非戦、自由の実現へ(1)
【2021年1月6日配信 NO.97】
女性と天皇制
神奈川県川崎市
銃後史研究者 加納 実紀代
女性は天皇制の被害者か
女性と天皇制のかかわりを問題にする場合、
女性は天皇制の被害者であったという認識が
一般的ではないかと思います。それは、戦前
の家父長制的天皇制国家、その基盤である家
族制度の中で、女性は非常におとしめられて
いた、被害を受けたということです。それは
たしかにその通りで、戦前の民法なんかをみ
ると、その男女差別のひどさはものすごいも
のです。
しかし私には、女性をたんに天皇制の被害
者としてだけ考えていていいのかという思い
があります。私はいま、十数人の女性たちと
「女たちの現在を問う会」をつくり、十五年
戦争下の女性の軌跡をたどって『銃後史ノー
ト』という雑誌を出しています。
一九三一年(昭和六年)九月十八日のいわ
ゆる「満州事変」から敗戦の一九四五年(昭
和二十年)八月十五日にいたる十五年戦争の
時期は、天皇制が最も犯罪的な様相を呈した
時期ですが、その時期における女性のあり方
をたどると、女性を被害者としてだけとはい
えない、あえていえば、「天皇制の犯罪性へ
の共犯関係」を認めざるをえないと思うので
す。
当時の厳しい状況を知らない戦後育ちの私
がそれをいうことは、非常におこがましいと
は思うのですが、私は、女性が歴史の主体で
ありたいと思うからこそ、被害者意識に安住
していてはいけない、他の責任を問うと同時
に自らの責任は責任としてきちんと引き受け
なければならない、それが主体的ということ
の意味だろうと思うのです。
たとえば、戦中の日本が行なった残虐行為
の一つに、中国人捕虜の生体解剖があります
が、戦後九州大付属病院の看護婦さんがその
ために戦犯に問われたことがあります。これ
に対して、市川房枝や高群逸枝などの婦人運
動家たちが、減刑嘆願書を出した。つまり、
その看護婦さんは医者の命令によって生体解
剖を手伝ったにすぎないのだから、罪に問う
のはおかしいというわけです。
それはたしかにそうだと思います。医者と
看護婦の関係を考えれば、医者の命令に看護
婦はしたがわざるをえない、だから命令にし
たがっただけの看護婦の罪を問うことはおか
しいということはいえる。法律的にはその通
りですが、だからまったく罪はないんだとい
ってしまっていいかどうか、一人の人間とし
て、主体的人間として、法律とは別の次元で
やっぱりそれを自分の責任として引き受けて
いく姿勢がなければならないだろうと思うの
です。
これは特殊な例といえますが、一般的にい
っても、たとえば私の母は、一九一七年(大
正六年)生まれで敗戦の時は二十八歳ですが、
広島の原爆で軍人だった父が死に、家は焼か
れ、九歳の兄と五歳の私をかかえて戦後は筆
舌に尽くしがたい苦労をしました。そのうえ
原爆症の不安をずっとかかえていたわけで、
その意味ではまさに戦争の被害者です。
しかしその母は、女学生のころ満州事変が
はじまったわけですが、「皇軍」の勝利、つ
まり日本の中国大陸への侵略を大喜びし、結
婚するなら軍人がいいと思っていたわけです。
これは母だけでなく、一九三三年(昭和八年)
の東京の女学生へのアンケートをみても、将
来の夫の職業として「軍人」と答える娘が激
増しているんですね。
一九三七年、日中全面戦争がはじまってか
らは南京陥落ーそのとき日本軍による中国人
大虐殺、いわゆる南京虐殺が行なわれたわけ
ですがーを祝って提灯行列をしたり、太平洋
戦争がはじまってからは「大東亜共栄圏」を
信じてひたすら銃後の妻・母として務めはげ
んだわけです。戦争に批判的なキリスト者や
いわゆる主義者は、母にとっては非国民の最
たるもので、毛嫌いしていたわけですね。母
のような女性が多数いたからこそ、あの戦争
の銃後は守られ、天皇制は安泰だったといえ
るでしょう。
もちろん当時の教育のあり方や女性の置か
れていた状況を考えると、まったく無理もな
かったと思うのですが、でもここで、あの時
は仕方なかったんだ、教育が悪かったんだと
だけいってすましてしまえば、女性が歴史の
主体になる道は閉ざされるし、次の世代に歴
史の真実を伝えられないのではないかと、私
は思っています。
なぜ日本人は
戦争の本質を見抜けなかったのか
私たちの会(女たちの現在を問う会)では、
この間刊行した『銃後史ノート』三号で、女
性が「満州事変」をどうとらえていたかを検
討しましたが、当時の女性たちには、ほとん
ど「事変」の本質がみえていなかったし、そ
れが悲惨な敗戦まで続く大戦争の開幕であっ
たということも分かっていなかったんだなあ、
とつくづく思いました。それはもちろん女性
だけではなくて日本人の大方がそうだったわ
けですが、その原因を考えてみるとき、一つ
は、知識、情報の不足があります。当時の新
聞はあげて、満州事変のきっかけをなした柳
条溝事件、日本の関東軍による満鉄線爆破を、
「暴戻(ぼうれい)な支那兵」によるものと
書きたてていましたし、「日本の生命線=満
蒙を守れ」とキャンペーンをはっていたわけ
です。そうした新聞報道の裏を見抜く力は、
とくに女性たちは養われていませんでしたし、
まして当時は、いわゆる昭和恐慌のさなかで、
民衆の生活は極度に疲弊していました。都会
には失業者があふれるし、農村でも娘の身売
りや親子心中が頻発したり、お弁当をもって
来られない欠食児童がいっぱいいたわけです。
だから、「満州事変」の本質を考えるよりは
食うだけでせいいっぱい、かえって、満州事
変の結果、日本が満州を占領して傀儡国家「
満州国」をつくったおかげで、日本では食え
ない労働者や農民が移住できて大助かりだっ
たわけです。
これは一般大衆だけじゃなくて、当時の左
翼の一部も、これで日本の失業者救済ができ
ると、日本の中国侵略を肯定してしまうわけ
ですね。
しかし、日本の民衆が「満州事変」にはじ
まる十五年戦争の本質、侵略性を見抜けなか
ったのはこうした情報不足や生活困窮だけで
なく、もう一つ根本的な原因があると思いま
す。
それは、感性というか想像力の欠如という
んでしょうか。あるいは、自らを客観視する、
対象化する姿勢がないーーということです。
私は、あの戦争の本質を見抜くには、それ
ほど知識はいらないんじゃないかと思うので
す。どれほど美辞麗句を並べて支配層が侵略
を合理化しようと、他国の領土に軍隊を出し
ているのはどっちなのか、日本か中国か、と
いうことを考えてみれば、これは明らかに日
本であるわけです。自分の家に他人が武器を
もって入りこんでくればいやだと思うのは当
然で、ちょっと中国人の立場に立って物事を
みる姿勢があれば、中国の人たちがいやがっ
て反抗するのは無理もないと思えたはずでは
ないかと思うんですね。
しかしそうはならない。それは何故なのか
を考える時、日本人の意識構造の一つの特徴
がみえるように思います。つまり、排他的で
独善的で、自分を対象化できないということ
です。「満州」を侵略して「満州国」を建て
るにあたっては、「五族協和の王道楽土」を
つくるんだということが一つの口実になり、
これを信じて「満州」に渡った人たちもいた
わけですが、これは日本以外の四族ーー満・
支・鮮・蒙ーーの人々からみれば、まったく
日本の一人よがりもいいとこです。
これは長い間島国で、井の中の蛙でいたせ
いかもしれませんが、だいたい稲作中心の生
産様式にともなう共同体は、中での融和と外
に対する排他性がはっきりしているように思
うのです。たとえば、かつての農村には虫送
りという行事がありましたが、稲に害虫がつ
かないようにという願いをこめて、村の境界
まで虫を送り出すわけです。境界の先は他の
村になるわけですが、そこに害虫がはびころ
うが知ったことでない、とにかく自分の村の
害虫を追い出せばよい、ということです。節
分の豆まきの「鬼は外、福は内」もそうです
ね。
農村共同体の中で育てられたこうした排他
性、独善性に加え、もう一つ、日本人の意識
構造の特徴として、価値の外在性ということ
があるのではないかと思うんです。つまり、
一人一人のうちに内面的規範をもたないとい
うことです。だから他人はどうであれ、自分
はこう思う、ということが弱い。みんながそ
うだからとか、さらに、人がいうから、とい
う形で動いて、付和雷同とか「長いものには
巻かれろ」ということになるわけですね。
そういう意識構造が基本にあるからこそ、
十五年戦争についても、自分でその本質を考
えてみようとはせずに、政府がいう聖戦イデ
オロギーに、疑問をもつことなくのせられて
しまったのではないかと思うのです。
天皇制的意識構造と母性の論理
こうした日本人の意識構造を、私は天皇制
的意識構造と名づけているのですが、ここに
女性と天皇制のかかわりが問題になってきま
す。女性というよりは、母性といったほうが
いいかもしれません。
日本は、明治維新以来、中央集権的統一国
家を形成するにあたって、天皇を長とする家
族国家論を掲げました。つまり、日本は、欧
米諸国とはちがって、万世一系の天皇を祖(
おや)とする家族国家である、したがって天
皇は、外国の君主のように国民を支配するの
ではなく、国民一人一人を赤子(せきし)と
して慈しむ親のような存在であるというわけ
です。だから「教育勅語」に「克(よ)く忠
に克く孝に」とあるように、「君に忠」とい
うのと「親に孝」というのは、矛盾なく統一
できるわけですね。
これは、民衆の中にある素朴な親子の間の
感情を天皇を長とする統一国家づくりに利用
したわけですが、このとき親というのは、父
親であるよりも母親的なものであったのでは
ないかと思うのです。
農耕社会には、母性崇拝、母子神崇拝の風
習がありますが、これは生命を産み出す母性
が、豊穣のシンボルとして崇(あが)められ
たということでしょう。天皇にはもともと、
新嘗祭と神嘗祭といった農耕儀礼があるよう
に、農耕神的な要素があります。が、それに
加えて日本の民衆の間には、母性、母なるも
のへの幻想が根強くあります。
とくに戦争がはじまってから、日本の母、
日本的母性というものが非常に讃えられます
が、この「日本的母性」というのは、子ども
のためには、自己を犠牲にするという「自己
犠牲」と「献身」が特徴であり、欧米の母親
とはまったく異なったすばらしい点なのだ、
というものです。それから、「無限抱擁」と
いうのでしょうか、己をむなしゅうしてわが
子を慈しみ、無限に抱擁するーーこれが日本
的母性であり、「母心(ははごころ)」であ
るというわけです。
そして天皇の国民に対する心、すなわち「
大御心(おおみこころ)」は、この母心のよ
うなものなのだと、さかんにいうわけです。
これは、民衆の中に底流としてある「母なる
もの」への憧れを天皇崇拝に直結させるため
に非常に有効であったのではないかと思いま
す。
天皇制というのは二面性がありまして、外
のもの、多民族や同じ民族でも共産主義者の
ように歯向かう者に対しては、非常に苛酷な
弾圧装置である反面、中の人間に対しては、
「一君万民」とか「一視同仁」とかいう言葉
があるように、非常にやさしく平等に「御仁
慈を垂れ給う」という融和的な面があるわけ
です。
これは、よくいわれる母親の「わが子意識」
と似通った点があると思うのですが、つまり、
「わが子は非常にかわいがるけれども、よそ
の子はどうなってもいい」「わが子が何か悪
いことをしても、うちの子にかぎって」と、
わが子の罪を認めない、そして、「うちの子
がもし悪いことをしたとすれば、それは友だ
ちが悪いんだ」というふうに、よその子に責
任を転嫁することが往々にしてあります。
日本人の天皇制的意識構造、排他的で独善
的なあり方は、こうした母親の意識構造に通
ずるところがあるのではないか、そして、「
己をむなしゅうして子のために尽くす」とい
う母親を評価する視点は、自我の確立とか、
個の主張、みんながどういおうと自分はこう
思うという主体的な姿勢とは真っ向から対立
します。自分を犠牲にして他のために尽くす
というのは、一見非常に美しくみえますが、
自らの中に内在的な価値をもたないので、結
局、他人の顔色をみる、大勢に順応するとい
う姿勢につながります。
女性と天皇制の問題には、こうした日本人
全体の意識構造にかかわる問題があるのでは
ないかと思います。
天皇制国家への女性の協力
さらに実際問題として、天皇制が最も犯罪
的な様相を帯びた十五年戦争の間、女性が男
たちを戦争に駆り立てるために非常に協力し
たということがあります。
その最たるものは一九三二年、十五年戦争
開始の翌年に結成された国防婦人会です。こ
れは、最初はまったく無名の主婦の自発性か
ら出来たものですが、戦争拡大とともに全国
の女性を急速に組織化し、一千万人の大集団
になりました。そして、出征兵士の見送りや
慰問、遺骨の出迎え等々、兵隊さんのために
と、一生懸命働いたわけです。こうした女性
たちの活動がなければ、もっと早く兵士たち
の間に反戦・厭戦意識が広がり、戦争継続は
不可能だったかもしれません。
また、男が戦場に駆り出されたあとの軍需
工場にも女性たちが動員されて、武器、弾薬
の製造にはげみました。十五年戦争開始前の
一九三〇年、約百万人だった女性労働者が、
敗戦時には五~六百万人にも増えています。
それだけはでなく、日中戦争開始後にはじま
った国民精神総動員運動に、市川房枝さんは
じめ数多くの婦人運動家が協力しましたし、
山高しげりや高良とみ、羽仁説子といった人
たちが大政翼賛会に参加するなど、婦人参政
権はなかったけれど、戦時体制の中枢に入っ
た女性も多かったわけです。
戦時下におけるこうした女性の社会進出を
とらえて、戦時体制は、女性解放にプラスで
あったと評価する動きがありますが、私は、
他国への侵略戦争を支えるための女性の社会
進出は、真の解放とはいえないのではないか
と思っています。
ともあれ、女性と天皇制を考えるにあたっ
ては、女性をたんに天皇制の被害者とだけと
とらえるのではなく、こうした共犯性の面を
も直視して、女性自身の今後のあり方を考え
るべきではないでしょうか。
天皇制と「近代」を超えるために
現在天皇制は、かつてのような国家権力と
しての機能をもってはいませんが、日本人の
天皇制的意識構造は、依然として根強くある
ように思います。女性たちは、参政権をもち、
教育程度も向上し、情報はあふれるほどあり
ます。生活は豊かになり物があふれ、そして
数多くの女性たちがさまざまな分野で働き、
経済的自立をかちとっています。
しかし、それで本当に自律的・主体的に生
きているかといえば、必ずしもそうはいえな
いのではないでしょうか。自分自身の内面的
価値にもとづいて主体的に判断するというよ
りも、マスコミ情報に右往左往し、みんなが
行くからと子どもを学歴社会のレールにのせ
るために、必死になっている母親も多いので
はないでしょうか。
それに、社会の「近代化」にともなって、
家族や地域社会が解体され、人間関係が個々
バラバラな冷たいものになっていくと、かつ
ての「共同体的な、母性的な暖かい人間関係」
に対する憧れが人々の間に広がってきます。
たしかに母性の論理、女の論理は、生産性や
効率の観点で人間を選別し切り捨てるのでは
なく、生きとし生けるもの、生命あるものを
差別なくはぐくみ育てるという普遍性をもっ
ているはずだと思います。
しかし、それをアプリオリに評価し、母性
に安住するとき、ともすれば、先に触れたよ
うに天皇制にとりこまれ、排他性と独善性を
帯びることになりがちです。
効率と選別の論理で突っ走る「近代」を超
えるために、母性の論理、女の論理を有効な
らしめるためには、それを一人一人の内面的
価値として主体的に受けとめると同時に、自
らを対象化する視点を常に鍛えなければなら
ないでしょう。
女性解放や女の自立を考えるにあたっても、
私たちは、現在の社会における女性の量的進
出や地位向上ではかるのではなく、この女の
論理の普遍性に依拠して、戦争や差別のない
社会をつくるにはどうすればよいか、そのた
めには、どのような生き方、生活のあり方を
すべきかを、常に考えていかなければならな
いのではないかと思います。
『天皇制を問うー2・11集会・講演集ー』
(名古屋YWCA発行)より
第54回「現代の声」講座で上述と同趣旨の
提言。
〈参考〉
加納実紀代さんの著書
『女たちの〈銃後〉』 (筑摩書房,1987年)
『「銃後史」をあるく』 (インパクト出版会,
2018年)など。
また、靖国問題を考える映像ドキュメンタ
リー『まだ軍服を着せますか?』(1989年、
VHS、小社企画発行)のナレーションと最終
映像の監修を伊藤正孝さん(当講座 NO.8の
記事執筆者)とともにしている。 同ビデオは、
現在、DVD第30版 (2019年11月14日付け) を
発行中である。
当講座NO.5、11、16、76の記事も併せて
参照していただきたい。