ヒロシマの回想
【2020年8月6日配信 NO.11】
石川県加賀市 建設業 七尾 政治
昭和二十年八月六日、日曜日、その日も朝
から焼けつくような真夏の太陽が輝いていた。
陸軍の現役兵として私は広島の兵営で、前夜
の空襲警報も解除され、緊張から解放されて
衛兵交替の申し送りをしていた。
朝八時である。微かな爆音と共に、米国が
誇るB29の機影が、銀色に青空の中に見え
た。B29を広島の上空に見たのはもう数回、
やや慢性化の感でいたのであるが、衛兵交替
時でもあり一瞬緊張して機を見上げた。
高度一万、交代終了、八時十五分! 突然、
日光をあざむく閃光が、一瞬、皮膚を焼く灼
熱とともに炸裂して目を眩ませた。と同時に
耳を聾する百雷同落の如き大轟音と、人をも
吹き飛ばす大爆風が、間髪を入れず広島全市
を震撼させたのである。無我夢中、先を競っ
て営庭の一隅の防空壕に飛び込む時、この目
に映ったのは、市の上空に渦を巻いた紅蓮の
炎の爆雲が、巨竜のように発生して昇る姿で
あった。いわゆる『きのこ雲』である。無気
味なその雲に向かって、「また爆発するぞー」
と怒号する者もいた。もくもくと次から次へ
と火を吹いて湧くその雲は、風を巻く音をた
ててその夕刻まで消えなかった。
灼熱の閃光と爆風によって、爆心地から約
二・五キロの半径内の家屋は、ことごとく将
棋倒しに倒壊した。爆発三十分後には、二千
度の高熱をともなった閃光によって、全市は
一斉に火災が発生した。径五寸もある火の塊
が、きのこ雲から無数に落下して、屋根の上
で飛び散るのも見えた。全市は炎と煙に包ま
れて、倒壊した家屋の中から辛うじて逃げた
市民の群れは、雪崩のように広場や郊外へと
走ったのである。普通の爆弾ではない。たっ
た一発で大広島が、一瞬にして火の海になろ
うとは。憶測が憶測を生み、全市が不安のど
ん底に陥った。
かつてない新型爆弾であろう。私は、防空
壕の中で、右手甲と鼻下に火腫(ひぶくれ)
ができているのに気づいたが、処置する考え
も暇もなかった。中隊の水上勤務の兵隊が裸
で作業中に被爆して、全身火傷(やけど)と
なって次から次へと運ばれてきた。胸も背も
火傷を負っている彼らは、伏すことも仰向く
こともできず、重心なく坐って苦闘していた。
手を施す術もない痛々しい姿だった。水を求
める力も弱い彼らに戦友は水を与えた。その
日の夕方から翌々日までに、重傷の彼らはほ
とんど死亡した。かわいそうな最期だったと、
見守った戦友の話しだった。
私の火腫は二か月後の復員までには、幾分
の色素を残して外傷は治った。また、ほとん
どの兵が私と同様に火腫を生じた。露出部分
に直接閃光が当たった皮膚が、大同小異に火
腫となったのである。
中隊が部隊負傷者の収容と市民の救援活動
にはいったのは、やや動揺の鎮まった午前十
時頃だったと思う。私どもの兵舎は、倒壊を
のがれたものの三十度ぐらい傾いた。無論、
窓硝子は一枚もない。足の踏み場もない状態
になったけれども、火災が発生しなかったの
は何よりだった。私たちは爆心地の方向へ急
行したが、兵舎から一キロ地点で既に火がす
さまじく、市民の避難で驚天動地の場となっ
ていた。
比治山の宇品寄りで市民の誘導や救援活動
にわれを忘れた。市民に「兵隊さん、兵隊さ
ん」と飛びつかれて叱咤激励した。逃げ惑う
市民のほとんどが火傷を負い、焼けただれた
夏服の肌も露わな跣(はだし)のままだった。
地上に落ちた無数の電線が足を奪い転びつま
ずき、その有様は、日本滅ぶの様相だった。
救援活動にはいって最初に私に飛びついて
来た二人の少年。それこそ灰の中から出て来
た頭の毛を焼かれた少年は、散髪屋で被爆し
て家とは反対の方向に逃げたと息きれぎれに
語った。郊外の避難所に行くように指示した
が、後髪を引かれる思いだった。あの子ども
たちは、どうなったのだろうか。中心地から
外へ外へと猛火は拡がる。炎と真夏の太陽と
放射能による火傷、裸同然の夏服。白昼炎に
追われる市民の大人も子どもも、その顔は尋
常の形相ではなかった。高層ビルから嘗める
ように吹き出す炎と煙、紙屑のように燃える
住宅。全市一斉の火災は、広島の空を薄暮の
ように暗くした。その夜も一晩中火災は続い
た。
私たちは、避難した市民の治安に一睡もな
かった。南瓜(かぼちゃ)の蔓が延びた畠だ
ったのが妙に忘れられない。不安におののく
人々が、「また空襲はあるのだろうか」と再
四問いかけるが、私たちにも知る術はなかっ
た。私は故郷のことが気になった。今頃は広
島と同じ運命にあるのではなかろうか。私の
召集後、あとを追うようにして応召した父。
子どもと女だけの家族は大丈夫だろうか。心
中、秘かに共の無事を祈った。軍から支給の
乾パンをかじる放心の市民、それすら食えな
い負傷者に、衛生兵は白い薬を塗っていた。
猛火の炎は中天に達し、それらの人々を赤く
浮きぼりに染めた。
広島、最後の炎の長い一夜は開けた。翌七
日、猛火は広島すべての一木一草に至るまで
ことごとく焼き尽くし、駅前のビル群が黒焦
げの姿で一階の根っこから丸見えになったの
には驚いた。全市を包んだ猛火の前にはすべ
ての機関も機能も全滅した。日本、否、世界
の歴史に、一瞬にして全市全滅の戦争記録は
かつてあっただろうか。視界のすべてが焼野
が原である。戦争と化学の恐ろしさに慄然と
した。後日、この広島を原子砂漠と人は形容
した。
私たちは負傷兵を除く全員、治安と救援に
余燼と熱気の市内に出た。比治山の下で焦げ
た電車の中に、乗客の焼死体が破れた窓から
見えた時、これが現実かと自分の目を疑った。
焼けた消防車、飴のように曲がった線路、洞
穴のような日赤病院。多くの患者はどうなっ
ただろう。昔、大本営のあった五層の天守広
島城も跡形もなかった。
広島は川が多い。その川に灼熱を避けて飛
び込み息絶えたおびただしい死体。燃え跡の
家屋の中にも死体の頭が見えた。これらの収
容作業や焼却火葬は、広島在住の陸軍部隊の
すべてが従事した。約一週間、私たちもこの
作業に従事した。異臭を放つ腐乱死体の無残
さに、現役兵を自負した私たちが、夜間、屋
外の厠には独りで行けず、戦友に同道を願っ
たことなど軽度の神経衰弱になったのは、私
一人ではなかった。
焼け跡の門柱やトタン板に、立ち戻った人
々が離散した家族に安否や消息を消し炭で書
いてあった。右往左往する放心の市民の姿に、
十日後の終戦を待たず、私たちは敗戦の予感
を膚で感じたのである。………
体重七十キロの私の重心を失わせた爆風、
火を吹いたきのこ雲、救いを求めて飛びつい
た灰だらけの少年、収容所の筵(むしろ)に
呻いた負傷者、集積所に並べた死体をかき分
けて不明の肉親を必死に探す人々。あの日の
広島の追憶は尽きない。広島の惨禍は私の網
膜と鼓膜からは生涯消えないだろう。
当時、広島ではこの爆弾をピカドンと名づ
けた。爆発瞬時をとらえた印象として現在も
その代名詞となっている。世界最初の原子爆
弾は市民軍人あわせて二十万の命を奪い、負
傷者は二十万とも二十五万人ともいわれた。
続いて九日には長崎市にも原爆が。長崎市の
惨状も広島同様だったことは想像に難くない。
私は二年前の八月六日、広島市主催の被爆
者慰霊式に招かれて、平和公園で開かれたこ
の式典に参列して、非業の死を遂げた犠牲者
に、同じ被爆者として心からの黙祷を捧げた
のである。参列した多くの人々が、立ち昇る
香煙のその中に、友や肉親や知己の面影を幻
の如く見たであろう。当時まだ二十三歳だっ
た私も「われ長らえり」の感懐を、青年の日、
国家の干城として過ごした一か年のなつかし
い想い出の地、復興なった広島で、しみじみ
と味わったのである。私どもが厳しい軍律の
日々を送った兵営跡も訪れたが、昔を留める
面影は更になく、時の流れを無性に感じたの
である。そこには平和な文化都市として鉄筋
の小学校が建ち、戦争を知らない子どもたち
がプールで水飛沫をあげていた。
原爆の恐ろしさを身をもって体験した広島
市民が、世界の平和を祈り、核兵器の廃絶と
全面完全軍縮を世界に訴える慰霊式に、参加
した人々と共に、平和の願いを更に深めたの
であるが、核兵器はますます量的拡大と質的
高度化の一途を辿り、限定核戦争や先制攻撃
論が台頭し、人類はまさに核戦争の危機に陥
ろうとしている。原爆の過酷さを体験した広
島市民、否、日本人は、慄然とする当時を回
想する時、核戦争には勝者も敗者もなく、た
だ全人類の破滅をもたらすものでしかあり得
ないということを、全人類に向かって血涙の
ほとばしる雄叫びで訴え続けなければならな
い世界の代表であり、世界の旗手であらねば
ならぬと深く感じたのである。
原爆資料館の写真や資料を見て、当時のヒ
ロシマが髣髴として思い出された。真夏の太
陽を受けて光る無気味な原子雲、暗い影を落
としながら北西に広がるその下に核時代の原
点となったヒロシマの、三十万とも四十万と
もいわれる市民の慟哭や呻き声が、当時、米
軍が撮した写真を透かして、海鳴りのように
私の耳底に聞こえる気がしてならなかった。
「ヒロシマは、単なる歴史の証人ではない」
「ヒロシマは、人類未来への限りない警鐘で
ある」
私は、荒木武広島市長が、全世界に向かっ
て声高く読みあげた宣言の一部を、独り心し
て繰り返した。
小社発行・『北陸の燈』第4号より