スポーツは文化となりうるか
【2021年1月17日配信 NO.107】
スポーツ精神を欠いた勝者と敗者
新潟市 田代 真理子
きょうテレビで全日本卓球選手権女子シン
グルス決勝戦を見た。石川佳純(全農)選手
が、伊藤美誠(スターツ)選手を接戦の末破
り、皇后杯を手にした。
私は、勝負の行く末より勝敗の決定の瞬間、
オリンピック日本代表の両選手がコロナ禍の
中どのような態度を取るかに関心があった。
予想していたこととはいえ残念ながら、テ
レビを見る限り、その瞬間は、互いの健闘を
称え合うこともなく、石川選手は5年ぶりの
自分の優勝をただ喜ぶだけであり、伊藤選手
は悔しさのあまりなのか石川選手に背を向け、
うつむいたままで、ただずっと座り込んでい
るだけであった。
これがオリンピック選手なのかという思い
である。勝者は敗者をいたわり、敗者は勝者
を称えるという精神が微塵も感じられない。
それをアドバイスするコーチ、監督もいない。
ここにあるのは勝利至上主義だけである。
これは卓球だけでなく、現在、ほとんどの
スポーツ競技において見られる光景である。
スポーツが文化であるなら、このような態度
を公の場で見せるべきではない。また、選手
やコーチ、監督、競技運営者たちの人間性も
問われるものである。
まして、勝者が自身のコーチを、コーチが
勝者を肩車して競技場を走り回るに至っては、
スポーツというものを、そしてそれを見てい
る者までをもおとしめる言語道断の恥さらし
行為である。金メダルの価値とはその程度の
ものなのか。さらに、そのような行為をする
者に国民栄誉賞や紫綬褒章を与える者もどう
かしている。
かつての東京オリンピックの柔道無差別級
決勝で、勝利決定の瞬間、アントン・ヘーシ
ンク選手は、敗者の神永昭夫選手を思いやり、
歓喜する自陣コーチたちを制止し畳に上げず、
神永選手に敬意を示した。スポーツにおいて
私がこれまでに最も感動したシーンである。
スポーツ選手や関係者にこのような精神が
芽生えない限り、スポーツを文化などと称す
ることはできない。
このことは、コロナ禍以前の問題であり、
オリンピックというものそのものや、オリン
ピックに参加する資格さえ問われる一大事で
ある。
〈以下参考〉
上の記事にある場面1964東京五輪柔道.アントン・ヘーシンクと神永昭夫
中国メディアが伊藤美誠を批判
当講座NO.6の前田祐吉さんの
「学生野球考」の記事も併せて
参照していただきたい。
ジャパン・スポーツ・ツーリズム
スポーツ庁(室伏広治)作製
よくまとまっているが、しかしながら利権・
金目を離れ文化を内在できるかどうかが要。
JAPAN SPORT TOURISM (sporttourism-japan.com)
〈追記〉
2024.3.13 THE ANSWER、成長した伊藤美誠