歌人・芦田高子を偲ぶ(1)
【2021年7月9日配信 NO.172】
短歌でめぐる兼六園
~六勝を中心に~
金沢市 若林 忠司
多くの観光客が訪れる兼六園。金沢めぐ
りのガイドブックには必ず兼六園が紹介さ
れている。しかし “兼六園”の「六」につい
て地元の人でも知っている人は少ないので
は………。
兼六園は一九七六年(昭和五十一年)、
保護・保存を目的に有料となる。風致に優
れ、学術的価値が特に高いとして、一九八
五年に「特別名勝」に指定される。
「特別名勝」としての指定を受けられた
のは、関係者の努力のほかに、兼六園の教
科書といわれる『兼六園全史』 (兼六園観
光協会、一九七六年)の果たした役割も大
きいという。
ここでは、その他
『兼六園』(北國新聞
社、二一一三年)、『兼六園物語』(新人物
往来社、一九七四年)の文献も参考にして
綴った。
私と兼六園の縁は、今は遠い中学生時代
にさかのぼる。中学校は兼六園のすぐ近く
にある小将町中学校であった。通学路であ
った白鳥路を通り、兼六園を見ながら通っ
た。当時は無料であったので学校の帰りに
何度か入園したことがあった。中学生の私
には兼六園の価値など分からなく、遊び場
にしていた。兼六園が歴史ある立派な庭園
であることを知ったのは大人になってから
である。
少子化、小学校の統合、通学区域の変更
などで、小将町中学校は、数年後には移転
するという。通学路も変わり、兼六園が遠
くなる。通学路のすぐ近くにあった兼六園
は遠い昔の思い出となる。
現在、兼六園はわが家から歩いて六、七
分ほどのところにあり、早朝は無料である。
散歩コースには最適の場所で、かつて兼六
園研究会の会員でもあったので、兼六園を
より深く知る目的で、みぞれの降る十一月
ごろまではほとんど毎日一時間ほど散歩し
ている。二十年ほど続く。園内マップはパ
ンフレットを見なくてもほぼ描くことがで
きるようになった。
芦田高子(あしだたかこ)に懐いを馳せ
ながら、彼女の著『歌集兼六園』(新歌人
社、一九六九年)に収められている短歌を
紹介し、「兼六園」の名称に使われている
「六」の優れた景観である「六勝」をめぐ
ってみたい。
短歌といっても五・七・五・七・七の三
十一文字(みそひともじ)ということを習
った覚えはあるが、知識はゼロに近い。短
歌のいろはを学ぶために、歌人の短歌を詠
むことから始めることとなった。
宏大と幽邃、人力、蒼古
みな水と山との六勝長き
六勝(ろくしょう)の意味については、
ガイドブックや辞書の記述を参考に記すと、
「宏大」(こうだい)は広々とした景観。
「幽邃」(ゆうすい)は物静かで奥深いこ
と。「人力」(じんりょく)は人の手が加
わること。「蒼古」(そうこ)は古びた趣
が感じられること。「水泉」(すいせん)
は滝や泉、池などの水。「眺望」(ちょう
ぼう)は眺め、とある。
命名は松平定信が付けたものであるが、
実際に金沢に来て、庭を見たわけではなく、
江戸で十二代藩主前田斉広(なりなが)の
話を聴いたりして付けたものという。
一.「宏大」
兼六園の一番の魅力は霞ヶ池である。宏
大な池に佇むことじ灯籠。足が二股になっ
ている。琴の糸を支える琴柱(ことじ)の
姿に似ているところから、その名が付いた
とされる。
長い脚は水中に、短い脚は護岸の石にか
けられている。入園の際にいただいたパン
フレットの表紙は「紅葉に彩られる徽軫灯
籠」。
片脚での立ち姿は何ともなまめかし
く、多くの観光客の記念撮影のスポットと
なっている。
霞ヶ池に注ぐ曲水のせせらぎの水音、灯
籠の傍らのモミジの古木は新緑の緑や紅葉
の赤を添えて、一枚の美しい風景画を映し
出す。参考までにガイドブックなどの表紙
にことじ灯籠の写真が載せられているもの
を調べてみた。
『金沢』(岩波写真文庫93、岩波書店、
一九五三年)、『名勝兼六園』 (北国出版社
一九六五年)、『兼六園・成巽閣』 (田畑み
なお著、集英社、一九八九年)、『兼六園
旅物語』(下郷稔著、ほおずき書籍、一九
九九年)、『兼六園』(北國新聞社、二一
一三年)がある。赤戸室石の紅橋に立ち、
ことじ灯籠を背景に記念撮影をする観光客
が多い。兼六園を代表する人気スポットと
なっていることの証しである。
観光客だけでなく、地元の人の中にも、
灯籠の片脚がなぜ短くなったのか、と疑問
に思う人もいるだろう。以前、いたずらに
よって壊れたからということを聞いたこと
があったが、その真偽のほどは分からなか
った。この疑問を解いてくれたのが、元金
沢城・兼六園管理事務所長の加藤力著『兼
六園のシンボル「ことじ灯籠」の片脚はな
ぜ短くなったのか?』(北國新聞社出版局、
二〇二〇年)である。「現在のものは二代
目」で一九七八年 (昭和五十三年)のことと
いう。灯籠は数回にわたるいたずらによる
倒壊被害に遭ったと記されていた。
初代の灯籠が一九七七年十二月十四日に
倒壊被害にあったことを、翌十五日の北國
新聞が写真を載せ報じていた。観光客は消
えた灯籠の現場を見たとき「ことじ灯籠は
どこにあるの?」との思いを抱いたことだ
ろう。
翌年七月二十日の同紙夕刊に「二十日午
後から取り付け作業が始まり、二十一日か
ら代用品が登場する。修復に一年かかる」
と伝えられていた。灯籠の歴史をひもとく
と、そこには悲しい出来事があったことを
知る。
初代の灯籠は『兼六園全史』によると、
粟ヶ崎の豪商木谷藤十郎が藩主に献上した
ものと伝えられるが、実際は嶋崎家からの
献納であるという。
偶然見つけたことじ灯籠の一枚の写真が
目を引いた。『金沢』(岩波写真文庫、一
九五三年)に、小学生と思われるふたりの
男児が、灯籠横の池の中の四角形の石に乗
っている。ひとりは右手を灯籠の長い脚の
上部にかけている。ふたりが石の上からタ
モで捕まえた魚?を眺めている。もうひと
りの子どもは何を見ているのだろうか?
真っ直ぐ正面を見つめている。
前にも記したように、一九七八年に二代
目が再現されているから、子どもたちが遊
んでいた灯籠は初代のものである。この写
真集が出版されたのは一九五三年であるか
ら、当時の入園は無料で、庭園は子どもた
ちの遊び場だったといえる。一九七六年(
昭和五十一年)から有料になった今、こん
な光景は想像もできない。
鯉の背が濁れる池にわずか浮く
徽軫灯籠の影あるあたり
芦田高子は鯉の泳ぐ光景を詠んでいた。
話は少し飛ぶが、池には錦鯉はふさわしく
ないということを聞いたことがあった。
二、「幽邃」
『広辞苑』で「幽邃」を引くと、「景色
などが物静かで奥深いこと」と説明されて
いる。私が「幽邃」を強く感じる場所は、
噴水からせせらぎ沿いに進み、黄門橋に立
ち前方を眺めた光景である。黄門橋は、手
取峡谷の上流に架かる橋を模してつくられ
た石橋である。
青戸室の一枚石のそりまろく
黄門橋の蒼古幽邃
橋詰に見える獅子巌(ししいわ)や周辺
の生い茂る木々などの造園に惹かれる。そ
の他「幽邃」を感じさせるスポットとして
は鬱蒼とした樹林に覆われた瓢池(ひさご
いけ)、翠滝(みどりたき)周辺ではない
だろうか。
三、「人力」
噴水前にある切石(きりいし)に立ち鑑
賞する。水音が強く響いてくる。
サイフォンの理をいまに見せて百余年
噴きて休まぬ噴水の音
吹き上がる三本の水が、噴き出し口の八
角形の石と池の水面を強く打ち続けている。
優雅にして荘厳な噴水と映る。早朝散歩で
目にする兼六園の噴水である。
拙著『金沢を知る20章』(石川サニーメ
イト、二一一〇年)に、「心に残った噴水」
と題して、早朝散歩で訪れたときのことが
記されているので、当時を思い出しながら、
あらためて綴ってみる。
「この噴水は、霞ヶ池を水源としており
水面との落差で、高さ三・五メートルにま
で吹き上がっている。日本庭園では、大変
珍しく、十九世紀中頃につくられた日本最
古のものといわれる」と説明板が由来を伝
えていた。動力を使わずに吹き上がってい
ることに、昔の人の優れた技術と、日本一
古いという歴史の謎をも秘めた噴水である。
卯辰山から昇った太陽が、木々を透かし
て噴水を照らす。木々の緑、ツツジのピン
クや薄紫を背景に、中程に虹がかかる。
噴水のしぶきの中の虹冴えて
手には取れざる宝のいろす
一瞬、足を止めた。ほんの数分であるが、
噴水が最も美しい瞬間で、はっと息をのむ
絶景である。
日本一の園の噴水しぶきつつ
虹を伴ない昼をやさしき
「人力」が生み出したものである。入園
者が噴水を背景にシャターを切る人が多い。
『兼六園全史』(兼六園観光協会、一九七
六年)、『兼六園歳時記』(下郷稔著、能
登印刷出版部、一九九三年)、『兼六園』
(北國新聞社、二一一三年)、『金沢なに
コレ100話』(北國新聞社、二一一三年)
の説明を借りると、文久元年(一八六一年)
に、十三代藩主前田斉泰(なりやす)が、
二の丸に噴水を造りたくて試作したものが
今の兼六園にある噴水と伝わる。
日本庭園にこれまで設置されたことのな
い、新しい庭園意匠とされる。市内に見る
噴水といえば、私には兼六園の噴水が真っ
先に思い浮かんでくるのである。
「徽軫(ことじ)灯籠」の表記に
際して、「ことじ灯籠」を用いた。
(筆者)