歌人・芦田高子を偲ぶ(3)
【2021年7月11日配信 NO.174】
若林 忠司
六、「眺望」
「眺望」といえば「遠くまで見渡すこと。
見晴らし」の意味で、標高五十メートル余
りの高台にある眺望台が思い浮かんでくる
人も多いだろう。観光客がガイドの説明を
聞いている光景によく出会うスポットであ
る。眺望が、雄大な庭園といえる。
兼六園研究会の会員として、兼六園をも
っと詳しく知ることと健康維持のために、
早朝散歩をするようになったのだが、その
ときの記録を研究発表文集『きくざくら』
第十号(同研究会、二〇〇一年)に、「眺
望台にて」と題して次のように書いた。
ある朝のことである。県外の観光客
と出会った。「早朝散歩を楽しむため
無料開放してくれるなんて、ほかでは
考えられないこと。何と粋なはからい
ね。さすがは前田のお殿さま!」と話
してくれた。兼六園の魅力のひとつで
ある。
当時の思い出がよみがえってくる。
眺望台で新鮮な空気を胸いっぱい吸い込
む。軽く身体を動かし体操。日の出を待つ。
毎朝訪れても、日の出を拝める日は少ない。
太陽の表情もさまざまである。真っ青の
空を背景にして、強烈な日差しを放つ真夏
の太陽。雲間から淡い光を放ちながら、見
え隠れする太陽など、刻一刻とその表情を
変える。毎朝違った表情に、自然の神秘と
畏敬の念を抱く。この瞬間に出会えること
が、私を散歩に誘うのだろう。
見はるかす七つのピーク秋晴れて
医王は戸室を背後より抱く
眺望台から見える風景は、兼六園の借景。
前方に卯辰山、右に医王山、戸室山が望ま
れる。眼下には家並みが広がり、北に目を
転じると内灘砂丘と金沢医科大学が目に映
る。延長線上には、能登半島が遠くに横た
わっている。卯辰山の左端の遥か遠くに、
宝達山が見える。実に広い眺望である。
見慣れた風景の中で、借景が替わったの
はいつの朝だったのか今ははっきりと憶い
出せない。眺望台の正面に見えていた金沢
サニーランド(一九九三年閉業)が、すっ
かり姿を消していた。かつて金沢ヘルスセ
ンターとして一九五八年(昭和三十三年)
に開園して、一九八二年(昭和五十七年)
に金沢サニーランドと改称。解体中の建物
の一部は見たことはあるのだが、稜線の風
景が変わっていった。
眼下に見える街並みもずいぶん変わった。
ビルが建ち、風景の一部も変わる。特に目
を引いたのは浅野川近辺である。かつての
瓦屋根が光る家並みが続いていたが、高層
ビルに取って代わられ、歳月の流れを感じ
る。
時を経て、借景もまた変わっていく。眺
望台からのパノラマ風景は、今後どのよう
な色彩を帯びていくのだろう……………。
記憶もおぼろげになったが、『きくざく
ら』をたどると、第十四号(二〇〇五年)
にも眺望台から見た光景について「心に残
った、美しき朝」と題して、次のように書
いていた。
二〇〇四年(平成十六年)、八月二
十六日五時十分。卯辰山と医王山山系
の山々が雲で覆われている。朝焼けで
稜線は橙(だいだい)色。ところどこ
ろ灰色を帯び、淡い青色の空と色彩も
豊かである。日本海に目を転じると、
空は灰色の濃い雲ですっぽり包まれて
いた。山々と海の対照的な空模様が瞼
に浮かぶ。
五時三十分、日の出。曲水に六、七
センチぐらいの子亀が泳いでいるのを
発見。濃い緑色の甲羅が印象的である。
親亀を含めて全部で五匹の姿を見る。
四季によってさまざまな色彩を見せる
花や木々の景色を鑑賞しながらの散歩
である。
八月二十八日。まだ薄暗い四時三十
分ごろ。卯辰山の稜線に沿って一メー
トルぐらい上空に、雲が帯状に幾重に
も横たわっていた。淡い橙色に染めら
れた空は、山水画を見ているような光
景を描いていた。
五時三十四分、太陽が昇ってきた。
赤橙色の円い輪郭をくっきりと現して
いた。ふと祝い時に用いられる天地自
然の姿を映した「日月山海里」を象徴
する五色生菓子(ごしきなまがし)を
思い浮かべた。今朝の太陽は白い餡餅
(あんもち)の表面を赤の染粉でまぶ
し、太陽を表した円形の大福と重なっ
た。神々しいまでに美しく、この夏の
最高の日の出であった。
九月二十三日。五時五十一分ごろ、
卯辰山に建っている仏舎利塔の上に太
陽が姿を現した。こんもりと繁る森の
上に昇り、仏舎利塔と山裾まで広がる
鈴見団地を照らし始める。今日は秋の
彼岸。「暑さ寒さも彼岸まで」といわ
れるが、この夏の猛暑と残暑の厳しさ
に一段落を告げるかのように、今朝は
爽やかな風が肌に伝わってきた。
春分・秋分の日には、太陽は真東か
ら昇り真西に沈むという。仏舎利塔の
上が真東であることが分かった。反対
側の真西は、月見橋の延長線上に見え
る三重宝塔がある栄螺山(さざえやま)
ではないだろうかと推測した。彼岸の
中日には、太陽は浄土の方へ沈むとい
われるが、陽は栄螺山の上を通り、日
本海を赤く染めながら、遥か彼方に沈
んでいくだろう…………。
二〇〇五年(平成十七年)六月二十一日
は、忘れられない思い出として当時の様子
を拙著『当たり前?』(石川サニーメイト、
二一一八年)に次のように記していた。
夏至のこの日、梅雨特有の不快な暑
さは感じられない。天気予報では、今
朝の金沢の日の出は四時三十五分、日
の入りは十九時十五分となっている。
「空梅雨の夏至」というタイトルで
日の出の光景を撮影するために、NHK
金沢放送局の Sさんが訪れていた。偶
然、私に日の出の時間と場所を訊ねる。
毎朝の散歩のことや一年間の太陽の動
きなど、これまで見た日の出について、
私へのインタビューとなった。
四時五十七分になった。青白い明か
りを放つ電球とテレビのアンテナ塔の
中間から昇ってくるのだが、五十五分
を過ぎても雲間は淡い橙色に染まって
こない。太陽が顔を出す空模様ではな
いように思えた。
五時十分、雲間に光が差し、橙色の
太陽が半分顔を出す。十一分に雲の中
に姿を消したが、十四分には卯辰山の
稜線から五メートルぐらい上空に再び
姿を現した。
今朝の取材は午後六時十分から七時
の間に放映されるとのことであった。
翌日、「テレビで見たよ…………」と、
散歩仲間が話しかけてくれた。
夏至の日、北國新聞は「石川県は晴
れ。午後一時までの最高気温は、金沢
三十二・二度と今年一番の暑さを記録
する。夏至を過ぎても梅雨入りしない
のは、一九八八年以来十七年ぶり……」
などと伝えていた。
この原稿の最後になりましたが、私自身
これまで「六勝」に光をあてて兼六園をめ
ぐったことはありませんでした。
すさまじい人生を歩んだ芦田高子を心に
置いたことで、そして、造園に携わった名
もない職人たちの緻密で高度な技や智慧、
心意気を発見できたことで、楽しく大いに
学ぶことができました。
視点を替えて、兼六園をめぐる新しいコ
ースも発見できました。
私のこの拙文が兼六園めぐりに少しでも
お役に立てれば嬉しく思います。
〈参考〉
芦田高子 - Wikipedia
〈後記〉
当記事中の写真はすべて、金沢市の
作田幸以智さん撮影のものです。
写真の中または右を左クリックする
と写真を拡大できます。
若林忠司さんの記事があります。
〈追記〉
当講座のNO.184とNO.218の記事にも
作田さん撮影の写真を掲載しました。