斎藤静校長の気骨
【2020年11月11日配信 NO.65】
酒井 與郎
後の祭り
昭和十三年一月十六日という日は、わが国
今次の大戦にとっても、私たち戦中派にとっ
ても、絶対忘れることのできない日である。
それは、
「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手ト
セス帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権
ノ成立発展ヲ期待シ……」
とする第一次近衛声明の出た日だからであ
る。日中戦争の戦火は北支(現在の華北)へ
と拡大し、その展望がはっきりしないまま、
戦争相手国(中華民国=国民政府)を今後相
手にしないというのだから大変なことである。
昭和十一年二月二十六日におきたいわゆる
二・二六事件以後、軍部や右翼の政治的発言
力は、日に日に強くなり、歴代内閣も次第に
これに引きずりこまれていったのだから、時
代の流れというものは恐ろしいものである。
そしてさらに困ったことには、明日への健全
な道しるべたるべき新聞までもが、これに同
調したのだから、まさしく当時の日本は「暗
夜」だったといっても、決して過言でない。
戦争を謳歌する者は忠義・愛国の士、これに
反対する者は不忠・非国民、というのだから
恐ろしい世の中である。
これはかつて、初代海軍卿・勝海舟が「忠
義の士が国を滅ぼす」と言った言葉通り、当
時の日本国民があまりにも忠義の士であり?
愛国の士であった?がために、わが国を敗戦
へ敗戦へと追いやったことになるのである。
そして日中戦争が全面戦争に発展したのは、
昭和十二年七月七日におきた盧溝橋事件であ
る。
同年十二月十二日には中国の首都「南京」
を占領するまでに、事件は拡大したのである。
そして、これが後ほど「南京大虐殺」として
問題になるのであるが、史家は、「虐殺・強
姦・略奪・放火等、未曽有の虐殺行為を繰り
広げ、中国軍民二十数万を死へ追いやった」
と記録している。
わが郷土連隊もこの戦いに参加したが、特
に脇坂部隊の「南京光華門一番乗り」は有名
である。また、それだけに戦死者数も思いの
ほか多く、戦争悲話があちこちで聞かれたの
である。脇坂次郎部隊長は、その後これら多
くの霊を慰めるべく光華門の土を持ち帰り、
これにて観音像を作って、曹洞宗大本山永平
寺に納め、「光華観音」として永代供養する
ことにした、ということは永平寺を訪れた人
なら誰もが知っている話である。
日本軍が首都南京を占領したという戦勝気
分が全国にみなぎり、和平工作が一方で進め
られているにもかかわらず、政府や軍の内部
には強硬意見をはく者が多く、また日本政府
の提示した和平条件があまりにも厳しすぎた
ため、とうてい中国政府の受けいれられるも
のではなかった。
そのうち日本政府は和平打ち切りを決定し、
昭和十三年一月十六日、
「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス」と
の冒頭の声明が出されたのである。
これが、日中戦争が長期化・泥沼化する直
接の原因であるが、「勝ってオゴル」という
ことほど恐ろしいものはない。もしここで日
本政府に、軍に、戦争を和平へと転ずる叡智
があったとしたら、日本の敗戦もなかったで
あろうし、軍人軍属二百三十万人の死・一般
国民八十万人の死傷・九百万人の被災・三百
万戸の焼失はなかったろうにと思うのである
が、これはまさしく「後の祭り」である。
英語は学ぶ必要なし
日中戦争が全面戦争に発展した昭和十二年
は、ちょうど私は中学三年生であったが、こ
こで当時の軍の全く馬鹿げた言動を紹介して
おきたいと思う。
当時の中学で最も大事な課目(それは上級
学校の入試科目でもあった。)は、英語、数
学(代数・幾何)、国漢(現代文・古文・文
法・漢文)、理科(植物・動物・物理・化学)、
歴史(日本史・東洋史・西洋史)であり、な
かでも英語は特に重要な課目として位置づけ
られていた。
ところがある日、現役の陸軍少将が、中学
の全職員・生徒を前にして「英語は敵性語だ
から勉強する必要なし」と講演したのである。
当時の男子中等学校以上には、現役の陸軍
将校が、陸軍から派遣されていて(階級は大
尉から大佐級で、一般に配属将校と呼ばれて
いた。)、生徒・学生に、一年から必須教科
として軍事教練を教えていたが、毎年秋にな
ると、その成果をたしかめる陸軍の査閲(さ
えつ)というものがあった。これは当時学校
にとっては一大行事で、もしこの査閲で成績
が悪いと講評されようものなら、大変なこと
であった。通常は軍から大佐が査閲官として
二、三人の随員をつれてくるのであるが、ど
うしたことかその年は、陸軍少将の査閲官が
来たのである。
今ここで、いとも簡単に陸軍少将というが、
この階級は実に大変な位であった。当時福井
県には、鯖江・敦賀の二ヶ所にいずれも歩兵
連隊があったが、その連隊長は大佐である。
一個連隊四千人以上もいる連隊の長が大佐で
あるから、少将という位がどんなものか、お
よそ想像がつくというものである。
当時私が通っていた福井県立大野中学校は、
一学年二クラス(一クラス定員五十人)で、
一年から五年までで生徒数は四百人ちょっと
であった。この学校の教練の査閲に、陸軍少
将が来たのだから大変である。私たちが、気
合も新たに大いに張り切ってやったのは当然
である。
査閲官は、私たちのキビキビした動作と真
剣さを、まずほめあげた。そして、これなら
戦争の将来は大丈夫だ、と断言した。これで
おけばよいのに、少将は、
「英語は、敵性語である! 勉強する必要な
し!!」
とやったものである。これには先生も生徒
も驚いてしまった。それというのは当時の大
野中学校校長は、研究社の『大英和辞典』の
著者として有名な英語界の大御所・斎藤静校
長だったからである。
当時、中学校の校長には、いろんな意味に
おいて名物校長があちこちにいたようだが、
斎藤校長もその一人であった。斎藤校長は苦
学力行の人で、とにかく大変な勉強家であっ
た。当時中学生は一応町のエリート?だった
が、校長は、この中学生をつかまえて「この
ドタワケ」「このボンクラ」「このドビャク
ショ」と言うのが常だった。もしこれが、普
通の先生だったら大変なことになるのだが、
斎藤校長だけは別だった。校長に何を言われ
ても、「校長は別なんだ」と、とにかく別格
扱いである。
査閲官がこの間の事情を知っていて「英語
不要論」をぶちあげたのかどうか全く不明だ
が、とにかく大変なことを言ったものである。
校長は、査閲官が帰るやいなや、全校生徒
の緊急召集をかけた。そして、現在日本がい
かなる立場にあるかをまず説き、そして何回
も海外に出た見聞から、日本がいかに技術力
において劣っているかを例をあげて力説した。
また、中学で教える英語は、勉強のための英
語ではない、海外から優れたものを学ぶため
の英語だ、と大風呂敷を広げて生徒にハッパ
をかけた。そして査閲官を「あのバカが」と
か、「あのドタワケが」と口を極めてののし
ったのである。最後に校長は、
「今こそ頭を冷やして、静かに勉強するのだ
!!」
と、その訓話を締めくくった。
校長の言うことはともかく、英語を勉強し
なければ上級学校に入学できないのだから、
私たちは今まで通り英語学習に精を出した。
しかし、世の中の現実は、査閲官の言った
通りになるのだから、当時の日本は、完全な
軍主導型の敗戦街道を一直線に進んでいたと
言えよう。
敗戦を経て、時移って昭和五十九年春、中
曽根首相は「学校教育の改革」を声高高と叫
び出したのであるが、私はこれを聞いて、不
吉な予感で背筋がゾーッとした。中学時代の
少将を思い出したのかもしれない。しかし、
それはさておき、時の権力者が教育に口を出
して、いいことが一度としてあったかどうか
である。私の小・中学校で受けた教育は、国
にだまされた教育だった、と前回に書いたが、
昨今の教育の変質もまた「いつか来た道」を
あゆみつつあるように思えてならない。
社会科教科書の現在の混乱ぶりはどうであ
ろうか。政府が、政治家が、学者が、どう叫
ぼうと、どう語ろうと、日中戦争は日本の中
国侵略であったことは間違いない事実である。
そして、そこでは国土の蹂躙、家屋の破壊と
放火、中国人に対する虐殺と強姦、略奪が、
八年間の長きにわたり、日本軍の手によって
繰り広げられていたのである。これが侵略で
なくして何であろう。しかし、これとて中曽
根首相の語り口によれば「それは大東亜共栄
圏確立のため、やむを得なかったのである」
ということになりかねないのである。「権力
者が、教育に口を出すほど危険なものはない」
と、私は再度強調したいと思う。
そしてまた、世の親や一部の学校教師まで
が、政府のこの首唱に同調する様を見て「い
ったい歴史は何のために存在するのか」と、
私は反問しないわけにはいかない。親が子供
の出世を願うことは、決して悪いことではな
い。しかし、それとて平和があっての話であ
る。子供を塾にまでやって、その出世を願っ
ている間に、いつのまにか徴兵制になってい
たとするならどうするのか、と思う。
日中戦争長期化へ
「爾後国民政府ヲ対手トセス」と声明を出
したことにより、日本政府は、戦中を和平に
転ずる道を自ら閉ざしたことになるのである
が、近衛首相は「惟(おも)うに事変の前途
は遼遠であります。これが解決は、長期にわ
たることを覚悟せねばならぬ」と説くのであ
る。これはまさしく戦争終結への無展望を語
って充分と言うべきであるが、およそ展望の
ない政治というものがあるのだろうか。何と
もやるせない時代であった。かくして日中戦
争は、さらに長期化へと進むのである。
一方、世界の情勢は、中国の国民政府支援
へと足並みをそろえるようになるのであるが、
わが国はこれとは逆に、昭和十三年七月には
ソ連と張鼓峰事件を、さらに昭和十四年五月
にはノモンハン事件を引きおこすのである。
そして昭和十六年十二月八日には、ついに日
米戦争へと突入するのである。
これはどう考えても、まともな国のやるこ
とではないが、当時の政府は、必然的な国力
の弱小を知りながらも、悪魔に魅入られたよ
うに、大戦争への道を選ぶのである。ここに
私は、「戦争というものの業の怖ろしさ」を
痛切に感じられてならない。
和平への拒否声明による日中戦争の泥沼化、
日米戦争への突入、そして世界を敵とし敗戦
への道を急ぐ日本、その時ちょうど私は、徴
兵適齢期であった。
小社発行・『北陸の燈』第3号より
第1回・第19回「現代の声」講座提言者
第1回テーマ:不戦への提言
第19回テーマ:差別の構造と歴史
当講座のNO.3にも酒井與郎さんの記事掲載