雑木林
【2020年10月30日配信 NO.54】
金沢大学付属小学校教諭
正見 巖
普段、街で履いている革靴で山の急斜面を
かけ登るのはひどく難儀だった。
私の心臓は次第に波打ち、背広の下が汗ば
んでくる。
孟宗竹が密生した藪の中は太陽の光がさえ
ぎられて薄暗い。ところどころに竹のこを掘
った跡がある。しかし、私は竹のこを目あて
にやって来たのではない。
そのうちに小径は絶えてしまった。私はも
のにつかれたように、ひたすら頂上を目指す。
現在、この山の頂上はどうなっているか。
それが私にとって関心事なのである。もちろ
ん、人類未踏の山ではない。ごくありふれた
低い山である。土地の人はヒラオの山と呼ん
でいる。村はずれにあって、登ろうという気
さえあれば、ものの数分間で登ることもでき
る。
つれだって来た妻は落伍した。妻にとって
この山に登ることは何の意味もないからだ。
少し勾配のゆるい斜面で止まり、目で私を追
っているようだったが、私の方からはすぐに
見えなくなってしまった。
少年時代、この山へは何度もやって来た。
大人になって、時折、この山のことを思い出
してなつかしく思った。しかし、やって来る
機会がないままに三十数年の歳月が流れた。
頂上は近い。三十数年を隔てた山頂との対
面は数秒後にせまっていた。オーバーハング
気味の崖がせり出していて、頂上は目の前な
のにまだ視界には入ってこなかった。
終戦前後の数年間は食糧事情が厳しかった。
それは現在の飽食状態からは想像できないも
のであった。衣料、家具、指輪……食料と交
換できるものは全て交換した。食べられそう
なものはみんな食べた。南瓜のつるや芋の葉
までも食べた。人々は飢餓地獄にあえいだ。
特に育ちざかりの子どもたちをかかえる家
庭は大変だった。私の家がそうだった。父母
は三人の子どもをかかえ、追いつめられた。
この山は麓に住むSさんの所有である。父
が中学生だったころの先輩にあたる。そんな
ささいな縁故を頼って、山をかして欲しいと
お願いした。虫のよい願いなのは承知してい
た。だが、死ぬか生きるかの境目であった。
Sさんは快くかして下さった。それ以来、S
さんのお宅とは今でもつき合いがある。
山は竹藪に覆われていたが、山頂付近だけ
が雑木林であった。
父は百姓や木こりの経験もないのに、ここ
を開墾して芋畑にしようとしたのである。に
ぎったことのない斧をにぎり、木を伐った。
太い松や無数のナラの木がおい茂っていた。
木を伐ったあとは根を掘りおこさなければ
ならなかった。木の根以外に竹の根がくもの
巣のように入りこんでいた。
毎日、学校での勤務をおえてから父は一時
間もかかって、この山頂へたどり着き、真暗
になって作業ができなくなるまで雑木林に挑
んだ。血みどろ、汗みどろの作業である。
土、日曜には母と私が、それに加わった。
ようやく猫の額ほどの畑ができた。雑木林が
そこだけぽっかりとあいて、太陽の光は土を
あたためた。芋苗が植えられた。
水一つやるにしても、麓までおり、小川の
水を桶に汲む。天秤棒につるして山頂までじ
ぐざぐに登る。下肥は貴重品だった。四時間
もかかって、自宅から山頂まで運んでくる。
父が引く荷車の先綱を少年の私も引いた。過
酷な作業であった。糠鰯をかじって堪え抜い
た。
そうしてできたサツマイモが私たち一家を
飢えから救った。
竹につかまって体を引き上げ、ついに頂上
に着く。頂上は、雑木林であった。三十数年
前に何年間か畑であったことを全く忘れたか
のように、山本来の姿にもどっていた。
下草も茂っている。山のにおいがする。頭
の上を覆うナラの葉は光を緑色に変える。
過労がたたったのか父は早死した。やせた
体を鞭打って、最初の斧を入れようとしてい
る父の姿を私は思いうかべた。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
第5回「現代の声」講座提言者
テーマ:世界見たまま