私のふるさと歴史考(第3回)
【2020年10月10日配信 NO.38】
越中の歌聖人麻呂信仰
郷土史家 廣田 克昭
はじめに
『北陸の燈』第2号で紹介した、五百羅漢で
親しめる長慶寺(富山市桜谷)には、柿本人
麻呂の木像が秘蔵されている。また、境内の
一角に立つ「志都丸」(しとまる)と刻んだ
塚は、ヒトマロ(人麻呂)→ヒトマル(人丸)
をさらにもじったものと思われる。
(長慶寺所蔵の人麻呂像)
柿本人麻呂は『万葉集』に登場する持統期
(七世紀後半)の代表的歌人である。和銅年
間にかけて二十年以上も歌を詠み続けた人麻
呂は、奈良時代にすでに「歌聖」として崇拝
されるほどであった。だが、その生涯につい
ては謎の部分が多い。人麻呂の出た柿本臣氏
の系譜をさぐってゆくと、和珥、春日、小野、
粟田、大宅などの臣族と同族で、大和国・東
北部(添上郡櫟本附近)を本拠としたらしい
が、それ以外に当時の正史には何も現われて
こないのである。
彼の経歴について様々な説がある中で、先
年、梅原猛氏が『水底の歌』で大胆な仮説と
推理によって人麻呂論を展開されたことは、
まだ記憶に新しい。梅原氏は長く定説化され
ていた斎藤茂吉説を批判し、石見国・高津の
沖合いにあったと伝えられる水没伝承の島・
鴨山を人麻呂の死亡地とみて、人麻呂流人水
刑死説をうち出した。そして、その後このこ
とを科学的に実証しようと、島根県益田市で
梅原氏を団長とする海底調査(水中考古学)
が試みられ、大いに話題をはくした。
越中の地は、この議論と直接かかわりはな
いが、長慶寺に伝わる人麻呂像や志留丸塚の
存在は、歌聖人麻呂に対する信仰が当地にお
よんでいた形跡として興味深いものがある。
人麻呂が和歌の神として神格化された歴史
は古い。大伴家持らの万葉歌人たちの間で「
山柿の門」と称され、作歌の模範的存在であ
った彼は、また『古今和歌集』仮名序に「か
きのもとの人まろなむ、歌のひじりなりける」
と説かれ、平安時代より、歌人の間では「人
丸影供」(ひとまるえいく)が流行した。こ
れは、人麻呂の影像を安置し、香花を供え和
歌を献じて供養したものである。長慶寺にあ
る像はこのような風習の名残と考えられる。
長慶寺人丸社の創建
長慶寺附近の谷あいの「桜谷」の地は、昔
から桜の名所で、立山連峰を遠景に神通川の
清流を近くにのぞむ風光絶佳の地として知ら
れていた。
「四時貴賤群集して、勝景におほれて文を作
り、詩を吟し……、歌をよみ、終日の遊興、
日の暮るるを知らず」
と伝えられ、寛政十年(一七九八年)春、
ここに遊んだ富山藩八代藩主前田利謙(とし
のり)の生母自仙院佳子(じせんいんよしこ)
は、桜谷八景の歌(二四首一巻)を詠み残し
ている。
そして、このときに附された藩儒佐伯有融
の序文から、詩家の発起によって寛政丙辰(
八年)夏、当地に柿公の像をまつる祠が建立
されたことがわかる。自仙院は、この「柿公
の祠」すなわち人麻呂神社(人丸社)に歌を
奉納したのである。長慶寺と人麻呂信仰との
結びつきについて、また『越中婦負志』(え
っちゅうねいし)には次のように記されてい
る。
「人麿神、現時長慶寺に安置す。一時歌人の
尊崇せしこと左の記録によりて知らる。
抑、石見国高角山におはします人麿大明神
の神殿の土を、この桜谷に移し奉り、寛政八
年丙辰六月十一日に、一社をいとなむ……」
これで寛政八年(一七九六年)、石見国の
人麿大明神の分社として、長慶寺境内に人丸
社が創建されたことがほぼ明らかである。そ
れは、長慶寺が桜谷の地へ移って十年目で、
五百羅漢の建立が始まる直前にあたる。
富山城下郊外の景勝地で、四季をつうじて
藩の風流人が集まり、歌会の開催など当時の
サロン的役割を果たしていた桜谷一帯の整備
の一環として、人丸社建立があった、と考え
てよいだろう。その後、明治の初めに人丸社
は破壊されて、本尊の人麻呂像と塚だけがあ
とに残ったというわけである。
内山家と人麻呂信仰
しかし、越中と人麻呂信仰の結びつきは、
これよりもう少しさかのぼるようである。桜
谷の北方、富山市宮尾に藩政時代の十村(と
むら)内山家がある。盛時(宝永の頃)には
神通川の廃川地を開き千七百石にも達したと
いう大地主で、歴代主人の中には文雅の士が
多い。とくに十五代治右衛門は逸峰(いっぽ
う、安永九年没)と号し歌道に秀でていた。
逸峰は京都の武者小路家へ出入りして作歌
を習い、また西国を旅しながら多くの文人墨
客と交わったという。そして、彼の書き残し
た紀行文には、明和二年(一七六五年)、四
国、山陽、山陰を旅したおり、石見国では人
麿明神(柿本明神)に参籠して一昼夜に和歌
百首を作って奉納したこと、帰途に明石の人
丸神社へも詣でたことが記されている。次の
史料は、このとき石見の柿本大明神の別当真
福寺から賜った「参籠詠進一日百首」を証す
る文書(内山家所蔵)である。
今般於
当社一日百首題詠之
和歌首尾能被相詠献上之所
目出度遂奉納候并尚御願
咸就之趣宜致御祈念候也
勅願所
石見国
正一位柿本大明神別当
真福寺
良栄 印
明和二年
八月廿九日
越中国宮尾
内山治右衛門大伴逸峰雅丈
「大伴逸峰」と名のっているのは、越中ゆ
かりの万葉歌人大伴家持の崇敬者でもあった
からであろう。
また当家の遺品の中に長慶寺のものと同様
の人麻呂像が一体現存している。長慶寺の像
より小型で、首部が入込みになっており、背
面に「南嶺作」と刻まれている。逸峰が石見
国から柿の木をもらって帰り、京都の彫刻師
南嶺なる者に作らせたものだという。
(内山家所蔵の人麻呂像)
内山家の屋敷内には昭和の初め頃まで屋敷
神として人丸社がまつられていたそうで、現
在、正面を入って左隅にその跡らしい基壇が
残っている。
この内山家、人丸社を裏付けるものに次の
ような史料がある。
『富山県神社祭神御事歴』(大正三年)は、
柿本朝臣(あそん)の神霊をまつる神社の代
表として石見国美濃郡高津村柿本大明神社、
播磨国明石郡大蔵谷山上柿本明神社をあげ、
「本県にて此の朝臣を祀れるは、婦負郡百塚
村宮尾無格社歌神社なり。明和六年(一七六
九年)内山逸峰その鎮守として之を創祀す」
と記しているのである。内山家に伝わる人麻
呂像は、十五代逸峰が明和六年に屋敷内に創
建した歌神社=人丸社の本尊であったことに
なる。
人麻呂が晩年に国司の任をおびて赴任し、
没した地と伝えられる島根県益田市高津の柿
本神社、「明石の浦」の人麻呂の作歌にちな
んでまつられた兵庫県明石市人丸町の柿本神
社は、亨保八年(一七二三年)人麻呂千年祭
にあたって、ともに正一位柿本大明神の神階
神号を授けられた。
歌会、句会を催す当時の風流人の間では、
これを機にいっそう歌聖人麻呂信奉の熱が高
まり、明和の頃、越中を代表する歌人の一人
だった逸峰も、このような世の風潮の中で自
分の屋敷内に人麻呂をまつったものと思われ
る。人麻呂信仰と越中との結びつきは、おそ
らくこの頃に始まり、その後の長慶寺の人丸
社創建についても、藩主や藩の重臣との交際
が多く、越中の文運の中心にあった内山家が、
発起人の一人となってはたらいたと考えても
よいのではなかろうか。
人麻呂と民間信仰
ところで梅原猛氏は、石見、播磨国の人麿
神社のほか、奈良県大和新庄の柿本神社、大
和添上郡の歌塚、櫟本の柿本寺(しほんじ)
跡を例にあげて、人麿神社が全国に七十余り
あり、その中には示現寺、影現寺の名で呼ば
れるものが多く、人麻呂ゆかりの地には彼の
霊を鎮めるため人丸塚や祠がたいてい建てら
れていると述べている。
さらに、人麻呂水刑死を主張する梅原氏は、
人麻呂信仰の根底に「怨霊鎮魂」があるのを
指摘し、歌聖人麻呂が神にまつられたのは、
ただ歌が上手というだけではないとされる。
柳田国男がすでに『三月十八日』という長論
文で、三月十八日が小野小町、和泉式部、平
景清などいわくつきの怨霊たちの命日とされ
ている日で、人麻呂の命日もまたこの日にな
っている点に注目しているという。
つまり、憶良や家持、貫之らとちがって、
「歌のひじり」としてまつられるのは、彼の
芸術性だけでなく、不幸な死を遂げた彼の怨
霊に対する鎮魂の意味がこめられているとい
うのが、梅原氏の見解なのである。
これに関連して民俗学者の桜井満氏は、和
歌守護の神人丸が、安産や火伏の神に結びつ
くことについて述べている。現に、明石の人
丸神社は歌聖としてだけではなく、学問、文
芸、安産の守護神、除火災神として全国に信
者がある。これは「人生ル(ひとうまる)・
火止ル(ひとまる)=人丸(ひとまる)」と
いう語呂合わせにもよるらしいが、
「和歌の徳・歌の力には日本人の生活を律す
るものがある。和歌の神に対する祈願が、和
歌の上達だけに限らないところに、民間信仰
がある」
という桜井氏の指摘は、非常に興味深い。
しかしながら、越中における人麻呂信仰に
ついては、一部上層の風流人が純粋に和歌の
神様としてまつっていた観が強い。ただ、呉
羽丘陵の製茶の起源について伝えられる中に、
こんな記事がみえる。
「当国富山のこなた安養坊という所あり、此
地茶に宜しきとて、富山大守松平大輔(正甫)
様命を下され、茶を植えさせ給う。今彼地の
禅林に製して人丸と名付け世に賞せらる。当
国の名茶なり」(宮永正運『私家農業談』)
とある。
富山藩の二代藩主前田正甫(まさとし)が
製茶を奨励したという安養坊は、長慶寺のす
ぐ近くで、同じ呉羽山の東口にあたる。お茶
には古くから不老長寿の薬の意味があったが、
長慶寺人丸社に近い地で栽培されたお茶に、
霊験あらたかな「人丸」の名称が付けられて
有名になったというのは、ある種の除災の力
を秘めた歌聖人麻呂にに対する民間信仰の形
態が越中にも広がっていたように思われてな
らない。
(写真は筆者撮影)
小社発行・『北陸の燈』第3号より
第6回「現代の声」講座提言者
テーマ:私の郷土史観
当講座NO.2と7にも廣田克昭さんの
記事掲載
〈参考〉
2022.2.21