哲学的人間観-その1-
【2020年7月9日配信】
富山大学名誉教授 柿岡 時正
『北陸の燈』に哲学の話を連載するように
頼まれたので、人間の最終で最高の哲学では
ないかと私が常に思っているカントとマルク
スの思想を論評することとした。しかし両者
の所説を詳細に検討するのではなく(専門家
以外には必要ないだろう)種々の哲学的立場
を比較しながらカントやマルクスの思想をも
簡単に語る程度に止めたので、それ以上を知
りたい方は私の書いた他の論文を読んで頂き
たい。
さて哲学の諸立場とそれに基づく人間観は
極めて数多いが、大別すれば次の三種類に整
理され得ると思われる。即ちそれは(一)唯
物論的人間観・(二)有神論的人間観・(三)
経験論的人間観であるけれども、この分類は
哲学的人間観の発達の順序でもあるから本号
ではまず唯物論的人間観について述べて見よ
う。
一 唯物論と人間
唯物論とは物質(自然)を世界(宇宙)の
唯一の存在と考える哲学思想であり、人間も
単なる肉体的・物質的存在としてこの物質の
一部分であるに過ぎないと見なされている。
しかし人間が物質的性質を有することは明白
であるにしても、それと共に物質とはある程
度異った精神的性質をも持っていることが認
められるならば、世界はむしろ人間の観念と
しての存在となって両者の関係は逆転する。
そのような哲学的立場は唯心論あるいは観念
論と呼ばれるけれども、これは有神論的人間
観と密接な関係にあるのでその立場を論ずる
際に併せて考察しよう。
さて理論的な世界観としての哲学は唯物論
から始まったともいわれるが、それはある意
味では当然であろう。人間が肉体的・物理的
な存在でもあることは明確な事実であり、物
質的制約を完全に脱却することはできないの
である。したがって人間社会がまだ弱体で環
境的自然が極めて巨大に感じられたと思われ
る古代では自然的物質がまず絶対視されたと
しても不思議ではないけれども、哲学として
の自然的唯物論は種々の欠点を持っているた
めにその後次第に他の哲学思想が出現したの
であった。
例えば唯物論者は物質を唯一の存在という
が、その物資の発生や起源についてはほとん
ど説明していないのである。その点は一応科
学的とはいえても哲学的世界観としては必ず
しも完結性がなく、むしろ単なる自然科学的
仮説であると見た方がよいのではないかと考
えられる。この場合唯物論者は神による宇宙
創造説を荒唐無稽と非難して宇宙は永遠の昔
から存在すると主張するが、その説明は意外
にも創造説と同じ位に不合理である。
何故ならばこの「永遠の昔」が時間・空間
なある一点であったとすれば、その時点で大
宇宙が突然無より自動的に出現したことにな
るけれどもそれは神の創造説よりも更に奇妙
であるだろう。したがって唯物論者は科学の
進展によってこの問題は解決され得るとか、
あるいはただ永遠に存在し続けて来たとも説
明するがそれも実は問題の回避であって真の
解決ではない。科学の進歩に伴って「永遠の
昔」が遡ったとしても無よりの出現の疑問は
常に残るし、また永遠に存在し続けて来たと
いう主張も単なる仮定であって証明ではない
からである。
それ故にこの問題に関する最も合理的な説
明は神の創造説や「永遠の昔」説ではなく、
カントの批判的不可知論ではないかと思われ
る。彼は人間の思惟が世界(宇宙)を全体と
して把捉しようとすれば「世界は有限である」
と「世界は無限である」という矛盾した両判
断が必然的に対立することを指摘して、人間
の思惟能力は世界を絶対的存在としては把捉
し得ないと主張したのであった。即ちカント
によれば世界は完全な総体の形で人間に示さ
れてはいないのに人間の思惟が全体的に把捉
しようとするから矛盾が生ずるのであり、人
間はただ課せられた問題としての経験を不断
に探究すべきであるというのである。
このように人間は世界を存在そのもの(物
自体)として完全に認識することは不可能で、
人間の経験する現象界としてのみ知り得るに
過ぎないというカントの批判哲学は不可知論
的経験論とも呼ばれている。私はこの経験論
こそ最もすぐれた哲学的立場である(多少の
難点はあるが)と考えているので後に詳論す
るけれども、今はその人間観と唯物論的人間
観との相違点について多少述べておくだけに
止めよう。
唯物論は物質を唯一の存在と考えて人間も
その一部と見なす思想であるから、極めて簡
明ではあるにしても人間を主体として把捉で
きない点に問題がある。人間は自然的物質と
見られる場合には当然自然科学的法則に支配
されるが、人間の実践を基礎とする社会科学
的方面では意志の自由や選択の可能性が前提
として認められなければならない。その際に
は人間は社会的環境はもとより、自然的環境
をも自由な意志によってある程度は変更し得
る存在と見なされるのである。
しかしこの人間の主体的自由の能力は自然
や神という絶対者的存在と比べれば極めて微
小であるから、唯物論や有神論では人間の自
由はほとんど無視されて自然や神の法則のみ
が絶対視・必然視されることとなる。それに
反してカントのように世界は単に人間の見た
現象界であり、自然や神のような絶対者は真
の意味では認識され得ないと考える経験論的
立場では人間とその自由が逆に最優先される
のである。
何故ならば人間が自然や神のような強力な
絶対的存在と同一次元の世界にあると見られ
るならば人間は常に絶対者に従属する存在で
あり、絶対者の法則に比べれば人間の自由は
ただ表面的な見せかけだけの自由となること
は当然であろう。しかるにこの世界はすべて
人間にとっての経験的現象界であって自然や
神という強力な存在も人間の合成した観念で
あるに過ぎないとすれば、人間こそ実はこの
世界の真の中心であってその自由もまた最も
基本的な原理として重視され得るのである。
無論この見解によって人間が自然法則から
完全に解放されるというのではないけれども、
人間の経験的現象としての世界においては人
間の生命や自由の尊重が基本的で最高の目的
となるのである。即ち強力な自然法則もまず
人間の生命や幸福の維持・促進のために利用
されなければならず、人間の物質視・機械視
は完全に否定されて人間はただ人間であるだ
けで基本的人権を有することになる。それ故
にカントのこの不可知論的経験論は人間の能
力を軽視しているように見えながら、却って
人間を最高に重視する哲学であるといえよう。
これに対して唯物論は物質を根源視する点
では素朴で明快な哲学ではあるが、政治的権
力者によって人間軽視の方向にも利用され得
るために人間社会の発展と共に唯心論や経験
論のような人間中心の哲学的思想が次第に尊
重されるようになったのであった。それでも
唯物論は哲学というよりむしろ科学的仮説と
して使用されるならばすぐれた価値を有する
のであって、自然科学の仮説として神のよう
な不明確な存在による創造を排除したり社会
科学的には経済構造のような人間の物質的方
面を重視させる効果を持っているのである。
それ故に唯物論は主として時代の転換期に
出現(例えばギリシャ神話に対する物活論や
デモクリトス的唯物論、キリスト教に対する
ホッブスやフランス唯物論、ヘーゲルに対す
るマルクスのように)して、前代の古い宗教
的イデオロギーを一掃する革新的任務を果た
すことが多いけれども、人間的世界観として
は多少不十分であるために種々の補正を必要
とする。現代の唯物論としてのマルクス主義
も政治的効用は大きいが哲学思想としてはや
はり欠点を持っているので、むしろ経験論的
哲学を基盤とする社会科学的人間学として再
編する必要があると思われる。
マルクスの唯物論は彼自身のいう所によれ
ば実践を重視する社会的人間の立場としての
「新しい唯物論」であるけれども、エンゲル
スやレーニンの解説によると唯物論はすべて
「自然を根源的なものと見なす」哲学でその
中に種々の流派があることとなる。したがっ
てマルクスの唯物論とは古来の自然的唯物論
の中の一つの新しい「流派」であるに過ぎな
いのか、それとも自然的唯物論とは全く異っ
た社会的人間を基礎とするという意味での「
新しい唯物論」であるのかは必ずしも明確で
はない。
この疑問に対して多くの「マルクス主義者」
はマルクス・エンゲルス・レーニンの所説は
すべて正しいから「新しい唯物論」こそ人間
の自由を確立し得る最高の自然的唯物論であ
ると主張するのであるが、実はこの三者の説
明にはそれぞれの難点と相互矛盾がある。即
ちマルクスの「新しい唯物論」はその名称と
は異り内容的にはむしろ「新しい経験論」で
あるけれども彼がそれを「唯物論」と呼んだ
ために、エンゲルスやレーニンが誤って古い
自然的唯物論と同一した結果大きな混乱を生
じたのではないかと私は考えている。
しかしこのような重大問題は簡単には論証
できないので経験論的人間観を考察する際に
詳しく述べることとして、今はただレーニン
の物質に関する定義の不合理性を指摘してお
くだけに止めよう。彼は「物質とは人間に対
してその感覚において与えられ、我々の感覚
において複写され、撮影され、模写されなが
ら、感覚から独立して存在する客観的実在を
表示するための哲学的範疇である」といって
いる。
この定義は有名で屢々引用されるが、その
内容は完全な自己矛盾であるといえよう。何
故ならば物質が人間に対して感覚において与
えられる際に複写され模写されるのであれば、
「感覚から独立して存在する客観的実在」は
何によってまたいかなる形で人間に知られ得
るのであろうか。それもやはり感覚によって
把えられるのであるなら「感覚から独立して
存在」してはいないし、感覚における模写・
複写とも区別され得ないのである。
したがって唯心論や経験論は物質とは実は
人間の理性や感覚によって把捉された模写と
しての観念的な「物質」であるに過ぎないと
主張するのであり、世界の根源も物質ではな
くむしろ人間の精神を出発点と見る。それに
対して唯物論者はあくまでも物質を根源的存
在と主張するのであるけれども、感覚で模写
された「物質」とは異る「感覚から独立して
存在する客観的実在」としての物質を理論的
に証明することは意外に困難である。
さて以上述べて来たように唯物論は人間に
とって最も確実な存在である如くに見える物
質を唯一の存在と力説するから明快で合理的
であると思われやすいが、その所説の内容を
厳密に検討すると物質の定義さえ不明確であ
るばかりでなく物質的世界の起源をも十分に
は説明していないのであった。それ故に人間
は哲学思想としては最も古いともいわれる唯
物論的世界観から次第に離れて、人間の主体
的自由を重視しながら唯物論の欠陥をある程
度補完しようとする唯心論(有神論)や経験
論のような哲学的立場に移行したのであるけ
れども、それらの思想については次号以降で
述べることとしよう。
小社発行・『北陸の燈』第3号掲載