時間を迎える
のが裕子の中では楽しみになっていた。
そして、歯の抜けきった祖母が残りのとぼし
い生命力を奮い起こすように懸命にものを噛
み砕こうとして顎をしきりに動かす様子を見
ていると、裕子の中にこみあげてくるものが
あった。祖母の無心な横顔にいとけない童女
のような表情が浮かぶ。無防備な弱々しさが
露わになる。不思議なことにあたりの物音が
祖母の持つ椀の中にひたりと静まり返ってし
まう。人が生きていくのは、こんなに悲しい
よと囁く声が聞こえる気さえしていた……。
きっと今、自分がものを食べる姿にも、お
のずとにじんでいるものがあって、山本はそ
んなことを言い出したのだろうと裕子は思う。
「もうちょっと、どうですか」
山本がビールをなお注ごうとするのをとど
めて、
「あの、わたしのことはどんなふうにお聞き
になりました」
「ああ、お酒のことやね。いいやないけ、ほ
んなこと」
なにもかもわかっていると言いたげに、山
本は微笑んだ。
四年前に別れた夫は徹といった。新婚間も
なく、こうしてふたりで向かい合って鍋をつ
ついていた時に、ふと気がついたことがある。
裕子の箸が鍋の中に伸びるたびに、徹の視
線がその先にまつわりついてくるのだった。
裕子の指先はそのたびに重くなった。箸の先
でぶつかり合う視線を、裕子が話題を転じて、
辛うじてテレビの画面に逃したりする。
ふたりだけで向かい合っているのだから、
自分の表情は苦もなく盗まれる。どうしてこ
の人はそんなことにも気がつかないのだろう
と、やがて軽い苛立ちが背筋を走るようにな
った。
人が聞けば、なんだ、というような些細な
癖にすぎないとわかってはいた。しかし、ど
うにも苦になった。
盗み見の目なのである。心持ち首を傾げて
金壺目で周囲を窺うように見る。口ではテレ
ビの画面や仕事のことなどを話している。し
かし裕子の箸が鍋に伸びると、その先に急ぐ
ように視線を絡めてくる。やがて夫の癖に厭
気がさした裕子が、たまに意地悪をして、そ
んな時に視線を夫の顔に這わせると、夫の目
は箸の先からつっとテレビのほうに逸れてい
く。たぶん、本人は意識もしていないような
癖なのだろう。いや、意識していないからこ
そ癖と呼ばれるのだろうが。
ものを食べるなどということは、隠微な、
恥ずかしい、他人に見せてはならないことだ
ったと裕子は今更のように考えさせられた。
食べはじめると心がほどける。ものに対する
執着の在り方が露わになる。酒が入れば、な
おのことだ。
男と女がふたりで暮らす。体を合わせ、も
のを食べるにつけ裸の心をさらけ出す。世の
中の若い夫婦というものは誰しもふたりだけ
でこんなことを続けているのだろうか。夫の、
箸の先にまつわる視線にそれほどこだわる自
分にも苛立ちながら、裕子は食事時にきまっ
てそんなことを考えるようになった。
やはり、見合いで決めた相手だった。身も
心も夫に対して夫婦の形を装うばかりで、本
当のところ、開いていなかった気がする。俗
に言う、波長が合わないというもので、案外
深く人の心の機微を言い当てている言葉だと
思う。形だけを引き受けた結婚だったという
思いが、破鏡から何年も経った今になっても
濃い。それだけ、裕子に残された傷は深かっ
た。
徹は貧しい母子家庭で育った。みすぼらし
い食卓に馴れていた。というようなことを話
していた日もあった。男ばかりの四人兄弟は
みな優秀で、上のふたりは母に苦労をかける
にしのびず、高校までですませたが、徹と弟
は大学に、それも東京の名の知れたところへ
学費もなしで入った。勤め先はこのあたりで
は押しも押されもしない一流企業だった。実
に立派な男だからと、見合いの話をもってき
た伯父は言い、それはたしかにそうだったが、
しばらく暮らしてみると、食事の際ばかりで
なくなにごとにつけてもまわりを窺い、盗み
見ながら自分を装って生きている、そして、
背伸びをするのにひどく疲れているのではな
いかと思えることが多かった。
たとえば酔って食事をしながら夫の口をつ
いて出るものといえば自慢話ばかりなのであ
る。地元の政界に出ることになった、新聞に
載っている学生時代の同級生のことを話題に
しているようで、実ははなばなしかった自身
の学歴の自慢をしている。そんな時に裕子が
遠まわりに夫の自尊心に媚びてやると、機嫌
がよい。そうした様子がかえって夫が必死に
しがみついているものを露わにしているよう
だった。
それにしてもほんとうに好きな人なら、些
細な癖など苦にもならないだろうにと、学生
時代にお互いにそれと知りながらとうとう告
白するでもなく別れてしまった男のことを思
い出したりもしていた。
しばしばこんな夜もあった。夫が酔いしれ
て帰り、布団の上で頭を両腕で抱え、嗚咽に
似た低い呻き声を絞り出してじっとしている。
あの野郎。耳を澄ますと、そんな言葉をつぶ
やいている。ばか野郎。誰のことをなじって
いるのか、ふだんの夫からは想像もできない
ような太い声で、憎々しさも露わに歯を食い
しばっている。どうしたのと尋ねても、ああ、
と上の空の返事をするばかりで、そのうちに
眠り込んだかと思っていたら、また低い呻き
声をあげ、頭を掻きむしったりしている。そ
して、裕子が床に入るとものも言わずにのし
かかってくる。
仕事の上でうまくいかないことがあったの
だろうと考えて一方的な愛撫を受け入れてい
たが、しらじらとしたものが裕子の肌に漂っ
たのか、白く疲れた表情の下から裕子を抱い
て、それも何か心ここにあらずといった様子
で、自分だけが満ち足りると、体を離し、い
つの間にかうって変わった健やかな寝息を立
てている。嘘のようにあどけない寝顔になっ
ている。
夫は月々の生活費として決まった額を裕子
に渡し、ほかは自分で管理していた。簿記の
二級の資格をもっている裕子は子供ができる
までは会社勤めを続けたかったが、夫はがえ
んじなかった。そこはかとない逼塞感が裕子
の日常を染めていた。
それでも、裕子に暴力を振るうわけではな
い。たまには優しい言葉をかけてくれた。子
供ができたりしてお互いに気持ちが解け合う
ようになれば、その心根までしっとりと寄り
添っていく日が来るかもしれない。そう思う
ようになっていった。
しかし、結婚後一年ほど経つ頃から、なぜ
か無性に淋しい日が続くようになった。こと
に夕方になると、体が溶けてしまうような淋
しさに襲われる。子供の頃わがままを言った
ため母が姉たちだけを連れて買い物に出てし
まったことがある。ひとりで路地にうずくま
っていると足の先から凍えるような淋しさが
這い上がってきた。ちょうどその時のような
感じだった。いや、淋しいというより、もっ
と暗い、怖ささえ混じる感覚だった。
いったいなんなのだろう。もしかしたら、
妊娠したのかもと医者に診てもらったが、そ
うではないと言う。
そんな時に、買い物に出た帰りに、ちょう
ど駅から出てきた夫のあとを歩いていくこと
になった日があった。身嗜みに神経質に気を
遣う。その、すきもない後ろ姿を眺めやる裕
子の耳に、しばらく前にふたりのマンション
を訪れた夫の部下が、奥さんは幸せだ、こん
ないい旦那さんをもって、出世は間違いない
ですよ、部下思いだし、やることにそつはな
いし小まわりはきくしと、満更世辞でもなさ
そうに言っていた言葉がよみがえる。徹は近
所の評判もすこぶるいい。そのりゅうとした
背広姿に、夜に自分に見せる素顔を重ね合わ
せて、裕子は言いようのないものを感じてわ
ざと歩を遅らせていた。家までずっとその距
離を保って歩いたのである。
今になって思い返せば、あの日のふたりの
距離が、結局暮らしの上での、ふたりの心の
遠さを象徴していたようである。
そのうちに、妙な電話が家にかかるように
なった。裕子が出ると、しばらくものも言わ
ずにいてやがてぷつんと切れる。しかしたし
かに裕子に向けてそうしているという感じだ
った。
ある日、また仕事のつき合いで泥のように
酔って帰った夫が寝込んだすきに、携帯のメ
ールを開いて、ああ、これだと裕子はつぶや
いていた。女から、きわどい言葉を連ねた誘
いが入っていた。やはり、その人は裕子に向
かって何かをぶつけたくて、家の電話にかけ
てきているのだ。
裕子が驚いたのは、夫に女がいたことより、
自分の体が女の存在を察知していたというこ
とのほうだった。あの、訳のわからない、体
が溶けてしまうほどの淋しさだ。
裕子が問い詰めると、夫は言葉をなくした。
しゃべらなくなってしまった。
相手はどういう女だったのか。たぶん、玄
人ではなかったのだろう。結局そのことにつ
いて夫からはひと言の詫びも弁解もなく、そ
れでも一応のけりはつけたものらしい。気配
で、そう裕子は察していた。
真っ白な大きな欠落が、空虚が暮らしにあ
いてしまったまま、それでも日常は流れてい
った。
しかしその欠落は徐々に広がり、いったん
気持ちが離れはじめると、夫の下着はおろか、
靴下を洗うのもいやになってくる。鼻をかん
だティッシュが畳に落ちているのを拾い上げ
るのにも拭いようのない生理的嫌悪がこみあ
げて、顔をしかめていた。
そのうち、料理にかかる夕暮れに、裕子は
そこはかとない無力感に包まれるようになっ
た。
徹が出張で東京に出かけた日のことだ。窓
の外の夕焼けを眺めつつ、どうして私はここ
にいるのだろうと、とりとめもなく浮かんだ
言葉をはんすうしていた。夕映える空の広さ
が心もとなさを募らせた。妙な言いかただが、
空の広さと夜までの時間のゆるやかさが、裕
子にはとても耐えられそうもなかった。
思いやつれて細くなった腰の、エプロンの
結び目のあたりから黄昏の中へにじんでいく
心細さを見詰めている。暑い日なのに、握っ
た包丁の肌から寒さに似たものが体に染みて
くる。
ふとため息を漏らして、聞かせる人のある
わけでもないのに、どうしてため息なんかを、
と自分を笑っている。そして、女がひとりで
料理に向かう姿などというのはほんとうに寒
々としているね、とひとごとのようなつぶや
きを心の中で繰り返していた。
夕飯は有り合わせのものですますつもりで、
徹があまり好きではないからと栓を抜かずに
いた貰い物のワインを手に取り、堅く締まっ
たコルクに手をやきながら、栓を抜き取った。
裕子は、酒は好きではなかった。つき合いで
飲んでも、うまいと思ったことはあまりない。
しかしそのワインは思いのほか口当たりが
よかった。二、三杯飲んで、ソファーに体を
投げ出して、気がつくと夜中になっていた。
テレビの番組はとうに終わっていて、ざあざ
あと音を立てている。ソファーから立ち上が
った途端に吐き気がこみあげてきて、裕子は
トイレで屈み込んでいた。夕飯に何も食べな
かったので、吐くものはなく胃液だけが糸を
引いて出た。
もう二度とこんなことはするまいと思った
のに、午後のひとときにはまた空漠とした思
いが訪れ、それから逃れるためまたワインを
口にしてしまう。初めは徹が帰ってくるまで
に回復できるような、ひと眠りのための酒と
自分に言い聞かせ、実際に口にする量もわず
かなものだったが、しだいに増えていった。
ワインも終わり、買い置きの酒を飲めば目
減りしているのが容易に徹にわかってしまう
からと、自動販売機に買いに行く。近所では
人目につくからとわざわざ遠くの酒屋へ、そ
れもなるべくはやっていないような店の前の
販売機に、人通りのとぎれるのを待って硬貨
を入れる。主婦が今夜の夫の酒を仕入れてい
るとしか見えはしない、人が見ても訝しく思
うはずはないと自らに言い聞かせても、動作
がおのずと人目をはばかるようになる。
そのくせ、家に戻りビールを前に置く時は、
ソファーに体を投げ、しどけない格好でごく
ごくとあおった。人には見せない顔になって
いる。なにやら世間のすべてを相手に、長ら
く積もり積もった憎しみを晴らすような快感
にひたされている。
何も愛してなんかいない、おまえは。そう
だ、もうおまえは駄目になってしまった。つ
ぶやきながら、勢いよく泡立つビールを目の
高さに掲げて、いっそ乾杯と、薄笑いを浮か
べている。落ちるところまで落ちてしまえ、
いっそ死んでしまえ、そうまたつぶやいて、
はて本当は誰に向かって言いたかった言葉な
のだろうと思いつつ、死んでしまえ死んでし
まえと、うつろに繰り返している。
つい二、三か月前までは酒の匂いを嗅ぐさ
えいやでならなかったのが嘘のように思えて
いた。それなら、ほんとうに今は飲むことが
好きなのかといえば、酒をも深く憎んでいる。
怖がっている。
そのうちに、ものが食べられなくなった。
健やかな食欲が訪れることがなくなった。腕
時計をはめる時に、目に見えて細くなった手
首を撫でてため息を漏らしたり、目の下に隈
を浮き出させて髪を乱して歩いている自分の
姿を、買い物に出た時に街角の鏡に見出して、
茫然となったりしていた。
徹と向かい合い、箸を握るだけで徒労感が
喉に絡んだ。食べたものをうまく呑み込めな
くなった。ひとりで食べるときにも、どうし
て毎日、こんなふうにものを食べなければい
けないのか、繰り返しのその虚しさが胸にこ
みあげてくる。食べようとすると、深いやる
せなさが条件反射のように浮かんできてしま
う。
そうかと思えばひそかに飲んだあとで、底
もないほどの食欲に襲われることがある。ど
こにこんなに入っていくのかと呆れるほどだ。
食べ狂う、ほとんどそんな様子で、有られも
ない姿でがつがつとむさぼった。
逃げているのはわかっていた。しかし、逃
げずに徹と話し合ってみたところでどうにも
なるものでもないと、これもよくわかってい
た。人の心とはそれほど遠いものなのだとい
う絶望感が、裕子の身に否応もなく迫ってき
た。
おまえ、どうしたんだ。
そう呼ばれて目を覚ますと酔ってほてった
体を夜気が冷たく包んでいた。徹が蒼白な顔
で立ち尽くしていて、裕子の目の前にはワン
カップの空き瓶がふたつ転がっていた。流し
には朝の食器がそのままたまっていて、蛇口
から水が滴り落ちていた。
ソファーに座り込んだ徹の肩に怒りがみな
ぎっていた。裕子はしばらく起き上がること
もできずにいたが、水道の水を止めようと立
ち上がった途端に吐き気に襲われ、泣きなが
ら流しの食器の上にもどした。
徹と暮らしたのはわずか一年半ほどだった。
別れたあとでは、潮が引くように酒を飲むこ
とはなくなったが、自分が壊れてしまったと
いう思いはずっとわだかまっていた。食欲は
しばらく回復しなかった。呻いて朝を迎える。
布団の中で痩せ細った腕を撫で、手首を握り、
その細さに呆れて、起き上がる気力もうせる。
なんとかしなければと思い立って、結婚す
る前の簿記の仕事に戻ったが、心の傷を常に
他人に覗き込まれているような圧迫感がつき
まとった。
そして、崩れかけた心を辛うじて皮膚一枚
で人目から隠して生きているという不安がず
っと絡みついていた。
徹とはその後、香林坊あたりでばったり出
会ったことがある。視線を逸らして通り過ぎ
ておいてから戻ってきて裕子の肩を叩き、
「おれのほうが捨てられたんやったかな」
と、すさんだ笑みの中から言い残して雑踏
の中へ肩をすぼめるようにして歩き去った。
昼の光の中で見ると、ひとりの男としては女
の目を惹きつけるものがある。不思議な感慨
が裕子の胸を流れていった。仮りにも夫と呼
んだ人なのだ。しかし、ようやくかさぶたと
なった心の傷が、またじくじくと疼き出すよ
うな不安のほうが強かった。
その後ろ姿に向かって、ああでもしなけれ
ば簡単には別れられなかったかもしれないと
裕子はつぶやいていた。まさか、無意識のう
ちにそこまで計算して演技をしていたのでは
なかっただろうが。
徹の怒りは至極単純で、だから離婚までは
あっさりと話が進んだ。人の心とはとても単
純なものだ、とは別れることが決まった時に、
裕子が自分の内側を覗いて感じたことでもあ
る。さまざまな揺らぎを撥ね除けて、気持ち
があまりにも軽くなっていた。
それゆえの後ろめたさだろうか、見送る裕
子の目の縁を流れる風が涙を誘った。
山本が勘定を払っているうちに、裕子は洗
面所で化粧を直した。
「ゆうちゃん、このごろ、目がいきいきして
きたね」
様子を窺いに来たのだろう、伯母が数日前
裕子のアパートを訪れ、ひと目見るなり、し
てやったりという顔になってそんな言葉を投
げてきた。
裕子の目に光が入ったというのである。
そうだろうか、と思いながら口紅を掃き直
す。
そう言われれば、虹彩のあたりがなんとな
く輝いているようだった。
山本は長身を恥じるように猫背で歩く。雨
もよい、犀川の瀬音だけが耳に優しい静かな
夜だった。
謡をやるらしい。加賀の謡曲が日本の三曲
と称される時代もあったようで、加賀宝生の
影響が暮らしの底辺に流れる、金沢とはそう
いう土地である。この大きな体で、どんな声
を出すのだろうと想像すると口もとがほころ
んでくる。
「若いころにね、好きやった人を亡くしてね」
山本が唐突に言い出した。
「まだ、学生のころでね。つきあってた女の
子が病気で死んでしもうて。人はどしてこん
な簡単に死ねるんやろと思うくらい、あっけ
なく死んでしまってね」
「そんで、いままでずっと」
「ほうや。お見合いの時あなたを見たら、そ
の人にあんまり様子が似てたもんで」
前方にしだれ桜がひと群れ、周囲の闇を染
めるような花をつけていた。柔らかな川風に
も花の薫りが混じっている気がする。
「いっとき、すこし元気になって、こうして
桜を見に連れてったんです。すごく感動して
ね。よっぽどうれしかったんやろな。彼女、
桜の花びらひとつとって、口に含んだりして
ね」
あまり聞きたくない話のような気がしてき
た。遠い物語としてなら許せるかな、と思う。
頬にぽつり、と落ちてきた。
ほろりと酔っている。こんな時に男と女は、
どうするのだろう。裕子の体がそう言いたが
っている。しかし、まだこらえていよう。壊
れてしまった裕子の過去が湧いてくるものを
せき止める。
傘を開いて差しかける山本のほうに一歩寄
りながら、その大きな体に、まるで兼六園の
雪吊りのような人だなと微笑んでいる。
〈参考〉
著者の略歴は当講座NO.10の記事に掲載。
文学誌『吟醸掌篇』vol.1(編集工房けい
こう舎、2016年) に著者の短編小説「の
ら」が掲載されている。
オール讀物新人賞最終候補。96年「塩の
柱」で信州文学賞、 2002年 「ツバメ来
て」で長野文学賞、04年「浅間隠し」で
埼玉文学賞を受賞している。