踊りというもの
【2021年1月11日配信 NO.102】
広瀬 心二郎
しばらく前にあちこちで成人式が荒れた年
があった。その中のひとつで、たしか関西の
方のある町だったと思うが、酒に酔った若者
が数人で式場の舞台を占拠、やりたい放題を
したというニュースが流れていた。見ると、
金髪のいわゆるヤンキーのにいちゃんたちが、
飲酒解禁の晴れの日だとばかりに、一升瓶を
手にして舞台で踊っている。勿論映像中、主
役となったにいちゃんたちのそれぞれの顔は
ぼかしてわからないようになっていた。
若者がおかみの主催のセレモニーになんと
なく反抗するというのは、ありがちなことで
あろう。延々と議員さんだの市長さんだのの
お祝いの言葉ばかりが続く形式ばった行事に
なりがちだから。
だからそのニュースを見た時は少しにいち
ゃんたちの肩を持ちつつ、ヤンキーの若者の
ことだからよほど切れのいい踊りを見せてく
れたのだろうと期待して食い入るように画面
の見入っていた。ところが、あにはからんや、
金色の羽織袴のにいちゃんの一世一代の踊り
たるや、右手に一升瓶をさげ、片足は膝を曲
げて前に上げ、残った足でとっとっとっと、
舞台の上を跳ねているだけなのである。
もうちょっと気の利いたダンスはできない
ものか、と私は大いに不満を感じ、つれあい
にそうぶつけていた。その昔原宿で一世風靡
という若者たちが見せていたような踊りまで
は無理としても、今の時代なんだから、せめ
て床に背中をつけてくるくるまわるラップく
らい見せてくれてもいいのではないか。
しかしそういう私自身はどうかと言えば、
もっとはるかにひどいのである。およそ踊り
などと呼べるものはできない。運動神経ゼロ
なのである。小学校の六年間、かけっこは常
にビリだった。私にとって、自分の手足は実
に地球の裏側にあるというリオデジャネイロ
よりも遠いのだった。頭でなにか考えても、
その指示が手足に伝わるまでにほとんど無限
の時間がかかってしまう。最近の学校ではダ
ンスが必修になっているというが、そういう
授業はおそらく私にとっては地獄であろう。
で、こういったいきさつもあり、踊りの能
力ゼロの私が、最近いくつか歴史上に現われ
た踊りに興味を惹かれてしまい、ネットや本
などで気軽な調べ物をしている。
たとえば、歴史の表舞台に出現して強烈な
印象を与えた踊りがある。いわゆる、「ええ
じゃないか」踊りで、幕末も幕末、慶應三年
から四年にかけて江戸以西各地に起こった大
衆的狂乱とも呼ぶべき現象だった。桃井かお
りさんなどの出演で、映画にもなっている。
伊勢神宮のお札が空から降ったと称して、
民衆が一種いかがわしい歌を歌いつつ踊りつ
つ、街道に押し出し、ついでに地主豪商など
の屋敷に入り込み、物品酒食をなかば強要し
ながら進んだというものである。もとをたど
れば路銀も持たずに街道筋の住民の喜捨に頼
っての伊勢参り、いわゆる「おかげまいり」
の風習がこのようなぶったくりという極端な
形になったものらしい。
ある種新しい時代の到来を予感した民衆の
心の発露だったのだろうか。封建制身分差の
厳しい世の中の底辺に呻吟していた民衆の、
いわば明るいヒステリーのようなものだった
のだろうか。いずれにしても、武器も持たず、
そもそも社会にどう関与するという、個人と
政治との関係、個人の中の普遍性、政治的権
利などについて思念も言葉も希薄な民衆の、
文字通りのボディ・ランゲージとでも呼ぶべ
きものだったのかもしれない。
一説には、倒幕運動に利するためにあえて
作り出された社会的混乱でもあったとも言わ
れているようだ。
それにしても、時代の変化に深く影響され
た現象だとしても、もともと踊りというもの
が民衆の血の中にしっかりと根付いていなけ
れば、こういう顕著な、エポック・メイキン
グな現象は起こりえなかったものではないか
と思う。いったい日本人の血の中には、そう
した踊りの隠れた流れがあったのだろうか。
大いに興味を引かれてしまう。
さてもうひとつ、近頃私が同様に興味を抱
いている踊りがある。それは、岐阜の郡上八
幡という町の有名な「郡上踊り」で、実に延
々真夏のひと月にも及ぶ盆踊りである。
そこで踊られる数種類の踊りの中にはいわ
ゆる盆踊りのにぎやかさとは対極的な、三味
線の切々たる調べに乗ってのそれも含まれて
いる。あたかも夜の闇と語り合っているかの
ような印象を受ける。その背景にはなんらか
の歴史的事件があって、闇に呑まれていった
魂に対する鎮魂の意味が深いのではないかと
私は以前から考えていた。祭りとは一面政治
によって滅ぼされたものに対する鎮魂の形で
もあるということを、どこかで聞いたことが
あったのである。
そして最近、かつて郡上八幡の地に史上最
大規模の一揆が起きていたと知り、やはりそ
の関連だったのだろうと、私個人の中では納
得したのである。郡上一揆と呼ばれて、これ
も緒形直人さんで映画になったという。江戸
の宝暦年間に年貢の徴収方法の改変を巡って
勃発した大一揆だったということである。
中心人物だった二十人近い百姓衆が獄門を
含む死罪となり、のみならず領主の改易など
為政者の側にも最大規模の罰が与えられたと
いう。その後今の時代に至るまで四百年もの
間続けられた郡上踊りは、その大一揆による
藩内の荒廃を彌縫(びほう)し、諸身分の間
の融和をめざして、新たな領主となった青山
氏が藩内各所にそれぞれあった盆踊りを郡上
の城下町に集めたものであるという。
お上の目からはそうした意図を持って作ら
れた郡上踊りではあろうが、少なくとも当初
は、義民を偲ぶ民衆の愛惜の思いが踊りの底
に濃く流れていたのであろうと私には思える。
そのような側面が夜を徹してのパフォーマン
スに今もおのずと現われ、にじみ出て、とも
に踊りに加わりもする多くの観光客を、全国
から郡上の地に呼ぶのではなかろうか。
そしてもしかしたら、同様の、歴史的な義
民の存在に関する記憶が、なんらかの形で脈
々と地元に伝えられている行事が、実は日本
各地にあるのではないだろうか。義のためあ
るいは民のために自分の命を犠牲にする覚悟
があった人々に対する鎮魂が、様々な形をと
って、あるいは形の底に秘められて伝わって
いるのではないかと、考えさせられているこ
の頃である。
〈参考〉
文中の「郡上踊り」に関する一揆は、
同時期の宝暦2~9年 (1752~1759年)
に起こった石徹白 (いとしろ)騒動も
併せ含んでいるのでは。この騒動に
よって、誰もが知るべき問うべき、
かつ日本史で語られるべき白山中居
神社社人とその家族の考えと信念・
行為・人情・人間のあり方、また、
彼らを助ける人など多彩な登場人物
と当時の時代背景、世の仕組み等が
学べる。
当講座のNO.10、60、69、92にも、
広瀬心二郎さんの記事を掲載。
NO.35、102、116 の記事も併せて
参照していただきたい。