飴の民俗(3)
【2021年3月6日配信 NO.144】
前田 佐智子
四. 産育と飴
お産見舞いー祝い飴
出産祝いの他に、お産見舞いとして飴を
贈る習慣があった。『和漢三才図会』に、
補虚、冷益気力、止腸嗚咽痛、治吐血、
脾弱不思食人、少用能和胃気、
とあるように、産婦の体力をつけるという
意味で用いられた。飴はすでに消化の状態
にあるので、病人ばかりでなく産婦にとっ
てもたいへんな滋養食だったのである。
石川郡美川町で、昭和四十年頃まで飴屋
であった宮竹清次さんのところでは、「安
産飴(やすまるあめ)」という名をつけた
飴を売っていた。これは、美川町の西部の
低地を流れる安産川(やすまるがわ)の名
をとったもので、飴も安産川の寒のときの
水でつくったからだという。
いつ頃からつくられていたものかはっき
りしないが、鑑札には明治四十二年三月三
十一日の日付があり、また、明治三十六年
の引札が残っており、「美川今町、元長谷
長松事・宮竹重間」とある。さらに昭和五
年八月十八日振出しの為替手形には、「石
川県美川町・安産飴製造宮竹重間」と書か
れている。宮竹重間は、宮竹清次さんの実
父である。安産川のことは『石川郡誌』に、
……此の川を蓮理川といひしが、久安
元年(一一四五年)六月、此の川の側
より仏像を掘出し、爾後河水日に清澄
となり、産婦之を飲めば平産の効あり。
依って安産川と改称すといふ。歌あり
「汲みて見よ安産川の法の水ふかきお
もひは人の子のため」……
という伝説が書かれている。
子育ての飴ー母乳の代用
乳がでなかったり、少なかったりした母
親は、飴をガーゼなどで包み、赤ん坊に吸
わせた。餅米でつくった飴の場合は、上顎
に飴をはりつけておくと、ひっついたまま
飴が溶けて喉のほうにいき、決して喉につ
まらすということはないので、母乳の代わ
りとして飴をつかったという。
このことは、消化機能の未発達な赤ん坊
に飴が適しており、栄養があり、扱いやす
いということによったのだと思われる。
また、金沢には「飴買い幽霊」の伝説が、
金石の導入寺、山の上町の光覚寺、寺町の
立像寺にあり、「飴買い地蔵」の伝説が、
寺町の西方寺にある。
「飴買い幽霊」の伝説は、臨月で死亡し
た女が墓の中で子を生み、その赤ん坊のた
めに幽霊となって飴を買いにいき、あやし
まれて飴屋にあとをつけられ、赤ん坊が発
見され、お寺で育てられ、成人して立派な
お坊さんになるというのが、だいたいの筋
である。
「飴買い地蔵」のほうは、臨月で死んだ
女の墓の中で生まれた子のため、地蔵さん
が男の人の姿になって飴を買いにゆき、飴
屋にあやしまれてあとをつけられ、赤ん坊
が発見され、お寺で育てられたというふう
に、前述のと同じ話になっている。
金石の導入寺には、発見された赤ん坊が
寺を継ぎ、前代の和尚の徳と亡き母を偲ん
で円山応挙に頼んで画いてもらったという
幽霊の掛軸がある。
寺町の西方寺には地蔵さんがあるが、こ
れは、成人したそのときの赤ん坊が寺に贈
ったものとされており、毎月二十四日には、
地蔵講がひらかれ、子供たちの守り神とし
て信仰されている。このような伝説は金沢
ばかりでなく全国的にあるが、それは、飴
が昔から母乳の代わりになると多くの人々
から認められてきたからであろう。
千歳飴
十一月十五日の「七五三」の「千歳飴」
については、『還魂紙料』に次のように書
いてある。(『古事類苑』飲食部十三 飴
所収)
元禄宝永の比、江戸浅草に七兵衛とい
ふ飴売あり、その飴の名を千年飴又寿
命糖ともいふ、今俗に長袋といふ、飴
に千歳飴と書こと、彼七兵衛に起れり、
生質酒を好で世事にかゝはらざるの一
奇人なり、今様廿孝二の巻に曰、千年
の七兵衛といふ飴売あり、楽に養ふ子
あるに、いかないかなそれにかゝらず、
江戸中を空にして童にねぶらし、価の
其銭をすぐに処々にて酒にして、春秋
の栄枯を息なし呑の一盃にらちをあけ
て、年のよらぬ顔をひさしく見ること、
頬髭をかこち給ふ、堺町のさる野良の
あやかりたしとまうされぬ云々、宝永
六年にひさしく顔を見るとあれば、貞
享或は元禄の初より、其名を人に知ら
れたる歟
小学館『国語大辞典』の「千歳飴」には、
一六一五年(元和元年)、大阪夏の陣
で豊臣家が滅亡し浪人となった平野甚
左衛門の一子甚九郎重政は、摂津国平
野村に住み飴製造を業としていたが、
後に江戸に出て右衛門と改名して浅草
寺境内で、「千歳飴」と名付けて売り
だしたところ、江戸の人々の好評を得
た。さらに、一六九七年(元禄七年)
には、飴売り七兵衛が千歳飴を売り歩
いて好評を博した。
とある。
子供の棒飴売りー美川町
七、八歳から十二、三歳ぐらいまでの子
供が、棒飴を入れた小箱を抱えて「飴やぼ
うあめ」と連呼しながら売るのである。彼
らは親からもらった一銭か二銭の銭で飴を
買う。飴屋から一銭につき十五本の棒飴を
もらい、一本一厘で売る。一銭の元金が、
一銭五厘になることが魅力となり、子供た
ちは競って棒飴売りをやりたがった。上流
家庭などは親が許さないので、その家庭の
子供たちは飴売りの子供について歩き、親
や親戚に買わせた。
期間は、十一月二十日秋の恵比寿講から
翌年一月二十日春の恵比寿講で終わるが、
その期間中にあるお七夜には、お年寄りの
集まる町内八か寺で売ってかなりの利益を
あげた。なにせ子供のことで長つづきする
ものでなかったが、貧しい家の子供たちは
昼夜の別なく風雪をおかして売り歩いた。
『美川町史』によれば、このことは明治
中期に絶えてしまったことになっているが、
元飴屋の宮竹さんは、売り値一本五厘の飴
を三本一銭で子供たちに渡していたと話さ
れており、宮竹さんの年齢から昭和にはい
ってもこの風習はあったと考えられる。
飴屋坂の子供の車押しー金沢
「飴買い幽霊」の伝説で知られている山
の上町の光覚寺の前、森山小学校へくだる
坂が現在、飴屋坂といわれている。
日置謙編の『加能郷土辞彙』には、飴屋
坂は、
金沢犀川川上新町辺の河原へ下る坂の
附近に飴を商う小家があったので、そ
の坂を飴屋坂と呼んだといふ。変異記
に亨保七年二月九日犀川川上新町酒屋
大桑安兵衛とあめや坂の間の町家焼失
したとある。今は坂道らしい体を存せ
ぬ。
とある。現在、飴屋坂と呼ばれるあたりも、
飴屋が多かった。光覚寺前には籾谷という
飴屋があり、その坂をくだってさらにいく
と小橋町の俵屋に着くのである。
光覚寺で聞いた話だが、寺の前の飴屋坂
が急なので飴屋の大八車が動かなくなる。
近くの子供たちに頼んで押してもらい、お
礼に飴をわたす。それで子供たちは飴がほ
しくて毎日飴屋の車を待っていたというこ
とである。
飴買うて笹やるかー加賀市・江沼郡
「良いところはくれず、不要なつまらな
いものだけくれる」という意味である。
飴屋が飴を売りにいったおりに、その家
の子供におまけとして飴を笹の葉にくるん
で渡すのが常識みたいになっていた。それ
で、子供は期待しているのだが、もらえな
かったり、飴の量が少なかったりすると、
飴屋にむかって、「飴買うて、笹くんさっ
た」と、からかった。それが「飴買うて、
笹やるか」という言葉になって、別の場合
でつかわれるようになったのである。金沢
でもこの言葉があったらしく、俵屋の社長
さんも「飴買うて、笹やるか」という言葉
を知っておられた。
飴屋は、子供用の飴・白飴は笹の葉で包
み、料理用につかう固飴は竹の皮で包んで
お客に渡した。笹も竹の皮も飴がひっつか
ないためと、今村充夫先生から教えていた
だいた。新潟の「越後のササアメ」、七尾
の「大豆飴」も笹の葉や竹の皮で包んであ
る。「大豆飴」のように、麦や大豆の粉を
飴で煉ったものを「飴ちまき」という、と
『嬉遊笑覧』にでている。
竹の皮は、孟宗竹のものが良く、竹藪を
もっている農家にたのんだり、業者から買
ったりした。この業者は、子供たちをつか
って竹の皮を集めさせ、飴を駄賃としてあ
たえていたので、子供たちは喜んで協力し
ていたという。
飴買い銭
子供へ渡す小遣い銭のことである。祭の
ときや、子供から菓子などをねだられたと
き渡す銭を「飴買い銭」という。甘くて簡
単に手に入れることのできるものが「飴菓
子」であり、そのために祭には、たくさん
の飴の店が並び、子供をそこへ走らせたの
であろう。
日なか玉
丸く大きな固い飴(飴玉)を「日なか玉」
と呼ぶ。庶民にとって甘い菓子は、贅沢品
であった。それで親たちは、、子供には日
なかじゅう、口の中にある固い飴をひとつ、
おやつとしてあたえた。それでこの名前が
付けられたのである。