湯の人(その2)
【2021年11月16日配信 NO.205】
湯船の歌声
加藤 蒼汰
秋の寒い日の夜だった。外はどしゃぶり
だった。浴室にはだれもいないと思った。
突然、浴槽のほうから歌声が聞こえてきた。
びっくりして見ると見知らぬ坊主頭の男の
人が湯気のなかから顔を出していた。私は
湯につかるのを遠慮して歯をみがき、髭を
剃り、ついで頭を洗った。
その間、彼は大声で歌いつづけた。生ま
れてこのかた聞いたことのない曲、メロデ
ィ、節回し、音色だった。酔っているのだ
ろうか、真っ赤な顔をしている。四十歳く
らいだろうか。
しばらく聴き入っていたが、好奇心がも
たげてきて私も浴槽に入った。何の歌かを
聞こうと声をかけようとした瞬間、ものす
ごいニンニクのにおいが漂い、私は気絶し
そうになった。どこにいるのか分からなく
なるくらいだった。
私は平静を装い、すぐに洗い場にもどり
水をのんだ。彼は楽しそうにまだ歌いつづ
けている。強烈なニンニクのにおいが私を
追ってきた。
昔、オリンピックで、日本のレスリング
選手が、相手に勝つためにニンニクで口を
におわせてたたかった、と得意気にテレビ
で語っていたのを思いだした。さぞかし相
手は苦しかったにちがいない。
私は気をとりなおし、もう一度髪を洗い
ながら、息をころしてその歌に聴き入った。
世にも不思議な曲だ。日本語なのか外国語
なのかも判別できない。自作の歌だろうか。
即興の歌だろうか。ハーモニカと尺八、三
味線、琴、鉦、鈴、太鼓、カスタネットを
合わせたような歌声だ。ときおり間をとり
「アーッ」と気持ちよさそうにため息をつ
く。これが幻の縄文の歌だろうか。吟遊詩
人の歌なのか。言葉にできないのが残念だ。
湯壺からの歌声、歌詞、曲はニンニクを
しのぐものだったが、ついにそのにおいに
降参して、私はそのまま銭湯をあとにした。
帰り際、風呂場を覗くと彼はまだ熱い湯に
つかっていた。おそるべき体力だ。
今もなおその歌声とニンニクのにおいが
私の肌にしみついている。その後なぜだか
風邪もひかない。免疫力が鍛えられたのだ
ろうか。湯船の彼の姿はその後一度も見て
いない。私はあの縄文歌、吟遊歌への返礼
の気づきと機会を奪われてしまった。あの
においによって。
〈参考〉
当講座記事NO.137に加藤蒼汰さんの
「湯の人」の第1回目があります。
当講座記事NO.182より
『戦友』を歌う嘉手苅林昌
当講座記事NO.170より
桃山晴衣
うたうという行為は呼吸を吐き出すことで
ある。
息を吐き出すと体中の緊張がゆるむ。
筋肉がゆるめば精神も安らぐ。
ただでさえうたうことは法悦境に遊ぶ心地
なのに、
そのうえ有難い仏の教えをうたっていれば、
何よりの信仰になる。
という人間界に都合のいい今様歌謡は、
現世において不信にさいなまれ、
絶えず心安まる暇のなかったであろう後白
河の大きな支えだったのではないだろうか。
私は「梁塵秘抄」という歌謡集成の膨大な
量から、
それと対比されるほど大きな不幸を後白河
の身の上に感じる。
「遊びをせん」とは、
生きること自体であり、
また、
あちらの世界とつながりつつ何かの行為を
することのようにも、
私には思えます。
「梁塵秘抄」に取り組んでから、
こういうことをいろいろ考えるようになり
ました。
『にんげん いっぱい うた いっぱい 日
本の音はどこへ行く』 (工作舎.2016) から
三絃ひとり旅【泥洹】
三絃ひとり旅【林雪】
stanmed.stanford.edu/listening/inno
野中婉 - Wikipedia
『婉という女』 大原富枝
婉という女・金沢ライブ録音