私のふるさと歴史考(第1回)
【2020年7月9日配信】
「五百羅漢」-北前船が運んだ話-
富山県射水市 廣田 克昭
富山市の西方、呉羽山の中腹に曹洞宗の寺
院長慶寺(富山市桜谷)がある。この境内に
約五百体の石仏が東に向かって数段に並んで
いる。立像で三尺七寸、坐像で三尺三寸ほど
の羅漢像である。一体一体がそれぞれ異なっ
た表情をもち、物言いたげな口もとをした何
とも人間くさい奇妙な石仏の群れが、訪れる
人の興味をひく。
かつて、これらの像は山上の釈迦堂から長
慶寺へ下る坂道の両側に並んで、釈迦の説法
を聞く形式になっていたが、明治三年の廃仏
毀釈の折に倒されたり、幾体か紛失したため、
昭和二年の修復で現在のように並べかえられ
た。
この五百羅漢の造立には、富山城下の廻船
問屋黒牧屋善次郎の発願によって数百人の同
志があつまり、寛政十一年(一七九九年)か
ら嘉永の頃まで五十年余りかかった。製作地
は石材(花崗岩)の産地佐渡であったと考え
られる。佐渡の椿尾(真野町)と小泊(羽茂
町)に良い石切場があり、文化・文政期(十
九世紀はじめ)の頃には石工の村として知ら
れ、越中・能登を中心に多くの石仏が売り出
された。越中の港西岩瀬と松前(北海道)を
結ぶ商船が、佐渡に立ち寄って数体ずつ石仏
をのせ、岩瀬から神通川を木町の船着場(今
の松川が当時、神通川本流だった。)までさ
かのぼって船を着け、運んだと言われる。
願主黒牧屋善次郎以下寄進者の名を記した
『五百阿羅漢尊者寄進録』が、今も長慶寺に
保存されている。その中に「佐州小木湊柳屋
伝五右衛門」「佐渡国新秋町山城屋勘十郎」
という名が含まれているが、佐渡での石仏製
作の受注や積み出しに協力した商人であろう。
羅漢信仰は小乗における釈迦の高弟崇拝に
端を発し、羅漢は、阿羅漢のサンスクリット
のアルハットの訳で「尊敬を受けるに値する
人」という意味である。すなわち、釈迦の教
えを守り、一切の煩悩を断絶して理想郷に至
った超人をさした。ところが、他者救済と慈
悲の大衆の世界では、羅漢思想は禅、とくに
老荘思想と結びつき、現世否定的・個人主義
的な信仰から、煩悩の克服とともに個性の自
由を認め、肯定にも否定にも、有にも無にも
執しない新たな境地をひらいた。ここでいう
羅漢は、それぞれ生の自我(個性)をもちな
がら、なおかつ一切のとらわれから解き放た
れた自由と無の世界に遊ぶ人である。そして
大乗仏教が釈迦の分身とみられる多くの如来
や菩薩を生んだように、十六羅漢あるいは十
八羅漢の崇拝から五百羅漢の崇拝がおこった。
日本では江戸時代になると各地で五百羅漢
が造像された。例えば石の羅漢群像では、川
越市喜多院(埼玉県)、加西市北条(兵庫県)
の五百羅漢などが有名である。また、木彫で
は八木町清源寺(京都府)の木喰(もくじき)
の作品(十六羅漢像)がおもしろい。これら
には、元来の羅漢の相貌から開放された人間
味あふれた顔がある。何とも言えないユーモ
ア、民衆の中にある何気ない笑いとくつろぎ
がそこに漂う。それは、近世日本の庶民の力
に依る新しい一つの信仰の誕生であった。彼
らは父母や近親者の霊をとむらうため幾人か
あつまって結縁し、私財をもちよって、造像
を市井の彫刻家に託した。
ところで、こうした五百羅漢造立の気運な
ど、庶民の信仰と文化の自由な表現は、産業
発展と商品流通の拡大による町人階級の経済
的台頭を背景にしている。長慶寺の五百羅漢
造立には、富山の豪商黒牧屋が願主となり、
彼のもち船が運搬に一役買った。当時、日本
海側の海運に「北前船」と呼ばれる船が従事
し、北陸、東北産の米を大阪へ運んだり、あ
るいは鯡肥買い入れのため松前との間を往来
していたが、従来の領国経済圏を超えた彼ら
の活動を介して、庶民の精神文化に大きな変
化がもたらされた。
北前航路の発達によって造立が成った長慶
寺の羅漢像には、こんな話が語り伝えられて
いる。
「佐渡に菖蒲舞(あやめのまい)という柏
崎から流れ着いたひとりの遊女がいた。世を
はかなんで出家し良寛尼と名のって後は、若
き日夜毎にちぎりを結んだ多くの客の面影を
しのんで画帳に写していた。この画帳を佐渡
の石工が借りうけ、モデルにして羅漢石像を
刻んだ」
という。
また、先年秋田の男鹿半島をめぐった折、
北陸から来たと知って宿の主人が話してくれ
た。男鹿駅のある船川からさらに南下すると、
海に面して切り立った岩山がある。能登山と
呼ばれ、春には全山が自生のヤブツバキにい
ろどられるというこの岩山に、北前船に乗り
組んでいた能登の若者と男鹿の娘との悲恋伝
説が語りつがれていた。
「椿の実を持って必ず戻ってくると約束し
て能登に帰った若者との再会を信じて、娘は
恋人を待っていたが、約束の二年間が過ぎて
も若者は戻らず、若者がうわさどおり遭難し
て死んでしまったのだと思い込んで、能登山
から海に身を投げた。四年目の春にようやく
思いがかなって、椿の実を持って娘に会いに
来た若者はこれを知って嘆き悲しんだ。若者
は、能登山の娘の墓のまわりに椿の実を蒔い
て彼女の霊をなぐさめ、能登へ帰っていった
が、やがて、椿は芽をふき全山をおおうまで
になった」
という。
能登山の名はこの伝説に由来し、この椿は
自生のヤブツバキの北限ということで大正年
間に天然記念物に指定されている。
北陸の港を出た松前通いの船は、途中各地
に立ち寄りながら遠隔の人々との交流を深め
たようである。五百羅漢と佐渡の遊女、能登
の若い船乗りと椿の花を愛する男鹿の乙女、
おそらくこれ以外にも、遠く庶民の夢とロマ
ンをのせて北前船が日本海を往きかったであ
ろう。そこには、来たるべき自立の力を秘め
た近世庶民の精神的解放があったように思わ
れる。
古来富山では「亡き父に会いたくば長慶寺
へ」という言い伝えがある。父親の面影は五
百羅漢の石像群をさがせば、必ず見つけるこ
とができるという信仰である。だが、静かな
笑いの表情をたたえた羅漢さんの前にたたず
むとき、何よりもまず、封建支配の緊縛と搾
取の下で、底流の如く黙々と貯えられていた
庶民のエルギーを感ぜずにいられない。
小社発行・『北陸の燈』第2号掲載
〈追記〉
当講座記事NO.329、330、391も乞う参照。