不戦の誓い -私の戦争体験からの提言-
【2020年7月9日配信】
福井市 獣医師 酒井 與郎
昔(まさしく今ではもう昔である)、金沢
第九師団はわが国でも最強師団とうたわれ、
数度の戦いにその勇名がもてはやされてきた。
このことは反面、戦争によるこの地方の人
々の多くが犠牲にあったことを物語る。
時変わって戦争への郷愁か、世はあげて右
傾化の道をたどっている。そして不戦の声は、
日に日に弱体化しているようにみえる。
私は昭和18年、いわゆる学徒動員第2陣
として半年間の繰り上げ卒業で9月に卒業、
就職25日でただちに京都第十六師団に現役
入営した。以来、中国大陸の戦野をかけめぐ
り、敗戦とともに中国軍の教官として半年間、
中国軍と生活を共にした体験を持つ。そして、
私の得た戦争体験の結論は、
(一)私たちの受けた小学校・中学校(もち
ろん旧制の5年制)の教育は、日本国と
指導者、そして先生にダマサレタ教育で
あった。
(二)戦争とは一握りの指導者の世論操作の
結果に外ならない。
(三)相手国の国民と徹底的に話し合えば、
戦争は絶対避けることができる。
というものである。現在の世相がちょうど軍
靴の音がやかましくなった昭和初年と酷似す
る今日、私は私のこのささやかな体験を語っ
て不戦の一助にしたいと思う。
一.
鉄砲弾(だま)にあたるのが怖い、
死ぬのが恐ろしい
当時の中等学校以上を卒業した男子には、
軍の下級将校か上級下士官になる制度が一般
化していた。従って、私も当然このいずれか
になるわけであるが、いかに下級幹部とはい
え幹部は幹部である。幹部が鉄砲弾が怖かっ
たり、死ぬのが恐ろしいようでは恥ずかしく
てしようがない。何とかして鉄砲弾が怖くな
らないものか、死ぬのが恐ろしくならないも
のかと真剣に考えたのは、決して私だけでは
ない。
徴兵検査の結果、甲種合格になった私たち
は、鉄砲弾の恐怖と死について色々と語り合
った。しかし、問題が問題なので解決のあろ
うはずがない。だれ言うともなく座禅を組め
ば悟れるぞということになった。さっそく、
私たちは臨済宗のある高名な寺に参禅するこ
とにした。私たちはひたすら和尚の指示通り
にすわり、公案を考えた。しかし、3、4か
月後に迫っている確実なる鉄砲弾と死の恐怖
からはどうしてものがれることはできなかっ
た。ただ無我の境(?)になれたのは左右両
肩を4回ずつ警策でピシャ、ピシャとたたか
れる時ぐらいのものだった。でも、私たちは
熱心に寺に通った。そして、結果的には私た
ちはひとり残らず座禅を投げた。いかに座禅
とはいえ、目前に迫った鉄砲弾と死の恐怖を
どうすることもできないのである。これは当
然のことで、禅の責任外のことだと私たちは
私たちなりにすんなりと納得した。そしてあ
る結論に達した。「しょうがないじゃないか。
親・きょうだいを守るんだもの」という極め
て幼稚な結論である。この際何とかして天皇
陛下のためだとか国のためだと、悟ら(?)
ねばならないと真剣に考えたが、この心境に
はついに到達することはできなかった。
現在、再軍備に心を傾ける人々が日々に多
くなっているようだが、はたしてそれらの人
々が、鉄砲弾が怖くなく、死が恐ろしくない
のだろうかと思う。また、ノンポリといわれ
る若者が、召集令状が来れば好むと好まざる
とにかかわらず必ず鉄砲弾に立ち向かわねば
ならないということを知っているのかどうか
と思う。そしてまた、世の女性たちに問いた
い。あなたたちの夫を、子供を、孫を、恋人
を、そう簡単に鉄砲弾と対決させていいもの
かどうかと。
私は私の若かりし学徒動員時代のことを思
う。国のため、天皇陛下のためと、私たちは
生まれ落ちると同時に、寝物語りにも似た教
育を受けて育った。そして死に直面して、つ
いに国のため・天皇のための倫理(?)のわ
からぬまま戦争に駆り出された。命をかけね
ばならない国とは何か。国の意志とは何か。
天皇のためとは何か。現在、靖国神社への大
臣の公式参拝が相も変わらず議論されている。
私はこの議論を聞くたびにおかしくなる。そ
して思い出すのである。鉄砲弾を受け「チク
ショウ!!死んでたまるか」と叫びながら私の
目の前で死んでいった私の戦友の断末魔のノ
タウチを。靖国神社の神々(それは私には戦
友でもある)は決して静かには眠っていない
と思う。「チクショウ!!死んでたまるか」の
怨念が、脈々と生きているのである。「チク
ショウ!!死んでたまるか」はまた、「この無
念さは鉄砲弾で死んでみなきゃわからん。二
度とこんなばかな戦争はするんじゃないぞ」
という叫びと同じである。従って、靖国神社
へ参拝する資格のある者は、『不戦の誓い』
を靖国の神々と約束できる者でなければなら
ないはずである。この靖国の神々の強い意志
を感得する時、「信教の自由」の見地から、
大臣の靖国神社への公式参拝には問題がある
とする議論の何と弱々しいことかと思う。く
どいようだが、靖国の神々は戦争絶対反対で
あり、再軍備絶対反対である。これは、かつ
て神々と戦友だった者なら、だれでもが絶対
信じて疑わないところであろうと思う。
二. 日本の敗戦は黄河の氾濫である
私たちが、わが国の敗戦を知ったのは桂林
の南西で、もう8月下旬であった。そして行
軍1か月、九江に集結して帰国を待った。私
の部隊は山砲兵連隊で第一級の装備をしてい
た。私は大隊付獣医官で階級は陸軍獣医少尉
だった。そして武器弾薬はもちろん、軍馬ま
で一切中国軍に引き渡したが、中国軍はこれ
らの取り扱い指導のため相応の兵員を差し出
せという。私は兵科将校1名、下士官数名、
兵30名とともに中国軍と生活を共にするこ
とになった。中国軍の装備は、私の部隊と比
較する時ひどく見劣っていた。獣医室を見て
も大半が漢方薬だったし、備え付けの獣医学
書もほとんどが日本の中国版だった。
しかし、中国軍は実に立派だった。戦勝国
としてのおごりはほとんど感じられなかった。
むしろ私たちを師としてあがめているのには、
実のところまごついてしまった。私は中国軍
のある大尉に聞いてみた。どの地方の出身だ
ったか今では思い出せないが、私の中国語で
はほとんど通じなかった。従って、大半が筆
談である。第一番に私は聞いた。
「貴隊は、なぜ、私たちが貴隊の営門を出入
りするのに、衛兵に将校の礼をとらせるのか」
大尉は、世にも不思議な質問もあるものか、
といった顔をして、
「もう一度」
と言った。そして、言った。
「古来中国は師を尊ぶ。貴官らは私たちの師
である。この師を尊ぶに何の不思議があるの
か」
そして、さらに続けた。
「なるほど、日本軍は、長い間中国で随分と
ひどいことをしてきた。私の両親も姉妹も、
すべて日本軍に殺されてしまった。この点か
らいえば、貴官は私の敵である。しかし、戦
争とは本来そんなものである。国と国の戦い
に貴官の責任を問うても、どうにもなるもの
ではない。とにかく、くよくよするな。日本
の敗戦は黄河の氾濫だよ」
と言う。
「黄河の氾濫?」
と、問いかける私に、大尉は、そんなこと
がわからんのか、といった表情で、
「何年目かにやってくる黄河の大氾濫には、
測り知ることができない人畜・田畑の大被害
が伴う。しかし、その跡に遺る豊穣なる土壌
の恩恵もまた測り知ることができない。日本
の敗戦は、まさしくこの黄河の氾濫である。
日本の発展に大きく寄与するだろう」
と話を続けるのである。私は感電にも似た
ショックのため、しばらくは声も出なかった。
『何と中国人とは、途方もないことを言う国
民だろう。中国人の「白髪三千丈」の話は中
学で学んだが、まさか、あの暴虐の限りを尽
くした日本の軍人に、このような第一級の激
励の言葉を吐くとは。しかも、大尉の両親・
姉妹は、日本軍に皆殺しになっているという
のに』
私のショックはいつまでも続いた。そして、
私は目が覚めた。私たちは、日本国に、そし
て日本の指導者に、徹頭徹尾だまされていた
んだと。と同時にそのことに気づきもしなか
った私自身の愚かさと過ちも知ったのである。
そういえば、中国軍の総参謀長・何応欽将軍
は、全中国軍に、「日本軍の暴に報いるに情
をもってせよ」という布告を出して、復員業
務を極めて円滑にしているではないかと、私
は中国人の偉大さを私のこの目で確かめた。
そして私は思った。
『こうも立派な中国人と、なぜ何回も何回も
戦争をするんだろう。戦争の意志決定をする
日本国とはいったい何なのだ。なぜ、私たち
は私たちの意志とは無関係に戦争をするんだ
ろう』
現在の風潮を、昭和の初期から20年もか
けてわが国を敗戦に追い込んだあの時代と全
く酷似していると私は冒頭で述べた。まさし
くその通りであろうと私は信じて疑わない。
私は今こそ、国の意志とは何かをすべての国
民が真剣に考えねばならないと思う。国の意
志とは私の意志なのである。いや、そうでな
ければならないのである。そして私たちは、
私自身を、私の愛する人たちを絶対鉄砲弾に
さらしてはならないのである。すなわち、す
べての国民が、改めて『不戦の誓い』を胸を
張って決意することである。言うではないか、
「話せばわかる」と。われわれが考えている
以上に他国の人々は平和を好んでいる。われ
われは、われわれのおかした愚かさを二度と
繰り返してはならないのである。
三. 戦争とは殺し合いである
そこに道義を求めてはならない
新聞紙上や雑誌、そして図書で戦争中日本
軍のおかした非人道的な行為が、これでもか
これでもかといった調子で数多く報じられて
いる。そして人々は心をひどく痛めている。
私はこのような世相もおかしくてならない。
戦争とは、殺すか殺されるかのいずれかであ
る。相手を殺さなかったら殺されるのである。
この生死極限の異常事態の出来事を、平和な
今日、寝ころんで批評するのが、はたして正
しいのかどうかと思う。
私は一つ設問したい。
『これら日本軍の非人道的行為に心を痛める
人々が、どれだけ戦争というものを真剣に考
えたか』
と。そして、
『戦争そのものを憎み、不戦の運動を起こし
ているか』
と。戦争にも小さな道義を願望するのは人
間の感情として当然かもしれない。しかし、
われわれは絶対間違ってはならない。戦争と
は人間の道義・倫理はもちろん、人間の一切
を放棄した行為であるということをゆめ忘れ
てはならない。従って、日本軍の非人道的行
為を問題にする人なら、それ以前に戦争その
ものをだれよりも憎まねばならないのである。
間違って解釈されている一例をみてみよう。
「将校は銀シャリ、兵隊は麦メシ」
これは「将校は山海の珍味、兵隊はまずい
ものを食べている」という、差別に対する総
括的な批判の言葉である。私は山砲兵連隊の
大隊付獣医官だったため、大隊長の戦陣にお
ける生活はよく知っている。なるほど、私た
ち大隊付将校までが「オカユ」を食べている
時でも、大隊長だけは「パリッとした銀シャ
リ」を食べていた。この事実をどう解釈する
かはもちろん自由であるが、その真相はおよ
そ次の通りである。
戦いで身を安全に置きたい(早くいえば死
にたくない)と願望するのは、将校も下士官
も兵も同じである。では、戦いで何が一番安
全か。それは、指揮官が常にからだが頑健で
状況判断が適切であること、そして戦闘能力
にすぐれていることである。もちろん、兵力、
装備等が敵よりすぐれているにこしたことは
ないが、これらは部隊独力でできることでは
ない。しかし、部隊長を常に健康にしておく
(?)ことは、部隊全体の心掛け次第では決
して不可能なことではない。私たちの大隊長
の年齢は聞いたことはないが、50歳を上回
っていたことは間違いない。軍医官と私はい
つも、
「大隊長、あの歳でよくやるなあ」
と、話し合っていたが、軍医官はいつも大
隊長の健康には特別の注意を払っていた。ま
た、大隊本部の下士官・兵はもちろん、中隊
の下士官までが何かと大隊長の伝令に差し入
れをしていた。これらはすべて大隊長の心身
の健康保持のためである。そのかわり、雨降
りで咫尺(しせき)もわからぬ暗夜の陣地配
置には、杖と磁石、そして極めて不正確な野
戦地図を唯一の頼りとした大隊長の姿が、常
に部隊の最先頭にあった。もしこのような時、
私たちと同じように「オカユ」を食べている
大隊長だとしたら、いったいどういうことに
なるだろうか。もちろん、このような想定は
今だからできることで、戦いの場ではとうて
い考えられもしないことである。ただ、確実
にわかっていることは、もしこのような場合、
大隊長の心身が頑健でなかったらとする全将
兵の死への恐怖である。「自分の命が惜しい
ために、大隊長に御馳走(?)を食べてもら
っている」というのが、この話の真相である。
この一例でもわかるように、戦争を平時に
おいて考えることは、およそ実態とは全く掛
け離れた話になるのが通例である。そこで、
重ねて強調したい。
「人間を放棄した戦争とは、本来、非道義
的なものである。従って、戦争に道義を求め
ようとすること自体ナンセンスである」
この定理にも似た大原則をわれわれが認め
る時、そこに自然に生まれてくるのが、「不
戦の論理」である。人間は人間を信じなけれ
ばならない。そしてまた、人は人を疑わねば
ならない不幸を持っている。しかし、世界の
人々の願望は確実に「不戦平和」の方向に向
かっている。この際、だれがこの潮流のリー
ダーとなるかである。私は、わが国をおいて
外にないのではないかと思う。
そしてわが国においても、とりわけ冒頭に
述べた、勇名をはせて若くして靖国の神々と
なった後裔の旧第九師団管下の福井・石川・
富山の人々こそ、『不戦の誓い』を第一番に
担い続けていってほしいと願うのである。
私は重ねて強調したい。
「不戦を誓うのではなく、再軍備と再参戦を
胸に秘めた大臣の靖国神社参拝や改憲指向を
最も迷惑がっているのが靖国の神々である」
と。国民の生命への畏敬の念と国民の幸福
を心底願う優しさの情を持てぬ者は、政治家、
法曹家、経済人、報道人、医師、学者、宗教
者、教育者の資格はない。
そしてまた、靖国神社へ参拝する人々は、
絶対忘れてはならない。
「チクショウ!!死んでたまるか」
と、断末魔のノタウチをして無念の思いで
死んでいった神々を。一人でもこんな死に方
をさせてはならないのである。決してこのよ
うな靖国の神をつくってはならないのである。
さらにはまた、神々の死がはたして多くの
人々に幸せをもたらしたかどうかという歴史
的事実を。
われわれは、事実を認める勇気を持たなけ
ればならない。
小社発行・『北陸の燈』創刊号掲載