なにがおかしい!
【2020年12月28日配信 NO.92】
毛利先生の一喝
作家 広瀬 心二郎
もう半世紀も昔になる私の学生時代の忘れ
がたい人物は、東洋哲学の毛利先生という方。
ご自身のおっしゃるところでは、能登地方の
「貧乏寺」のご住職ということでした。五十
歳前後の、禅の方です。なかなかいかつい風
貌でした。常にしっかりと噛みしめているよ
うな意志的な顎と、分厚い眼鏡の奥にいつも
瞑想にふけっておいでのような独特の眼をお
持ちでした。半眼、というのでしょうか。そ
して髪は荒くうしろに撫でつけただけ。でも、
近寄りがたい人格というのではなく、口元に
なんともいえない人懐っこさを湛えているの
です。先生の方から先に私たち学生に、なに
やかや話しかけてくださったこともありまし
た。
そういう先生をめぐって、
「ねえ、毛利先生のとこ、また散らかり放題
になっているよ」
「そう。じゃ、そろそろ片付けないといけな
いね」
同期の女子学生たちがこんなふうに言い合
っているのを、何度か聞いた覚えがあります。
研究室のことなのです。片付けられない人だ
ったのかもしれません。もしかしたら、片付
けるという言葉が禅者の先生の辞書にはなか
ったのかも(先生、すみません)。そう思う
のは、ひょっとすると禅にはゴミという概念
がないのではないかと思うからなんですが。
(つまり、ゴミとゴミでないものとの区別、
要不要の区別が禅にはないのではないかとい
うことです。)
「ーーほんとにあそこって、せっかく綺麗に
してあげても、またじきにしっちゃかめっち
ゃかになっちゃうわね」
そうこぼす女子たちの声には、でも、面倒
くさいね、といった愚痴めいた色は薄く、な
んとなくはずんだような感じさえあると、私
には聞こえていました。そこがとても不思議
でしたが、毛利先生とはそういう存在だった
のでしょう。
さて、その先生がある日の講義で、戦時中
の日本軍による南京占領について語ったこと
がありました。昭和十二年の十二月、守備隊
の頑強な抵抗を突破してついに南京市内にな
だれ込んだ日本軍は、物品をほしいままに掠
奪し、軍に関わらない一般市民をも老若男女
の別なく殺傷、かててくわえて次々と婦女を
凌辱したというのです。
「中には七十を越えた老婆まで」
そう先生が語られた時、一部の学生の間に
失笑が起こり、それを耳にとめた先生は、
「なにが、おかしい!」
と一喝。怒髪天を衝くというのは、まさに
このことだろうという表情に変わった先生は
「帰る」と一言言い残して、教壇を降り、出
て行ってしまったのです。まだ講義の時間は
たっぷり残っていたのに。
残された学生たちの多くは、意外ななりゆ
きに言葉をなくしていましたが、私は大いに
先生に共感、
「やっぱり、いいな、禅は、いい」
と胸の中でつぶやいていました。
当時は、ベトナム戦争のさなか。でも私た
ちの多くはその戦火を遠くに眺めながら、「
平和日本」の繁栄を享受する鈍感学生。たぶ
ん先生にはそう見えていたのでしょう。そし
て南京で起きた、言語に絶する暴虐行為につ
いても笑いですませてしまうようなアホ学生
に対して、激しい一喝がつい口をついて出た
のでしょう。
ーーその先生の一喝を、実に数十年ぶりに
思い出すきっかけとなった、あるテレビ番組
がありました。今から半年くらい前になるで
しょうか、4チャンネル、日本テレビ系列の
ネットワークで深夜に放送された、南京虐殺
を取り上げたドキュメンタリーなのです。
その番組の中で、南京から無事帰還した兵
士たちによって明らかにされたのはどういう
ことだったかというと、捕虜となった地元の
人々を日本軍が長江の河畔に千人単位で集め
ては、物陰に隠し置いた機関銃数台を乱射し
たという事実だったのです。長江の水は真っ
赤に染まり、沈んだ死体によって流れがせき
止められるほどすさまじい状態だったという
のです。
それを実行したのは、会津の連隊だったと
いうことでした。隊の上官たちは帰還しても
死ぬまで口をつぐみとおしたようなのですが、
現場でみずからの手を汚して殺戮をになった
兵隊たちが証言を残し、それが戦後七十年以
上たった最近になって、ドキュメンタリーと
して放送されたということなのです。
証言をした人々にとっても、口を開くまで
には、おそらく長い年月が必要だったのでし
ょう。もし私が彼らの立場だったら、たぶん
胸にしまったまま、墓に入ったことでしょう。
彼らにあえて口を開かせ後世に残させたも
のは、なんだったのでしょう。たぶんそれこ
そ、戦後日本が営々として積み上げてきた人
間としての根本的、普遍的な価値観ではなか
ったかと、私には思えるのです。
戦争とその混乱の中での出来事。あったこ
とは、あったことです。あってはならなかっ
たことが、あったのです。現場にいた兵士と
して、ひとりの人間として、それはどうして
も語り残さなければならなかったのでしょう。
そう、人類史に投げかけなければならなかっ
た「事実」だったのでしょう。
〈参考〉
文中の毛利先生は、富山大学文理学部
助教授(当時)の毛利勉先生である。
先生は石川県河北郡七塚町(現かほく
市)出身。中国文学、中国史等を教えた。
また当時、先生の研究室で、先生から
「竹林の七賢」や「犬のディオゲネス」、
「フリュネ」の話をしてもらった学生も
いた。
当講座NO.65の酒井與郎さんの記事も
併せて参照していただきたい。