短編小説『再会』
【2020年10月30日配信 NO.55】
正見 巖
私の手許に残っているのは軽自動車一台で
あった。これもあすには他人の手に陥ちるは
ずである。債権者の熾烈な追及からかくれ潜
む場所はもう、大阪のどこにもなかった。大
阪を脱出したいと思った。
どこか遠くへ逃れて、密かに生きるか、適
当な場所で死を選ぶかは、今すぐに決めたく
はなかった。さしあたって、大阪をはなれた
い。しかし、どこへというあてもなかった。
私は半生を大阪で過ごした。大阪以外では
どこで暮したこともない…………と考える私の
脳裏に古い古いフィルムが映った。
あそこへ行ってみるか。でも、あれから二
十年の歳月が流れている。行ったとしても、
知っている人もいまい。何もかも変わってし
まっているだろう。行っても何ということも
なかろうが、ほかに目的地にする所が思いつ
かないから、とにかく走ることにした。
私は米原から国道八号腺に入ろうと、琵琶
湖西岸を北上していった。
昭和十九年十月から二十年九月までのおよ
そ一年間を石川県で過ごしたことがある。私
は大阪桜宮国民学校の六年生であった。百五
十人の学童が三人の訓導に率いられ、集団疎
開で石川郡額村に来た。
初めのうちはお寺の世話になっていたのだ
が、いろいろとあって、結局は村立額国民学
校の礼法室での生活を余儀なくされた。
父母と別れて、見知らぬ片田舎へやって来
た私たちは何につけても不自由で、肩身の狭
い思いをした。素朴な村人たちの人情に支え
られたことも多かったが、所詮他人は他人で
ある。食べざかりの子どもたちは激しい飢え
と常に戦わねばならなかった。両親の暖かい
愛に包まれて育つはずの年ごろの子どもであ
った。
私が寝起きしていた礼法室は四十畳に満た
ない広さなのだが、五十人の学童が詰めこま
れていた。
夜、床に入ってあお向けになると、天井板
が見える。天井には無数のしみあとがあった。
私たちが蒲団の中で流す涙が、いつの間にか
天井にはりついてしまったように思えた。
私たちが寝ている間に、おぞましい小事件
がよく起こった。
炊事場の釜の中にあすの雑炊用の生米が水
にひたしてある。雑炊になれば丼の底に沈む
わずかの飯粒になってみんなに行きわたる貴
重な米粒である。この生米を仲間のだれかが
盗み食いをしてしまうのである。いつも犯人
はわからず終いだった。
やがて終戦になった。大阪から自分の子を
迎えに来た親もいた。それはわずかであった。
大方の子どもは依然として疎開地に残された。
二十年九月二十一日。全国にちらばってい
る集団疎開学童に対して帰校命令が出された。
私たちはやせ細っていた。こすればボロボ
ロと垢の出る黒い肌をしらみだらけの衣服で
覆っていた。それでも、大阪へ帰るんだぞと
言われると歓声を上げた。虚ろな響きの叫び
声であった。
私の父母は、すでに爆撃の後、行方不明に
なっていた。家も焼かれてしまっていた。大
阪へ帰っても、どうなるというものでもない
が、嫌気がさしているこの地からはなれさえ
すれば、何かいいことがありそうな気がした
のである。雲をつかむような他愛のない望み
であった。大阪へ帰れば、一層苛酷な人生が
待ち受けているのを考えようとしなかった。
大阪に帰った私は、施設に入れられた。敗
戦直後である。施設とは名ばかりのひどい所
であった。私は、度々脱走して、焼け跡に並
ぶ闇市で悪事を重ねた。
何度か闇市と施設の間を往復したが、つい
に施設へもどらなかった。
闇屋の仲間入りをしてもとでを作り、二十
歳のころには、小さいながら機械部品の店を
持った。生家の商売がこれであった。
三十歳の時に、私は街々を走り出した軽自
動車に目をつけた。これからは、自動車の時
代だと思ったのである。
人気のあった亀の子型の自動車の販売店に
切りかえた。中古車でも、おもしろいように
売れた。セールスを何人か雇い、一か月に十
台以上売れと厳命した。個人商店のようなス
ケールから早くビルを持つ会社らしい形にの
し上がりたかったのである。そのためにずい
分無茶な経営もした。
不運の始まりは、新しく雇い入れたセール
スマンの浅慮からであった。学歴、経験、職
歴、年齢、何も問わない、ただ車を多く売っ
てくれれば良いという募集広告で入社したそ
のセールスは、台数さえこなせばという考え
から、暴力団に十数台の車を渡してしまった
のである。浅はかな行動というよりは、計画
的であったのかも知れぬ。その車は白タクに
使用された。受け取った手形は、期日が来る
と、ことごとく不渡りになった。
そのほかにも外国人に売った数台もこげつ
いた。
小さなつまずきでも、それは見る見る大き
な雪だるまのようになり、私は、債権者に追
われる身になった。
朝、大阪を出たのに日はすでに傾いている。
手取川にかかる粟生大橋を渡り、北上してい
く。右手に白山山系の低い山なみが連なる。
その上方に、なだらかな黒緑色をした山頂が
顔を出している。
「なんていったんやろ。たぶん、くらがたけ
やったな。」
村の子どもに教わった倉ヶ嶽である。伝説
を秘めている山である。
私の脳裏に二十年前の記憶が突然鮮明に甦
ってきた。
「良子。」
二年生だった良子のあどけない面影が現れ
た。どうしているだろう。
私はすき腹をかかえて、運動場の片隅にあ
る忠魂碑の基礎石に腰をかけていた。小さな
石ころのような馬鈴薯が二個とサツマイモの
茎のすまし汁の昼食は、地獄の餓鬼が住みつ
いているような胃袋にとって何のたしにもな
らなかった。
村の自作農の娘である良子は、間食にさつ
ま芋のふかしたやつを両手に持っている。別
に良子は見せびらかすつもりはなかったのだ
が、私には、そのように見えた。
私の目は、芋を刺すようにぎらついたのだ
ろう。
「おとろしい! 大阪のお兄ちゃんの目。」
良子が肩をすくませて言った。私は黙って
いた。しかし、視線は芋からはずせなかった。
「イモ欲しいがけ?」
私はこっくりした。
「あげっわ。」
待っていたかのように、私はイモを受け取
ると、シャツの下にかくした。腹を手でおさ
えるようなかっこうで私は走った。仲間のだ
れかが、どこで見ていないとも限らない。
半分よこせ、よこさないと、村の女の子か
ら、イモを無理やりに巻き上げたと、先生に
いいつけるぞ! こうなるのは目に見えてい
る。
私は、だれも見ていない所で、ゆっくり賞
味したかった。芋は急いで食べると、すぐに
のどがつまってしまう。
体育館の裏手へ行くと、良子もついて来た。
田の中に小さな一間半四方の火葬小屋がある。
その向う側へ行けば、学校の方からは見えな
い。
私は農道に腰をおろす。良子も向き合った。
田舎の子にしては人なつっこい子だ。海老茶
色の芋を食べはじめる。惜しそうに、そして
味わいながら食べる表情を、良子は、上目づ
かいに盗み見ている。くりっとした瞳、日焼
けした健康そのものの顔、いたずらっぽい口
もとをほころばせている。
良子はいつでも、上衣だけのセーラー服を
着ている。ネクタイは色あせて、昔の紅い色
とはほど遠い茶色に変わっている。姉かだれ
かのお古らしい。下はかすりのモンペをはい
ている。小さいモンペで、膝にはつぎがあた
っている。素足にわら草履を引っかけている。
翌日、私は、お礼に母から渡された模様の
ついた折り紙をやった。こんな女の子みたい
な物はいらんよと言ったが、母は、何かの役
に立つからと、ノートにはさんでくれた折り
紙であった。良子は、私がびっくりするほど
の喜びようだった。
これが縁で良子は、お兄ちゃん、お兄ちゃ
んと私になついた。私は良子が度々、食べ物
を恵んでくれるので、とてもありがたかった
が、だれにでも、
「良子ね。大きくなったら、あのお兄ちゃん
のおよめさんになるがや。」
と言うのには閉口した。
敗戦の年の七月上旬、疎開学童の間に大阪
の私たちの校区が何日か前に熾烈な爆撃を受
けたという噂が広がった。
引率の教師は、子どもたちが動揺したり、
不安な状態に陥ちこむことを危惧してか、噂
を肯定しなかった。もしかしたら、みんなの
前では、言いにくいのだろうと私は思った。
だれだれの家族は無事だ。だれだれの家族
は死んだとは、かわいそうで、なかなか言え
まい。
私は、自分の父母は絶対大丈夫ということ
を信じこんでいた。それは、空襲になる前に
自分だけは助かるはずだという何の根拠もな
い自信に似ていた。
教師は、気の毒な子どもがいない場所だと、
きっと、私に、
「おまえんとこ、お父ちゃんもお母ちゃんも
元気やで。」
と言ってくれるだろうと思った。
用を足した帰り、私は廊下で担任に出会っ
た。囲りにだれもいなかったので、私は聞い
た。
「先生、学校の付近、爆撃受けたと聞いたん
やけど、ぼくの父ちゃん母ちゃんは、無事
やったんやろな?」
「ううん………無事や、無事やとゆうことや。
昨日、大阪の校長から電話があってな、こ
こへ来ている子の家族は、みんな、防空壕
に入っとって助かったとゆうから、安心し
とりいな。」
私は、担任の笑顔が、あまりにもぎこちな
いのに気づいた。表情が固い。目が笑ってな
い。爆撃があり、被害はあったのだ。
「いや、先生、ほんまのことゆうていや。」
「ほんまのことて、今ほんまのことゆうてる
やないか。」
「先生! ほんまのことゆうたら、ぼくらが
泣くと思うて、かくしとるんやろ。」
「いや、うそはいわへん。」
教師の態度を見て、私は動揺した。
父母の安否が心配でたまらなくなった。以
前は、よく来ていた便りも来なくなった。
B29がばらまく焼夷弾で、火の海となった
大阪の街を逃げまどううちに、ごうごうとた
ぎる炎に巻かれ、父とはなればなれになった
母が、背に幼い妹をくくりつけて、断末魔の
叫びを上げながら、天をかきむしっている…
…………そういう姿が払っても払っても際限な
く湧いて出てくる。
母は、私の名を何回も何回も呼び続けてい
るにちがいなかった。
私は、学校を抜け出て、大阪へ行ってくる
計画を立てた。持っているわずかの金で汽車
に乗り、父母の消息を、自分の目で確かめる
つもりであった。その金は、恐らく、大阪ま
での運賃の半分にも足らぬだろう。しかし、
そんなことをいってはいられない。車内の便
所に潜ってでも、ドアから飛び降りをしてで
も私は大阪へ行きたかった。
七月八日の午後、私はそれを実行に移した。
黙って校舎を出て、徒歩で数キロメートル先
にある松任駅を目ざした。
だれにも見とがめられないように気を配り、
身を低くして、あぜ道に植わる大豆の列のか
げを走っていった。
だれかがあとをつけて来るような気がした。
しかし、それは、自分が今からやろうとして
いる無謀な計画に対しての良心の呵責が、追
って来るのだろうと思った。
だが実際に尾行者がいた。
良子だった。
五百メートルばかり一気に走り、荒い息を
整えるために大豆の根もとの農道にすわりこ
んでいると、ぺたぺたとわら草履が地べたを
打つ音が近づいて来た。良子は、新聞紙に芋
らしいものをくるんで、ヒイヒイ言いながら
追いついて来た。
「お兄ちゃん、そんなに急いで、どこへいく
がや。」
「…………。」
「ねえ、どこまでいくが。」
「ま、松任までいくんや。」
「松任まで何しにいくが?」
「何もせえへん。」
「うそやあ。何もしないんなら、どうしてい
くが?」
「…………。」
「いわないと、お芋やらんぞう。」
碌な食事をしていない私の腹は、いつもよ
り一層激しく、空気をこなす音を出した。良
子がかかえている何本かのサツマイモに大き
な欲望を感じた。
私は、思い切って、良子にだけ秘密を打ち
あけることにした。
「良子。良子にだけ教えたるけど、だれにも
ゆうたらあかんで。」
「うん。」
「お兄ちゃんな、ちょっとだけ大阪へいって
くるつもりや。どうしてもな、お父ちゃん、
お母ちゃんの顔が見とうて、たまらんのや。
お父ちゃんとお母ちゃんが、元気でよう暮
しとるか見て来たいんや。」
「お兄ちゃん、大阪いくの。わたしもつれて
ってえ。」
「あほなことゆうな。大阪はな、毎日毎日、
B29が来て、爆弾とか焼夷弾をぎょうさん
落としていくんや。おまえなんかいったっ
て、すぐに死んでまうで。」
「じゃあ、お兄ちゃんは死なんのけ?」
「あったり前や。死んでたまるか。爆弾は、
ぼくだけ避けて落ちるんや。」
「わたし、お兄ちゃんにくっついている。そ
したら、爆弾に当たらんもん。」
「…………。」
「わたしも、つれてってえ。」
「わからんやっちゃな。おまえは村で待っと
け。お兄ちゃんは、すぐにもどるから。」
私は、この厄介な追跡者を振り払い、食糧
だけを奪うために、急に立ち上がった。
「話したんやから寄こせ。」
と、言いながら、新聞包みを引ったくると、
全速力で逃げ出した。
良子の泣き声が追って来る。どこまでも執
拗にはなれない。
私は、農道わきの小川にかかっている橋を
渡った。丸太が二、三本針金で束ねてある素
朴な橋だった。渡り切って、さらに十数メー
トル進んだ時、後方でバタリと音がした。
その瞬間、良子の泣き声は、今までとは全
く性質のちがったすさまじいものに変わった。
振り向いた私は、橋の上に良子を見た。丸
太と丸太の間隙に片足を突っこみ、上半身を
橋からはみ出させて倒れている。右足が奇妙
な形にねじまがり、まん中から折れている。
さかさになったおかっぱ頭が、水の上で揺れ
ていた。
引き返した私は、どう思って良子の足をは
ずし、体をかかえ上げたことだろう。無我夢
中で覚えていない。
痛い痛いと泣き叫ぶ良子の肩をだいて、私
はがっくりと農道にすわりこんだ。大阪へ帰
るのは、あきらめなければならなかった。
助けを呼びたかった。辺りを見まわしたが
人かげはなかった。ここで起こっている良子
の苦痛とは対象的に田園の風景は限りなくの
どかなものであった。出そろいはじめた稲穂
が、初夏の爽やかな風にさんざめいていた。
広大な田園地帯の遥か彼方に山なみが見え
た。その上方から倉ヶ嶽が、なだらかな山頂
を見せていた。
この事件があってから、先生は、大阪での
空襲の被害、父母が行方不明のこと、家が焼
かれたことなどを私に話した。本当のことを
言ってくれないと、また抜け出して、大阪へ
確かめに行くと、私が言い張ったからである。
私は、集団の中の厄介者の烙印を押された。
地元の大人や子どもたちからも、良子の足を
怪我させた悪い人間として白い眼で見られた。
良子は複雑骨折であった。それにもかかわ
らず、敗戦直前であったこと、田舎に住んで
いたことなどで碌な手当ても受けられなかっ
た。自称接骨師だという怪しげな男に副木を
当てられた。が、一週間ほどたつと、手製の
松葉杖をついて家から出て来るようになった。
だれも寄りつかなくなった私にただひとり、
良子だけは以前と同じように話しかけた。
国道八号線は、野々市町で鶴来街道と呼ば
れている国道百五十七号線を分岐させている。
約五十キロメートル進めば、白峰村に至り、
山越えして福井勝山に至る。
野々市町から数分の粟田という村落の中で
左折すれば額である。左右に新しい建物が立
ち並ぶ。その中に古い農家も混じる。二十年
前の見覚えがあるような屋根や塀が点在して
いる。
金名線の踏切を渡ると、額小学校の校舎が
田の中に姿を現した。大正期に建てられた古
い木造の校舎である。風雪が、建物を形づく
る全ての木材を一層白っぽい灰色に変えたよ
うに思われた。
校舎の前には運動場が広がり、その隅には
柳に囲まれて忠魂碑がそびえている。昔のま
まだ。あそこに芋を両手にした良子がすわっ
ていても何の不思議もないくらいである。
九艘川がグランドの一辺に沿って流ている。
その三メートル幅の川とグランドとの境に砂
利道があり、グランドの一角から敷地内に入
る。見憶えのある広葉樹の大木の梢が光って
いる。今、日本海に没しようとしている橙色
の太陽が梢にある何枚かの葉を照り輝かせて
いるのである。
私は、車を止めた。そこから玄関に続く舗
装の上に降り立って、二十年前に一年間を過
ごした校舎の一角を見上げた。礼法室は、す
ぐかたわらの児童用昇降口の階上にある。私
は礼法室に入ってみたかった。
児童用昇降口を過ぎてから左に折れると正
面玄関がある。二宮金次郎の銅像も見える。
玄関は庇を延ばすために、たたきの上に二
本の柱が立っている。その柱に校名を表す木
札がかけられている。
「金沢市立額小中学校」と読める。新制にな
ってから併設校になったらしい。
私は玄関の敷石の上に立って、立てつけの
悪いガラス戸をがたぴしさせた。戸が開くと
案内を乞うために大声を上げた。
突き当たりが体育館で、その手前の左に用
務員室があるのだが、返事はなかった。
校舎の中はがらんとして人気がない。私は、
足許にあったスリッパをはいて、校舎の中へ
踏みこんだ。
木造の校舎からは暖かいものが伝わってき
た。コンクリートの冷酷な感じはない。私が
いた時と同じように廊下はよく磨きこまれて
いる。木目は際立ってはっきり見え、つやや
かに光っている。
階段の手すりの光沢も二十年前のなめらか
さを失っていなかった。私が階段を登りはじ
めると、階段はみきみきと鳴きはじめ、踏み
板は、かなりがたついた。
礼法室をのぞく。そこは六年二組の普通教
室になっていた。以前敷いてあった畳はなか
ったが、天井は当時のままのしみをくっつけ
ている。このしみをにらみながら、夜、大阪
の両親を思ったことが、昨日のように思えて
くる。
校舎の中はすでに薄暗かった。
どこからか、ピアノの音が忍ぶように聞え
てきた。金次郎が立っている前庭をはさんで、
向い側にある音楽室かららしかった。
私は二階の廊下をたどり、音楽室の前に立
った。粗末な児童用の長椅子が並び、その向
うにピアノを奏でる人かげがあった。ピアノ
の背後の窓に夕焼け空がまだ薄く残っていた。
ピアノの主は、黒いシルエットであった。
私は入り口の戸のかたわらに立っていた。
人の気配を感じたのか、ピアノの音は、は
たと止んだ。弾き手は椅子から立ち上がった。
体が少し右側に揺れて傾いた。長い髪が肩を
流れた。
私は直感的に良子だと思った。
「良子さん。」
「えっ、あなたは……。」
母校の教師になっていた良子との再会であ
った。生きていてもよい、死んでもよいとい
う投げやりな萎えた心が、微かに息づいたの
を私ははっきりと感じた。
昭和三十八年の初秋であった。
(イラストは作者)
小社発行・『北陸の燈』第2号より