北前船(ふね)
【2021年1月29日配信 NO.117】
西田 瑤子
空ゆく鴇に 消息を託し
想いを馳せる 宮腰の浜
北へ北へと 荒磯越えて
銭五の北前船は 帆を揚げる
船大工の技を 鏤めて
嵐も敬ける 常豊丸がゆく
千両箱が梅鉢が 何するものぞ
銭五の夢は 無尽蔵
舳先に挿したる 弁吉人形が
突風に吹かれて 大野の舞い
北へ北へと 心も踊る
銭五の海道に 星光差す
そらゆくとりに たよりをたくし
おもいをはせる ふるさとのはま
きたへきたへと あらなみこえて
ぜにごのふねは ほをあげる
たくみのわざを ちりばめて
あらしもよける ふねがゆく
とみがしるしが なにするものぞ
ぜにごのゆめは ただひとつ
さきにさしたる からくりびとが
かぜにふかれて ふるさとのまい
きたへきたへと こころもおどる
ぜにごのみちに ひかりさす
〈参考〉
銭屋五兵衛(ぜにや ごへえ)
1774年 ~ 1852年。銭五(ぜにご)と呼ばれ
ている。朝倉氏の末裔を自称する。加賀藩を
ささえた御用商人。巨万の富をきずく。
宮ノ腰(現在の金沢市金石)で北前船による
海運業を営む。藩年寄の奥村栄実を後ろ盾に、
国内だけでなく樺太でのアイヌの仲介による
山丹貿易、千島でのロシアとの抜け荷や朝鮮、
中国、香港、アモイ、米国、オーストラリア
等でも交易していたといわれる。
河北潟の干拓工事で藩の反対派の中傷と罠に
はまり投獄され獄死。全財産没収、家名断絶
の憂き目に。長男は磔(はりつけ)に。
現在、銭五の旧宅の一部が「銭五の館」とし
て銭五の生家近くに公開されている。また、
同館に隣接して「石川県銭屋五兵衛記念館」
が設置されている。
近年、鎖国体制の江戸時代にあって海外交易
をしていたことが、驚きをもって注目、評価
されている。銭五とはいったい何者なのか。
謎深い人物である。滅亡した朝倉氏の末裔を
加賀藩が匿っていたのであろうか。あるいは、
幕府や朝廷ともつながりがあったのだろうか。
あるいはまた、これまで語られてこなかった
何か隠された重大な史実(東インド会社との
関係とか)があるのだろうか。
当講座 NO.2とNO.70 の記事も併せて参照し
ていただきたい。
また、当講座NO.116の記事にも西田瑤子さん
の詩があります。
〈追記〉
当講座記事NO.329、330、391も乞う参照。