安藤昌益の思想について
【2020年10月6日配信 NO.36】
東京教育大学名誉教授
家永 三郎
一七五二(宝暦二)年前後の時期に『自然
真営道』『統道真伝』などを著わして、独創
的な哲学の体系をうち立てた安藤昌益の思想
………。
かれは、すべての人間は、みずから耕作労
働に従事し、穀物を生産して生活すべきであ
り、自分は生産労働に従事することなく、他
人の生産した穀物を無償で手に入れて生活す
るものは盗賊である、という破天荒の命題を
その思想体系の中心にすえた。そして、この
根本原理を適用して、一切の歴史的・社会的
現象にきびしい批判を加えたのである。かれ
によれば、昔は万人が自ら耕作して生活する
自然世(しぜんせい)の社会を営んできたが、
聖人というものがあらわれて、いつわりの道
徳を教えてから、天子・将軍・大名・商人な
どという、他人の穀を奪って生活する盗賊の
支配する法世(ほうせい)の時代となってし
まった。今日、世間に行なわれる犯罪・悪事・
戦争などのよくないことは、すべてそこから
来るものであって、盗みの本(もと)を絶た
ないでは永久に世の中の悪事はあとをたたな
いであろう、士農工商の四民の差別、支配者
被支配者の区別を全廃し、すべての人間が上
下のない平等の間柄となり、ひとしく田を耕
し機を織り、みずからの労働に衣食する自然
世の社会にたちもどることこそ、究極の理想
である、というのである。
かれは、階級の対立、権力の支配、封建的
身分秩序をことごとく否定し去り、政治組織・
社会構造を根底から批判したばかりでなく、
男尊女卑の家族制度にもはげしい攻撃をくわ
え、一人の男が多くの女にまじわるのは獣の
道であり、一夫一婦が昼耕し夜交わり、上下
のない平等の結合のもとに、生活資料と人間
との再生産をつづけていくのが人間の道であ
る、と主張したのであった。
封建社会のまん中にあって、これをその根
底から否定する、この思いきった独創的思想
は一体どのような歴史的条件から生れ出たの
であろうか。昌益の思想のあまりにも徹底し
た考え方は、江戸時代には到底、公然と発表
できる性質のものではなく、その主著はあま
り人の眼にふれなかったためであろう、かれ
の存在それ自体さえほとんど後世に伝えられ
ず、明治になってから、はじめて発見された
くらいであるから、かれの伝記についても、
明らかでないところが多い。
八戸で町医者を開業していたこと、後に故
郷秋田の二井田(今の大館市の一部)に帰っ
て死んだことのほか、何人かの門弟たちの名
が知られている程度である。おそらく東北の、
もっとも後進的な農村の実情をまのあたりに
見た一知識人として、尊い生産労働に従事し
ながらはげしい収奪のために最低の生活にお
としいれられている農民の窮乏の原因を考え
ていったとき、ついに本質的な社会矛盾につ
きあたり、そこから独自の思索を展開させる
ことに成功したのではあるまいか。古来すべ
ての思想がことごとく階級的な支配と搾取を
支持しないまでもやむをえない事実として黙
認してきたのをかえりみるとき、はじめてこ
の根本問題に正面からとりくみ、勤労人民の
立場を正しく代弁する哲学を樹立した昌益は、
日本の思想史の上にきわめて大きな位置を占
めているといってよいだろう。
家永三郎著『日本文化史第二版』〈岩波新書〉
より抜粋(同書は著者から恵贈)
あんどう しょうえき
1703(元禄16)年~
1762(宝暦12)年。
「直耕」を旨とする。
心ある町医者。
雪深い秋田出身。
父は豪農。