10年目の福島にて
【2020年9月3日配信 NO.17】
自問自答
福島大学准教授 荒木田 岳
福島原発の事故について何かを語ろうとす
るときに感じるある種の「面倒くさい感じ」、
あれはいったい何だろうか。
尻尾をつかまれないように、足元をすくわ
れないように、慎重に語らねばならないとい
うような、そういう気分にさせられる、あの
感じである。そして、発言すれば、どこから
か必ずネガティブな反応が返ってくる、それ
がわかっているから気が進まないという、何
かしら鬱陶しい、あの感じである。そういう
気分を作り出している正体はいったい何だろ
うか。今回はそれを考えてみたいと思う。
汚染された地域に被害者を留め置き、放射
性物質の方を全国に拡散させている。昨今で
は、飯舘村で、除染をせずに避難解除が進め
られていたり、同村で除染土壌を覆わずに栽
培実験を行ったりということが報じられてい
る。誰が見ても、この9年半近く、本来の放
射性物質取扱の原則とは正反対の政策が、一
貫して推進されている。加害企業や原子力政
策を推進した者たちの責任は問われず、見な
し仮設住宅に留まった避難者が福島県によっ
て訴えられている。この倒錯した政策の背景
には、国策の失敗を隠蔽し、事態を過小評価
することによって原発事故の責任を局限しよ
うとする考え方があることは明らかである。
そして、ほとんどの人々は、おそらくそのこ
とを「理解」している。
思い返してみれば、福島第一原発の事故は
たしかに未曾有の「国難」であった。これは
疑いようのない事実である。しかも、その事
後処理は必ずしも計画どおりに進行していな
い。つまり、「国難」は進行中であり、解決
の見込みも立っていない。これが現実である。
打つ手がないからこそ、福島原発事故問題
は「遠隔地の話」「昔のこと」として視界か
ら遠ざけられる。そうするしかないのである。
ネガティブな話は誰も聞きたくはないし、聞
かされたところで、起死回生の策があるわけ
でもない。だから、心の平静を保つためには、
危機から目をそらすための国威発揚にでも乗
っておくのがよい。そういう話になるのも無
理はない。
東北でよかった、という、2017年4月の今
村雅弘復興大臣(当時)の発言は、そうした
人々の心性を見事に表現したものであったと
思う。「まだ東北でですね、あっちのほうだ
ったからよかった。これが、もっと首都圏に
近かったりすると、莫大な、甚大な(被害?
…この部分、聞き取れず)があったというふ
うに思っております」というのがその内容で
ある。これは、社会資本の毀損についての発
言ではあったが、「あっちのほう」と表現し
ているあたりに、大臣と現地との心の距離感
がよく表現されていると思うが、いかがであ
ろうか。
だから、原発事故問題というものは存在し
ない。存在するのは、被災地の人々に「被害」
を押しつけている問題、そして、自分とは無
関係のことだと考える人々が大多数であると
いう問題である。つまり、福島原発事故問題
に見えるものは、実は、「いじめ」を見て見
ぬふりするという人々の振る舞いの問題であ
り、組織化された抑圧だということである。
誤解のないよう書き加えれば、「見て見ぬふ
り」をする人は現地にも多く、それゆえに「
風評被害」などという言い方がまかり通って
いる。「なかったことにしたい」という意味
では被災地もまた東京電力や政府と問題意識
を共有している面がある。だから、実際には
「被災地」「非被災地」という区分が有効な
わけでもない。ただ、現地が「ありもしない
被害」と主張している弊害は途方もなく大き
い。
総じて、原発事故の議論に対する加害当事
者による極端な過小評価、ファナティックな
被害の否定と、この問題に対する世の人々の
デタッチメント(関わらないようにしようと
する態度)が、冒頭で述べた「面倒くさい感
じ」の震源地であろう。とすれば、東京電力、
政府、マスコミを相手に批判を繰り返してい
るうちは、この事態を打開することはできな
いように思われる。逆に、ここにコミットし
ようとしたときには、東京電力・政府・マス
コミを批判するのとは異なった難しさがある。
無数の市井の人々と対峙しなければならなく
なるからである。
政府や東京電力が行ってきた福島原発事故
の事後処理に対して、多くの人々が無言の承
認を与えている事実。ここに介入しなければ
何も変わらない。しかし、どうやって?――
結局、こうした自問を繰り返した9年半であ
った。
いつかテレビで見た原発事故収束作業のシ
ーンが思い出される。
キャスター:「廃炉作業は何合目まで来まし
たか?」
作業員:「いえ、まだ登山口に立って呆然と
山を見上げている状態です」