不戦の誓い(3)
【2021年7月28日配信 NO.180】
人の別離哀(かな)し
ー学徒動員組の決断ー
獣医師 酒井 與郎
嵐兵団は、常徳作戦終結とともに今まで
安慶においていた駐留地を、武漢三鎮で有
名な武昌に移動させた。これは、のちほど
(昭和十九年五月二十七日)展開される湘
桂作戦のための移駐であるが、このような
ことは、もちろん私のような一兵士の知る
ところではなかった。武昌は人口七十万ほ
どの商工業都市であるが、孫文指導の「辛
亥革命」第一声の地としてもまた有名なと
ころである。
ここで、私たち学徒動員組は引きつづき
初年兵教育と幹部候補生教育を受けた。そ
して私たち獣医部甲種幹部候補生は、軍陣
獣医学を修得するため東京の陸軍獣医学校
に入校することになった。これは、軍の命
令とはいえ大変な幸運である。もうこの頃
になると、近いうちに大作戦が開始される
という噂が現実のものとなって、各部隊は
その準備に忙殺される毎日になった。
私の連隊も馬の健康検査や自動車の整備
点検が毎日強行され、作戦の重大さと長期
化が改めて話題になっていた。この最中、
私たちだけが教育のためとはいえ内地へ帰
るということは、何とも申し訳ないことで
あった。特に、日本を出てから五年も六年
にもなるという古兵の目は、見るに忍びな
いものがあった。そんな中に、遠くを見詰
めるように物思いにふける T君の沈んだ顔
があった。
T君は私と同郷で、東京の N大卒業の同
じ学徒動員組である。あまり体の丈夫でな
い T君は、乙種幹部候補生として今度の作
戦に参加することになっていた。もう二、
三日で私たちが内地に向けて出発するとい
うある日、 T君は、私に頼みたいことがあ
るという。 T君には東京の下北沢に母親と
共に住む相愛の彼女がいるが、まもなく臨
月だという。そして、「俺はどうも今度の
作戦では、生き残れないような気がする。
子どもが生まれるというのになあ。そこで
頼みやが、東京へ行ったらここに寄ってほ
しいんや。そして、俺が死んでも、どうか
子どもだけはよろしく頼むと伝えてほしい
のや。考えてみりゃ、彼女も可哀そうなも
んや。まだ俺の家の了解も得ていないまま、
俺と別れにゃならんのやからなあ」としみ
じみ話すのである。
地方の学校を出た私には、考えられもし
ない T君の身の上話である。私のように、
相愛どころか女の顔といえば家族の顔以外
まったくといっていいくらい女性に縁のな
かった者には驚きであるとともに、女性を
愛することの悲しみ、あわれさ、苦しみを
初めて知ったのである。そして私は、中学
二年の時、近所の Kさんが、赤紙(召集令
状)で出征する日の前夜のことを思い出し
た。
その夜、 Kさんは集落の一軒一軒をまん
べんなく回って、出征の挨拶と家族のこと
を頼んで歩いた。当時、 Kさんには小さい
二人の男の子があったのだから、もう年齢
は三十を越えていたのではないかと思う。
Kさんは、少しの水田を持ち電力会社に働
きに出ていたが、生活は集落でも豊かなほ
うだった。「ご苦労さんです。でも、体だ
けは大事にしてくださいよ」という私の母
に、 Kさんは「もうあきらめました。でも
家が心配で……」と寂しそうに言っていた。
私は、何かしら今でもその時のことをよ
く覚えている。それは、「出征するのに、
あきらめましたとは何事か」という軍国少
年の、ある種の反発ではなかったかと思う。
しかし軍人として戦地にいる今、 T君の悲
しみ、苦しみを聞いて、やっと Kさんの胸
の内が分かったのである。そして、出征し
てまもなく Kさんは戦死したのであるが、
Kさんと同じようなことを言う T君も、あ
るいはほんとに戦死するのではないかとい
うイヤな予感が、一瞬ではあったが私の頭
の中をよぎったのである。
陸軍獣医学校入校後、第一回目の外出を
待って私は、 T君に頼まれた下北沢の家を
訪ねた。家は閑静な住宅地にあって、造り
も上品な家だった。よくふきこまれた玄関
の上がり口に私を迎えた二人は、和服姿の
美しい上品な母娘(おやこ)だった。もち
ろん和服といっても、袖のない和式上衣と
下はモンペのいわゆる当時の女性の戦時服
である。母娘は、表面上は毅然としている
ようだったが、娘のモンペの紐を持った手
がふるえていたのが、何とも印象的だった。
私は、女性に縁のない自分の幸せを痛いほ
ど感じた。
十二月二十四日、私たちは、早くも陸軍
獣医学校を卒業することになった。卒業前、
学校当局から「一人息子と長男は希望によ
って任地を考慮するから申し出でよ」と言
われた。本人の希望によって、一人息子と
長男は、当時最も安全だった満州と朝鮮に
任地を変更してもいいという意味である。
しかし、私の知る限りにおいては、誰もが
これに応じないで原隊復帰を申し出た。私
たちは、卒業と同時に陸軍獣医部見習士官
に任官し、その日から将校の仲間入りをし
た。
私たちの原隊嵐兵団は当時、湘桂作戦の
真っ最中だった。原隊復帰を急がねばなら
ないのである。将校の原隊復帰だから、も
ちろん単独復帰である。だが、今生の別れ
に今一度両親の顔を見て征こうと、誰言う
となく申し合わせた。
私も卒業式の翌日、大野の家に帰った。
両親は、軍刀を腰にした私を目を細めて見
入っていた。そして母は、「将校になった
といって、絶対に兵隊さんを殴らんと約束
せよ」と言った。父は黙っていたのか、父
の言葉はまったく記憶にない。「将校だか
ら、一晩くらい泊まっていってもいいだろ
う」と母は、しきりに私に一泊を懇望した。
しかし私は、「先を急がねばならないので」
と言って母の願いを断わり、その日の最終
電車で福井駅へと急いだ。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
〈参考〉
当講座のNO.15とNO.159の記事も
併せて参照していただきたい。