時代を予見する力
【2021年4月10日配信 NO.159】
田中正造、石川啄木、鶴彬の底流に流れているもの
岩手県盛岡市 宇部 功
はじめに
2020年の8月の末に金沢出版社から、
「正造、啄木、彬」の底流で流れているもの
について、分かりやすい文章で書いてほしい
という依頼があった。冬の間になんとかした
いと思っていたが、コロナやその他のことが
あり、春になってしまった。
私の持っている資料等からテーマについて
私見を述べてみたい。
〈1〉田中正造と岩手について
田中正造は以前、小学校の国語教科書で、
6年生で指導したことがあった。天皇直訴の
場面を中心に指導した。社会科の教科書にも
足尾銅山の鉱毒問題を中心に顔写真入りで掲
載されていた。
1982年(昭和57)の夏に、田中正造
全集を読み、びっくりした。正造と岩手は深
いつながりがあることが分かった。衝撃を受
けたことを思い出す。
1841年(天保12)下野国安蘇郡小中
村(現栃木県佐野市小中町)に生まれる。
1870年(明治3)3月3日、28歳の
ときに早川信斎に同行して、江刺県(現在の
岩手県遠野市)に至る。
3月19日江刺県附属補に任命。
3月22日史記局手伝いを命ぜられ、花輪
分局勤務(江刺県の飛び地、現秋田県鹿角市
花輪)。
1871年(明治4)6月10日上役暗殺
容疑で逮捕され、拷問の後、身に覚えのない
罪で、手かせ足かせのうえに七時雨(ななし
ぐれ)の峠を唐丸籠(とうまるかご)で越え、
遠野の獄へ送られた。
うしろ手を負はせられつつ七時雨
しぐれの涙掩(お)ふそでもなし
(正造)
6月28日盛岡の獄に移される。
獄中のくらしについて以下のように記され
ている。算盤(そろばん)責めの拷問や越冬
は大変だった。特に冬は凍死者千人もあった。
赤痢で死んだ者の衣服で正造は寒気をしのい
だ。正造は獄中で、さまざまな新しい思想の
本をむさぼり読んだ。なかでも福澤諭吉の「
学問のすゝめ」は、はげしく正造の心をゆさ
ぶった。ほかに経済学の書を読んだ。
1875年(明治8)無罪になって出獄、
帰郷するにあたり遠野の早川信斎の墓に詣で
ている。
小中村に帰郷して大活躍した背景には岩手
での読書が大きな力になっていると思う。
足尾銅山の鉱毒問題は、やがて1901年
(明治34)の天皇直訴という結末になって
いく。
1913年(大正2)正造死去(71歳)。
〈2〉田中正造と石川啄木について
石川啄木が正造の天皇直訴の新聞記事を見
て、感動して仲間と一緒に行動を起こした。
啄木が盛岡中学(現在盛岡一高)のときに、
新聞の号外(八甲田遭難について)を冬の町
で売って、益金を盛岡の教会を通して正造に
送っている。そうした縁で惣宗寺(佐野市)
にある田中正造の墓域の前に啄木の歌碑があ
る。
夕川に葦は枯れたり
血にまどう民の叫びの
など悲しきや
(啄木)
石川啄木の人生には、暗いイメージがある
と言われている。父石川一禎が、家族の生活
の面倒をみる家長としての責任を放棄したこ
とから始まる。浪費癖もあり、計画性がない
啄木は、青春の挫折から出発して、家族の責
任も負うことになった。母親カツは結核に感
染し、妻節子も感染し、啄木も感染する。結
核と判明したのは彼の死の半年ほど前であっ
た。三人そろって始終病気がちであった。そ
のうえ節子とカツとの間は嫁姑問題があった。
啄木は両者とも愛して、二人の間をどうす
ることもできず、ただ立ちすくんでいるばか
りであった。啄木にとっては家庭は暗く深い
穴のような場所であった。
「ローマ字日記」
に、啄木の不満が書かれている。夫婦制度、
家族制度の矛盾について、啄木は自由で互い
に束縛されない人間関係を夢みていたが、そ
れが実現できない夢にすぎないことも彼は理
解していた。
人という人のこころに一人づつ
囚人がゐてうめくかなしさ
(啄木)
啄木の三行詩、ふるさと志向の短歌に魅力
を感じ、ファンとなった鶴彬は中学校の頃に
は啄木の短歌を暗唱していた。
啄木を兄のように慕っていたと言われてい
る。川柳家になった鶴彬は啄木について評論
も書いている。
〈3〉鶴彬の句の予見性について
エノケンの笑いにつゞく暗い明日
(昭和12.5.1『火華』26号掲載)
国家的に戦争へ向かう日本の時代背景と、
その先行きの暗さの中で表面的笑いにガス抜
きを求めざるをえない世相を反映し、さらに
は、「暗い明日」と予見的なものの捉え方を
している。
これに先立つ1924年(大正13)の鶴
彬15歳の作品には、「子供等の遊びへ暗影
迫りくる」(『北國新聞』夕刊「北國柳壇」
11.4)というものがあり、さらには「きっと
踏みにじられる日をおそれる判決の重さ」と
いう自らの運命を予見したような作品(昭和
9年10月1日『川柳人』264号)さえ見られる。
優れた時事作家の要素を持っていたといえる。
時代を見詰め、社会を見詰め、自分を見詰め
ることから引き出されるコトバだったと思わ
れる。
手と足をもいだ丸太にしてかへし
(昭和12年11月15日『川柳人』281号)
川柳の寸鉄性が言論の武器にもなった代表
的な句である。
盛岡市松園の観音墓地に鶴彬の句碑があっ
た1982年(昭和57)頃、私も松園小学
校に勤務していた時で、川柳の見方、考え方
が大きく変化した。
鶴彬の句を小学校高学年で、授業で実践し
てみた。授業後に400字の感想文を書いても
らった。その文の中で、鶴彬の句のすごさを
改めて知ることになった。あれから35年、
中学校、一般人を対象にしての実践もやって
いる。鶴彬の句から多くの感動をいただいて
いる。
〈4〉田中正造、石川啄木、鶴彬の未来性
田中正造が国会で鉱毒問題を追及してから
75年ぶりの1966年(昭和41)に国会
でやっと審議された。その後日本は、公害列
島へと変容していく。今日も水俣病は解決し
ていない。
石川啄木は夫婦問題の矛盾について、自
由で束縛されない人間関係を夢みていた。
今日、国会では夫婦別姓が問題になってい
る。
鶴彬は戦争や言論の自由について予見して
きている。
三人に共通して、底流に流れていることは、
「時代を予見する力」であることである。
それは「未来」をしっかり見詰めていると
言えよう。
啄木は「明日を信ずる」若者のためになく
てはならぬ存在であり、世代の若返りばかり
でなく文芸と文化の若返りという大きな課題
こそ啄木が時代に突きつけている目標なのだ。
私にとっても三人には、それぞれ出会いが
あり、今までの人生の指針ともなっている。
正造には教科書を通して、七時雨の峠は、
20回以上峠を通って、感慨深いものがある。
啄木が青少年期に育った盛岡は自宅からも
近く、なつかしさがこみあげてくる。
鶴彬は授業を通して、学ぶことが多くあっ
た。石川県かほく市との交流も6年くらい続
いている。
おわりに
この1月に90歳で半藤一利さんが亡くな
った。昭和史や戦争の「語り部」だった。
歴史の教訓から、どう生きるかを学ぶこと
が大切であると言っていた。「絶対」という
ことを否定してきた。安全神話などありえな
い。しかし、半藤さんは「戦争だけは絶対あ
ってはいけない」と語っている。
これからは国民がどんな国にするかを考え
て外に向かって発言することがより大切であ
ろう。そのことを三人は予見して、それぞれ
の生き方を通して実践してきたすごい人たち
だと思うこの頃である。
【参考図書】
*たたかいの人 田中正造 (児童書・絵本)
大石 真(著) フレーベル館(2007)
*田中正造選集1 民権への道
岩波書店(2013)
*田中正造選集2 民党政治家として
岩波書店(2013)
*啄木日記 公刊過程の真相
長浜 功(著) 社会評論社(2013)
*石川啄木論
中村 稔(著) 青土社(2017)
*田中正造と足尾鉱毒事件を歩く
布川 了(文)
堀内 洋助(写真) 随想舎(2009)
*鶴彬の川柳と叫び
尾藤 一泉(著)新葉館出版(2009)
*鶴彬全集
一叩人(編) たいまつ社(1977)
増補改訂版 復刻責任者 澤地久枝(1998)
*鶴彬の軌跡
岡田 一と(著) 文芸集団(1981)
〈参考〉
うべ いさお
「いわて子ども川柳を育てる会」会長
元小学校教師
鶴彬の川柳を学校の授業で教え続け、
退職後も全国の学校で、鶴彬を題材
とした平和授業「特別授業・鶴彬と
平和を考える」を長年続けている。
宇部功さんのお話の動画
第40回鶴彬・井上剣花坊祭にて
2016.9.17 於盛岡市
テーマ:「鶴彬の反戦川柳」
鶴彬 鶴彬全川柳 - 青空文庫
〈追記〉
当講座 NO.15と 190の記事も
併せて参照していただきたい。