不戦の誓い -私の戦争体験からの提言-

 【2020年7月9日配信】
   
         
             福井市 獣医師 酒井 與郎  
            
       昔(まさしく今ではもう昔である)、金沢
     第九師団はわが国でも最強師団とうたわれ、
     数度の戦いにその勇名がもてはやされてきた。
       このことは反面、戦争によるこの地方の人
     々の多くが犠牲にあったことを物語る。
      時変わって戦争への郷愁か、世はあげて右
     傾化の道をたどっている。そして不戦の声は、
     日に日に弱体化しているようにみえる。

    私は昭和18年、いわゆる学徒動員第2陣
として半年間の繰り上げ卒業で9月に卒業、
就職25日でただちに京都第十六師団に現役
入営した。以来、中国大陸の戦野をかけめぐ
り、敗戦とともに中国軍の教官として半年間、
中国軍と生活を共にした体験を持つ。そして、
私の得た戦争体験の結論は、
(一)私たちの受けた小学校・中学校(もち
       ろん旧制の5年制)の教育は、日本国と
         指導者、そして先生にダマサレタ教育で
     あった。
(二)戦争とは一握りの指導者の世論操作の
    結果に外ならない。
(三)相手国の国民と徹底的に話し合えば、
 戦争は絶対避けることができる。
というものである。現在の世相がちょうど
靴の音がやかましくなった昭和初年と酷似す
る今日、私は私のこのささやかな体験を語っ
て不戦の一助にしたいと思う。

一. 鉄砲弾(だま)にあたるのが怖い、
死ぬのが恐ろしい
 当時の中等学校以上を卒業した男子には、
軍の下級将校か上級下士官になる制度が一般
化していた。従って、私も当然このいずれか
になるわけであるが、いかに下級幹部とはい
え幹部は幹部である。幹部が鉄砲弾が怖かっ
たり、死ぬのが恐ろしいようでは恥ずかしく
てしようがない。何とかして鉄砲弾が怖くな
らないものか、死ぬのが恐ろしくならないも
のかと真剣に考えたのは、決して私だけでは
ない。
 
  徴兵検査の結果、甲種合格になった私たち
は、鉄砲弾の恐怖と死について色々と語り合
った。しかし、問題が問題なので解決のあろ
うはずがない。だれ言うともなく座禅を組め
ば悟れるぞということになった。さっそく、
私たちは臨済宗のある高名な寺に参禅するこ
とにした。私たちはひたすら和尚の指示通り
にすわり、公案を考えた。しかし、3、4か
月後に迫っている確実なる鉄砲弾と死の恐怖
からはどうしてものがれることはできなかっ
た。ただ無我の境(?)になれたのは左右両
肩を4回ずつ警策でピシャ、ピシャとたたか
れる時ぐらいのものだった。でも、私たちは
熱心に寺に通った。そして、結果的には私た
ちはひとり残らず座禅を投げた。いかに座禅
とはいえ、目前に迫った鉄砲弾と死の恐怖を
どうすることもできないのである。これは当
然のことで、禅の責任外のことだと私たちは
私たちなりにすんなりと納得した。そしてあ
る結論に達した。「しょうがないじゃないか。
親・きょうだいを守るんだもの」という極め
て幼稚な結論である。この際何とかして天皇
陛下のためだとか国のためだと、悟ら(?)
ねばならないと真剣に考えたが、この心境に
はついに到達することはできなかった。

 現在、再軍備に心を傾ける人々が日々に多
くなっているようだが、はたしてそれらの人
々が、鉄砲弾が怖くなく、死が恐ろしくない
のだろうかと思う。また、ノンポリといわれ
る若者が、召集令状が来れば好むと好まざる
とにかかわらず必ず鉄砲弾に立ち向かわねば
ならないということを知っているのかどうか
と思う。そしてまた、世の女性たちに問いた
い。あなたたちの夫を、子供を、孫を、恋人
を、そう簡単に鉄砲弾と対決させていいもの
かどうかと。

 私は私の若かりし学徒動員時代のことを思
う。国のため、天皇陛下のためと、私たちは
生まれ落ちると同時に、寝物語りにも似た教
育を受けて育った。そして死に直面して、つ
いに国のため・天皇のための倫理(?)のわ
からぬまま戦争に駆り出された。命をかけね
ばならない国とは何か。国の意志とは何か。
天皇のためとは何か。現在、靖国神社への大
臣の公式参拝が相も変わらず議論されている。
私はこの議論を聞くたびにおかしくなる。そ
して思い出すのである。鉄砲弾を受け「チク
ショウ!!死んでたまるか」と叫びながら私の
目の前で死んでいった私の戦友の断末魔のノ
タウチを。靖国神社の神々(それは私には戦
友でもある)は決して静かには眠っていない
と思う。「チクショウ!!死んでたまるか」の
怨念が、脈々と生きているのである。「チク
ショウ!!死んでたまるか」はまた、「この無
念さは鉄砲弾で死んでみなきゃわからん。二
度とこんなばかな戦争はするんじゃないぞ」
という叫びと同じである。従って、靖国神社
へ参拝する資格のある者は、『不戦の誓い』
を靖国の神々と約束できる者でなければなら
ないはずである。この靖国の神々の強い意志
を感得する時、「信教の自由」の見地から、
大臣の靖国神社への公式参拝には問題がある
とする議論の何と弱々しいことかと思う。く
どいようだが、靖国の神々は戦争絶対反対で
あり、再軍備絶対反対である。これは、かつ
て神々と戦友だった者なら、だれでもが絶対
信じて疑わないところであろうと思う。

二. 日本の敗戦は黄河の氾濫である
 私たちが、わが国の敗戦を知ったのは桂林
の南西で、もう8月下旬であった。そして行
軍1か月、九江に集結して帰国を待った。私
の部隊は山砲兵連隊で第一級の装備をしてい
た。私は大隊付獣医官で階級は陸軍獣医少尉
だった。そして武器弾薬はもちろん、軍馬ま
で一切中国軍に引き渡したが、中国軍はこれ
らの取り扱い指導のため相応の兵員を差し出
せという。私は兵科将校1名、下士官数名、
兵30名とともに中国軍と生活を共にするこ
とになった。中国軍の装備は、私の部隊と比
較する時ひどく見劣っていた。獣医室を見て
も大半が漢方薬だったし、備え付けの獣医学
書もほとんどが日本の中国版だった。
 
  しかし、中国軍は実に立派だった。戦勝国
としてのおごりはほとんど感じられなかった。
むしろ私たちを師としてあがめているのには、
実のところまごついてしまった。私は中国軍
のある大尉に聞いてみた。どの地方の出身だ
ったか今では思い出せないが、私の中国語で
はほとんど通じなかった。従って、大半が筆
談である。第一番に私は聞いた。
「貴隊は、なぜ、私たちが貴隊の営門を出入
りするのに、衛兵に将校の礼をとらせるのか」
 大尉は、世にも不思議な質問もあるものか、
といった顔をして、
「もう一度」
 と言った。そして、言った。
「古来中国は師を尊ぶ。貴官らは私たちの師
である。この師を尊ぶに何の不思議があるの
か」
 そして、さらに続けた。
「なるほど、日本軍は、長い間中国で随分と
ひどいことをしてきた。私の両親も姉妹も、
すべて日本軍に殺されてしまった。この点か
らいえば、貴官は私の敵である。しかし、戦
争とは本来そんなものである。国と国の戦い
に貴官の責任を問うても、どうにもなるもの
ではない。とにかく、くよくよするな。日本
の敗戦は黄河の氾濫だよ」
 と言う。
「黄河の氾濫?」
 と、問いかける私に、大尉は、そんなこと
がわからんのか、といった表情で、
「何年目かにやってくる黄河の大氾濫には、
測り知ることができない人畜・田畑の大被害
が伴う。しかし、その跡に遺る豊穣なる土壌
の恩恵もまた測り知ることができない。日本
の敗戦は、まさしくこの黄河の氾濫である。
日本の発展に大きく寄与するだろう」
 と話を続けるのである。私は感電にも似た
ショックのため、しばらくは声も出なかった。
『何と中国人とは、途方もないことを言う国
民だろう。中国人の「白髪三千丈」の話は中
学で学んだが、まさか、あの暴虐の限りを尽
くした日本の軍人に、このような第一級の激
励の言葉を吐くとは。しかも、大尉の両親・
姉妹は、日本軍に皆殺しになっているという
のに』
 
  私のショックはいつまでも続いた。そして、
私は目が覚めた。私たちは、日本国に、そし
て日本の指導者に、徹頭徹尾だまされていた
んだと。と同時にそのことに気づきもしなか
った私自身の愚かさと過ちも知ったのである。
そういえば、中国軍の総参謀長・何応欽将軍
は、全中国軍に、「日本軍の暴に報いるに情
をもってせよ」という布告を出して、復員業
務を極めて円滑にしているではないかと、私
は中国人の偉大さを私のこの目で確かめた。
そして私は思った。
『こうも立派な中国人と、なぜ何回も何回も
戦争をするんだろう。戦争の意志決定をする
日本国とはいったい何なのだ。なぜ、私たち
は私たちの意志とは無関係に戦争をするんだ
ろう』

 現在の風潮を、昭和の初期から20年もか
けてわが国を敗戦に追い込んだあの時代と全
く酷似していると私は冒頭で述べた。まさし
くその通りであろうと私は信じて疑わない。
私は今こそ、国の意志とは何かをすべての国
民が真剣に考えねばならないと思う。国の意
志とは私の意志なのである。いや、そうでな
ければならないのである。そして私たちは、
私自身を、私の愛する人たちを絶対鉄砲弾に
さらしてはならないのである。すなわち、す
べての国民が、改めて『不戦の誓い』を胸を
張って決意することである。言うではないか、
「話せばわかる」と。われわれが考えている
以上に他国の人々は平和を好んでいる。われ
われは、われわれのおかした愚かさを二度と
繰り返してはならないのである。

 三.  戦争とは殺し合いである     
      そこに道義を求めてはならない       
         新聞紙上や雑誌、そして図書で戦争中日本
軍のおかした非人道的な行為が、これでもか
これでもかといった調子で数多く報じられて
いる。そして人々は心をひどく痛めている。
私はこのような世相もおかしくてならない。
戦争とは、殺すか殺されるかのいずれかであ
る。相手を殺さなかったら殺されるのである。
この生死極限の異常事態の出来事を、平和な
今日、寝ころんで批評するのが、はたして正
しいのかどうかと思う。
 
  私は一つ設問したい。
『これら日本軍の非人道的行為に心を痛める
人々が、どれだけ戦争というものを真剣に考
えたか』
 と。そして、
『戦争そのものを憎み、不戦の運動を起こし
ているか』
 と。戦争にも小さな道義を願望するのは人
間の感情として当然かもしれない。しかし、
われわれは絶対間違ってはならない。戦争と
は人間の道義・倫理はもちろん、人間の一切
を放棄した行為であるということをゆめ忘れ
てはならない。従って、日本軍の非人道的行
為を問題にする人なら、それ以前に戦争その
ものをだれよりも憎まねばならないのである。
 
  間違って解釈されている一例をみてみよう。
 「将校は銀シャリ、兵隊は麦メシ」
   これは「将校は山海の珍味、兵隊はまずい
      ものを食べている」という、差別に対する総
括的な批判の言葉である。私は山砲兵連隊の
大隊付獣医官だったため、大隊長の戦陣にお
ける生活はよく知っている。なるほど、私た
ち大隊付将校までが「オカユ」を食べている
時でも、大隊長だけは「パリッとした銀シャ
リ」を食べていた。この事実をどう解釈する
かはもちろん自由であるが、その真相はおよ
そ次の通りである。
 
  戦いで身を安全に置きたい(早くいえば死
にたくない)と願望するのは、将校も下士官
も兵も同じである。では、戦いで何が一番安
全か。それは、指揮官が常にからだが頑健で
状況判断が適切であること、そして戦闘能力
にすぐれていることである。もちろん、兵力、
装備等が敵よりすぐれているにこしたことは
ないが、これらは部隊独力でできることでは
ない。しかし、部隊長を常に健康にしておく
(?)ことは、部隊全体の心掛け次第では決
して不可能なことではない。私たちの大隊長
の年齢は聞いたことはないが、50歳を上回
っていたことは間違いない。軍医官と私はい
つも、
「大隊長、あの歳でよくやるなあ」
 と、話し合っていたが、軍医官はいつも大
隊長の健康には特別の注意を払っていた。ま
た、大隊本部の下士官・兵はもちろん、中隊
の下士官までが何かと大隊長の伝令に差し入
れをしていた。これらはすべて大隊長の心身
の健康保持のためである。そのかわり、雨降
りで咫尺(しせき)もわからぬ暗夜の陣地配
置には、杖と磁石、そして極めて不正確な野
戦地図を唯一の頼りとした大隊長の姿が、常
に部隊の最先頭にあった。もしこのような時、
私たちと同じように「オカユ」を食べている
大隊長だとしたら、いったいどういうことに
なるだろうか。もちろん、このような想定は
今だからできることで、戦いの場ではとうて
い考えられもしないことである。ただ、確実
にわかっていることは、もしこのような場合、
大隊長の心身が頑健でなかったらとする全将
兵の死への恐怖である。「自分の命が惜しい
ために、大隊長に御馳走(?)を食べてもら
っている」というのが、この話の真相である。
 
 この一例でもわかるように、戦争を平時に
おいて考えることは、およそ実態とは全く掛
け離れた話になるのが通例である。そこで、
重ねて強調したい。
「人間を放棄した戦争とは、本来、非道義
的なものである。従って、戦争に道義を求め
ようとすること自体ナンセンスである」
この定理にも似た大原則をわれわれが認め
る時、そこに自然に生まれてくるのが、「不
戦の論理」である。人間は人間を信じなけれ
ばならない。そしてまた、人は人を疑わねば
ならない不幸を持っている。しかし、世界の
人々の願望は確実に「不戦平和」の方向に向
かっている。この際、だれがこの潮流のリー
ダーとなるかである。私は、わが国をおいて
外にないのではないかと思う。
そしてわが国においても、とりわけ冒頭に
述べた、勇名をはせて若くして靖国の神々と
なった後裔の旧第九師団管下の福井・石川・
富山の人々こそ、『不戦の誓い』を第一番に
担い続けていってほしいと願うのである。

 私は重ねて強調したい。
「不戦を誓うのではなく、再軍備と再参戦を
胸に秘めた大臣の靖国神社参拝や改憲指向を
最も迷惑がっているのが靖国の神々である」
 と。国民の生命への畏敬の念と国民の幸福
を心底願う優しさの情を持てぬ者は、政治家、
曹家、経済人、報道人、医師、学者、宗教
者、教育者の資格はない。
  そしてまた、靖国神社へ参拝する人々は、
絶対忘れてはならない。
「チクショウ!!死んでたまるか」
 と、断末魔のノタウチをして無念の思いで
死んでいった神々を。一人でもこんな死に方
をさせてはならないのである。決してこのよ
うな靖国の神をつくってはならないのである。
  さらにはまた、神々の死がはたして多くの
人々に幸せをもたらしたかどうかという歴史
的事実を。
  われわれは、事実を認める勇気を持たなけ
ればならない。
               
                  小社発行・『北陸の燈』創刊号掲載


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 【2024年1月28日配信】   おばばの言葉                       白山市 番匠 俊行                                私の両親は石川県石川郡美川町(現白山 市)に生まれ育ちました。両親のそれぞれ の両親も同町の生まれ、育ちです。除籍簿 を見ると、私の先祖は全員、明治初期から 同町の住人でした。  私は高校時代まで美川で育ち、そのあと 関東の大学を卒業し、宮城県内で就職し、 現在、郷里の美川で塾教師をしています。  私の祖母は1900年生まれで伝統産業 の美川刺繍をしていました。亡くなるまで 町から一歩も出たことがなく、町の人たち との会話を楽しみに生きていたようです。  その会話を耳にした一端をご紹介します。  美川町は手取川の河口の町で日本海に面 しています。作家の島田清次郎、詩人の邑 井武雄、政治家の奥田敬和、歌手の浅川マ キ、五輪トランポリン選手の中田大輔らの 出身地でもあります。  「美川弁」といってもいい言葉は、隣町 の能美郡根上町(現能美市)や能美郡川北 村(現能美郡川北町)、石川郡松任町(旧 松任市、現白山市)ともちょっと異なって いると思います。  私は金沢市内の高校に通ったのですが、 私の話す言葉がおかしいと、いつも友人に 笑われていました。言葉だけで伝えるのは 難しいのですが、動詞、形容詞、形容動詞 のエ音便がイ音便になったり、また、人名 や名詞の発音のアクセントや抑揚、強弱、 長短が独特みたいです。  鹿児島弁が混じっているのではないかと 言う人もいます。もしそうであれば、最初 の石川県庁が美川町に置かれたことと関係 しているのかもしれません。内田政風とい う薩摩藩士がトップとなりはるばるこの町 にやって来たと聞いています。ひょうきん な美川の人たちが薩摩から来た役人たちの 言葉をおもしろがって真似して、流行らせ、 それがそのまま一部根づいたのではないか と思ったりもしています。  内田はなぜか金沢県とすることを拒否し、 県名を石川郡から拝借して石川県にし、さ らに「美川県」にとまで県名をかえようと したと聞きます。石川県はあわや美川県に なっていた可能性もあったということです。  これはこれでおもしろい話ですが、内田 は、美川町を中心にした金沢以上の新たな ...

319. 何者でもない者が生きる哲学  

【2023年11月4日配信】         考えることがなぜ大切なのか     小を積めば即ち大と為る. 『報徳記』富田高慶1856    二宮尊徳翁曰く 「励精小さなる事を勤めば大なる事必ずなるべし。  小さなる事をゆるがせにする者、大なる事必ず  できぬものなり」     読書のすすめ 背負い歩き考える二宮金治郎          ロダンの『考える人』よりもりっぱに思える         薪を負いて名定まる         損得から尊徳の世へ             朱買臣 哲学の時代へ(第14回)                                        以下の文はkyouseiさんという方のnote にある文です。偶然みつけ共感するものが ありこれまで何度か勝手にその文を紹介し てきました。どこのどなたかまったく存じ 上げませんが、またお叱りを受けるかもし れませんが、本日掲載の文をご紹介します。 (当講座編集人)            本当の哲学とはなにか            note での投稿も長くなった。 連続投稿 が 370 を超えたようだ。そんなことはどう で もい いことだが、ぼくはこれまで 「哲学」 だと 思って書いていた記事は、「本当に哲 学 な のだろうか」と思うことがよくある。 皆の言う「哲学」は、「○○哲学では…」 と 難しい話をよく知っている。 ぼくはというと、思考を治療的に使って 現 状の維持、回復を狙うものだ。 「何が不満か」「何がそうさせるのか」と いった答えを探すものだ。だから「治療的 哲学」と銘打っているのだが、はたしてそ れは哲学なのだろうかと思うこともある。 ぼくの哲学は「結果が全て」であり、再 現 性も求める。結果が出ないとすれば、や り 方がまずかったとすぐに修正する。自分 自 身を実験台にして確かめるのだ。 難しい話を好まないのは「使えない」 か ら だ。使えないものは真理ではないと 考え て いる。 だからといって、ぼくの視野が広いか とい えばそうではなく、個人という狭い世 界観 をどう変えるかといったものだ。 「大したことないな」と思われるだろう が、 では、...

280. 湯の人(その4)現実と夢

 【2022年11月22日配信】   大きな便り                       加藤 蒼汰          秋とはいっても冬のような寒い夜だった。 浴室にはだれもおらず、脱衣場には番台に 座っている銭湯の主人と私ともうひとり。  その人は銭湯の近所の人であり、かつて 高校の教員をしていた。在職当時、馳浩・ 現石川県知事を教えていたと語っている。 八十歳を超えている。  この銭湯でよく顔を合わせ、会うたびに 知事の高校在学中のエピソードを繰り返す ので、私はその話の内容をすっかり諳んじ られるようになってしまった。高校入学時 から卒業までの様子、レスリング部での活 躍などであるが、私が特に感銘を受けた話 は、知事は高校時代、冬、雪が降り積もっ た朝には真っ先に早出登校して、生徒・教 職員を思いやり、校門から校舎玄関入り口 までの路をひとりスコップで雪かきをして いたというくだりである。  そんなすばらしい教え子をもつ元先生が、 服を脱ぎ裸になって浴室入り口に向かって 五、六歩あるきながら大便を三個落とした のである。気づかずに落ちたようなので、 私は「先生、落としもの」と声をかけると、 「ありりー、まったく気いつかんかった。 あはははは」と笑うのである。  私は、脇にあったチリトリでこの塊をす くいとり、「みごとな色と固さやね」と言 いながらトイレに流した。しかしながら、 脱衣場にはその匂いが全面に沁みわたり、 息が苦しくなるほどだった。このとき私は、 幼いころサーカスを見たときのことを思い だした。  それは曲芸をしていた象が巨大な大便の 塊を三個落とし、団員があわててスコップ で拾いあげていた光景であった。このとき の衝撃の記憶がよみがえり、私にとっさに チリトリを思いつかせたような気がする。 本を読んでいた番台の主人もその匂いで事 のいきさつに気づき、「匂いもすばらしい ね」と笑いながら脱衣場の窓を全開し床を 雑巾でふいてくれたが、その強力な匂いは 容易に消えなかった。  その間、先生は先に浴槽へ入り、気持ち よさそうに浸かっていた。私は先生と湯壺 にいっしょに漬かることに一瞬躊躇したが、 免疫機能が高まるまたとないチャンスでは ないかとの思いも何ゆえか突然こみあげて きて湯船に同席、お伴したしだいである。 ...

303. 教え子を再び何処へ送るのか

【2023年5月25日配信】   マスクをめぐる学校との苦闘                   千葉県 今野 ゆうひ  17歳                          2019年。新型コロナウイルスが突如 として私たちの生活に現れました。何もわ からないまま政府に舵をゆだね、ウイルス の災いとして ”コロナ禍” は四年目に突入し ました。 当時中学三年生だった私の日常も  “コロナ禍” によって一変しました。  外出自粛、一斉休校、ソーシャルディス タンス、マスク、消毒...   それら政策を半ば面白がりながら、20 21年まで三年間、流されて過ごしました。  人との接触をなるべく避けながらいかに 楽しめるか。マスクをしていかにおしゃれ をできるか。いつしか私たちの生活は“コロ ナ禍”ファーストへと姿を変えていました。  2021年、高校一年生になった私も“コ ロナ禍”ファーストな高校生活を送っていま した。  その年の夏、母と私は新型コロナと全く 同じ症状を発症。病院に行っても薬がない ので PCR検査などはしていませんが、あの 症状は確実に新型コロナだったと思います。 その時母と、“コロナ禍” ファーストな生活 をしていても感染はするし、普通の風邪と 同じように治るということに気づきました。  もちろん個人差はありますが、なぜここ まで徹底して感染源を特定したり外出制限 をしたりするのか、その時からじんわりと 疑問が生まれます。  経験は人を変化させますね。  そんなこんなで私と母は、自転車に乗っ ている時だけ。から始まり、すこしずつマ スクを外すことにしました。  ある日、母と一緒に近くの大きめのスー パーで買い物をすることになります。 「注意されるまでマスクしないで入ってみ るわ」  正直遊びの部分もありました。ちょっと 面倒くさくなっちゃったのです。強い意志 もないただのチャレンジだったので、何か 言われたらすぐ付けるつもりでした。  ところが、なんかいけちゃったのです。 一時間弱いたものの、誰にもなんにも言わ れず買い物終了。  なんということでしょう。今までやって きたことはなんだったんだと思うほどあっ けなくチャレンジは成功。今思えば、この スーパーで何か言われていたら、この文を 書くこともなかったで...

275. スポーツを文化にするために

【2022年10月10日配信】      「学生野球考」      慶應義塾大学野球部監督   前田 祐吉   史上最高演技   史上最高選手      勇気ある発言   「オンニ、ここで記念に一緒に撮りましょ」   「オレは笑わないが、笑って何が悪いんだ」    台湾、中国、日本、コロンビア  体操鉄棒4選手     中国・張博恒(左)と台湾・唐嘉鴻   唐 「こんなのもらっちゃったよオレ」   張 「よかったらオイラのもあげるよ」   唐 「そっちのは錆びてるみたいだね」   張 「ほんとだ。だったら交換してよ」   唐 「ならオレのも持ってけよ」   石原裕次郎『錆びたナイフ』  葉隠・武士道を覆す号泣                       「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」 と いう元気な掛け声の間に、「カーン」と いう 快いバットの音がひびくグラウンドが 私の職 場である。だれもが真剣に野球に取 り組み、 どの顔もスポーツの喜びに輝いて いる。息子 ほどの年齢の青年たちに囲まれ、 好きな野球 に打ち込むことのできる私は、 つくづく、し あわせ者だと思う。  学生野球は教育の一環であるとか、野球 は人間形成の手段であるということがいわ れるが、私の場合、ほとんどそんな意識は ないし、まして自分が教育者だとも思わな い。どうしたらすべての野球部員がもっと 野球を楽しめるようになるのか、どうした らもっと強いチームになって、試合に勝ち、 選手と喜びを共にできるのか、ということ ばかり考えている。  野球に限らず、およそすべてのスポーツ は、好きな者同志が集まって、思いきり身 体を動かして楽しむためのもので、それに よって何の利益も求めないという、極めて 人間的な、文化の一形態である。百メート ルをどんなに早く走ろうと、ボールをどれ だけ遠くへカッ飛ばそうと、人間の実生活 には何の役にも立たない。しかし、短距離 走者はたった百分の一秒のタイムを縮める ために骨身をけずり、野球選手は十回の打 席にたった三本のヒットを打つために若い エネルギーを燃やす。その理由は、走るこ とが楽しく、打つことが面白いからにすぎ ない。さらにいえば、より早く走るための 努...

381. 現代の課題と統一協会(続き)

 【2025年2月26日配信】        親友ヨッチにささげる手記          -最期まで友情を信じて-                  石川県河北郡津幡町                 書店員 22歳  酒井 由記子  人は、どんな人と巡り合うか、どんな本 と出会うかによって人生が決まってくると、 ある作家が述べていたのをふと思い出す。 私にとってはまさにそうであった。出会っ た人達も書物もとても大きな影響を残し、 忘れられない出来事となっていったのであ る。   一、高校生の頃  今から六年前(1977年)、私は金沢 二水高校の二年生であった。いや二年生と いうより吹奏楽部生というほうが適切であ るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。 みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン をして基礎固めをなして、全員そろって校 舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌 いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の 一致によって一つの音楽をつくり出すとい う喜びを存分に味わった私の青春時代の真 っ盛りであった。ただ残念なことは、部活 動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ ぱり力がはいらなかったことである。中学 生のときは、「進学校にはいるために」と いうただそれだけの目的で受験勉強ができ た。しかし、いざ高校にはいってみると、 また「いい大学にはいるために」と先生方 が口をすっぱくして押しまくる文句に素直 になれなかった。勉強する本当の意味が見 出せなかったのである。その頃から、私は 人間は何のために生きるのだろうかという ことまで突っ込んで考えるようになってい った。  父母が書店を経営しているため本は充分 にあり、書物を読むことによって答えを見 出そうとした。私の強い求めに応じるかの ように一冊の本が転がり込んできた。クリ スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ っての風』という随筆集であった。聖書の 言葉がそこに登場しており、それはズシリ と心に響いたのである。その本に魅せられ て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい った。しだいに私の魂は、人間をはるかに 越えた大いなる存在があることを感じてい った。確信までは至らなかったけれども、 それらの本...
         柿岡 時正
         廣田 克昭
         酒井 與郎
         黒沢  靖
         神尾 和子
         前田 祐吉
         廣田 克昭
         伊藤 正孝
         柿岡 時正
         広瀬 心二郎
         七尾 政治
         辰巳 国雄
         大山 文人
         島田 清次郎
         鶴   彬
         西山 誠一
         荒木田 岳
         加納 韻泉
         沢田 喜誠
         島谷 吾六
         宮保 英明
         青木 晴美
         山本 智美
         匂  咲子
         浅井 恒子
         浜田 弥生
         遠田 千鶴子
         米谷 艶子
         大矢場 雅楽子
         舘田 信子
         酒井 由記子
         酒井 由記子
         竹内 緋紗子
         幸村  明
         梅  時雄
         家永 三郎
         下村 利明
         廣田 克昭
         早津 美寿々
         木村 美津子
         酒匂 浩三
         永原 百合子
         竹津 清樹
         階戸 陽太
         山本 孝志
         谷口 留美
         早津 美寿々
         坂井 耕吉
         伊佐田 哲朗
         舘田 志保
         中田 美保
         北崎 誠一
         森  鈴井
         正見  巖
         正見  巖
         貝野  亨
         竹内 緋紗子
         滋野 真祐美
         佐伯 正博
         広瀬 心二郎
         西野 雅治
         竹内 緋紗子
         早津 美寿々
         御堂河内 四市
         酒井 與郎
         石崎 光春
         小林 ときお
         小川 文人
         広瀬 心二郎
         波佐場 義隆
         石黒 優香里
         沖崎 信繁
         山浦  元
         船橋 夕有子
         米谷 艶子
       ジョアキン・モンテイロ
         遠藤  一
         谷野 あづさ
         梅田 喜代美
         小林 ときお
         中島 孝男
         中村 秀人
         竹内 緋紗子
         笠尾  実
         前田 佐智子
         桐生 和郎
         伊勢谷 業
         伊勢谷 功
         中川 清基
         北出  晃
         北出  晃
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         濱田 愛莉
         伊勢谷 功
         伊勢谷 功
         加納 実紀代
         細山田 三精
         杉浦 麻有子
         半田 ひとみ
         早津 美寿々
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         若林 忠司
         若林 忠司
         橋本 美濃里
         田代 真理子
         花水 真希
         村田 啓子
         滋野 弘美
         若林 忠司
         吉本 行光
         早津 美寿々
         竹内 緋紗子
         市来 信夫
         西田 瑤子
         西田 瑤子
         高木 智子
         金森 燁子
         坂本 淑絵
         小見山 薫子
         広瀬 心二郎
         横井 瑠璃子
         野川 信治朗
         黒谷 幸子
         福永 和恵
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         秋山 郁美
         加藤 蒼汰
         森本 比奈子
         森本 比奈子
         吉村 三七治
         石崎 光春
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         中野 喜佐雄
         八木  正
         堀  勇蔵
         家永 三郎
         広瀬 心二郎
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         石井 洋三
         小島 孝一
         キャリー・マディ
         谷本 誠一
         宇部  功
         竹内 緋紗子
         谷本 誠一
         酒井 伸雄
163、コロナ禍の医療現場リポート
         竹口 昌志
164、この世とコロナと生き方を問う
         小社発信記事
165、コロナの風向きを変える取材
         橋本 美濃里
166、英断の新聞意見広告
         小社発信記事
167、ワクチン接種をしてしまった方へ
         小社発信記事
168、真実と反骨の質問
         小社発信記事
169、世論を逆転する記者会見
         小社発信記事
170、世界に響けこの音この歌この踊り
         小社発信記事
171、命の責任はだれにあるのか
         小社発信記事
172、歌人・芦田高子を偲ぶ(1)
         若林 忠司
173、歌人・芦田高子を偲ぶ(2)
         若林 忠司
174、歌人・芦田高子を偲ぶ(3)
         若林 忠司
175、ノーマスク学校生活宣言
         こいわし広島
176、白山に秘められた日本建国の真実
         新井 信介
177、G線上のアリア
         石黒 優香里
178、世界最高の笑顔
         小社発信記事
179、不戦の誓い(2)
         酒井 與郎
180、不戦の誓い(3)
         酒井 與郎
181、不戦の誓い(4)
         酒井 與郎
182、まだ軍服を着せますか?
         小社発信記事
183、現代時事川柳(六)
         早津 美寿々
184、翡翠の里・高志の海原
         永井 則子
185、命のおくりもの
         竹津 美綺 
186、魔法の喫茶店
         小川 文人 
187、市民メディアの役割を考える
         馬場 禎子 
188、当季雑詠
         表 古主衣 
189、「緑」に因んで
         吉村 三七治 
190、「鶴彬」特別授業感想文
         小社発信記事
191、「社会の木鐸」を失った記事
         小社発信記事
192、朝露(아침이슬)
         坂本 淑絵
193、変わりつつある世論
         小社発信記事
194、ミニコミ紙「ローカル列車」
         赤井 武治
195、コロナの本当の本質を問う①
         矢田 嘉伸
196、秋
         鈴木 きく
197、コロナの本当の本質を問う②
         矢田 嘉伸
198、人間ロボットからの解放
         清水 世織
199、コロナの本当の本質を問う③
         矢田 嘉伸
200、蟹
         加納 韻泉
201、雨降る永東橋
         坂本 淑絵
202、総選挙をふりかえって
         岩井 奏太
203、ファイザーの論理
         小社発信記事
204、コロナの本当の本質を問う④
         矢田 嘉伸
205、湯の人(その2)
         加藤 蒼汰
206、コロナの本当の本質を問う⑤
         矢田 嘉伸
207、哲学の時代へ(第1回)
         小社発信記事
208、哲学の時代へ(第2回)
         小川 文人
209、コロナの本当の本質を問う⑥
         矢田 嘉伸
210、読者・投稿者の方々へお願い
         小社発信記事
211、哲学の時代へ(第3回)
         小社発信記事
212、哲学の時代へ(第4回)
         小社発信記事
213、小説『金澤夜景』(2)
         広瀬 心二郎
214、小説『金澤夜景』(3)
         広瀬 心二郎