小説『金澤夜景』(2)
【2021年12月18日配信 NO.213】
小説『金澤夜景』
第二篇 金沢夜景
作家 広瀬 心二郎
金沢の中心街から見ると駅をはさんだ裏
側、香林坊あたりのにぎわいとは比べよう
もないが、それでも路地に幾つか赤提灯が
並び、そこそこの雰囲気を醸し出す一角で、
麻は着物姿にタスキをかけて、暖簾を出し
ているところだった。袖がまくれて、五十
を過ぎた今でも艶のある白い腕が露わにな
っている。
ここが行き止まり。
夕映える空を仰ぎながら、暖簾を掲げる
このひとときに、そんな感慨を抱くのが毎
日のならいとなっている。二十数年前、友
を頼ってこの土地に来て馴れない水商売に
飛び込み、幾つか店を移った。泥をかぶり
ドブを這いまわるようにして食いつないで
きた。
海辺近くの、いささかいかがわしいよう
な一杯飲み屋を手伝っていた頃には、やは
りこうして暖簾を出しながら、空を舞うカ
モメに向かって、そこから見たらあたしみ
たいな女はおかしかろうね、と話しかけて
いた自分の姿を思い出す。
ようやく自分の店をもてた。よくも悪く
も、ここが行き止まりなのだと、心に語り
かけているのである。
「おはよう」
背中に声をかけられ、振り向くと常連の
伊三さんがビニール袋を手にして立ってい
る。
「ちょっといいがが手にはいったから」
「いつも、悪いねえ」
袋の中身は、タラである。伊三さん自身
は工場の勤めが還暦を過ぎても続いている
が、実家が漁師をしている関係で、ときお
り、こうして差し入れをしてくれる。のみ
ならず、ことあるごとに何かと世話をやい
てくれる。この店もその口利きで借りるこ
とになった。口さがない客の中には、麻に
対して下心があるのだろうと陰で噂してい
る者もいるようだが、麻の夫の信行、信さ
んと古くからの昵懇の仲なのであり、それ
以上のことはこれっぽっちもない。
「ねえ、いささん。だいぶ遠くまできてし
もた、なんて思うことってないけ」
「あんね。そんな時に思いつく言葉もある」
「なんや」
「ならず者。とうとう一丁前になれなかっ
た男」
「はは。で、とどのつまりが飲んだくれ」
「ああ。飲み屋のカウンターで歳とってく
ってわけや」
店の入り口には、客それぞれの風が吹く。
生きるのに疲れきったような客が暗い視線
を流しながら入ってくる時には、木枯らし
をいっしょに連れてきたりする。逆に伊三
さんなどはいつも春風といっしょだった。
小柄な体が、今夜も遊びまっせ、と弾むよ
うに入り口に立っただけで、雰囲気が一気
に明るくなる。
そのはずで、若い頃には大阪で流しを家
業にしていた人である。店の花見や忘年会
などには、使い込んだ相棒のギターを抱い
てきて、なまで伴奏をしてくれるのだ。流
しの頃の伊三郎という名は芸名で、ずいぶ
ん堅苦しい本名があるのだが、そちらのほ
うは麻は忘れてしまっている。
カウンターの端のいつもの席に掛けた伊
三さんに一杯出して、差し入れの魚をさば
きはじめると、店の電話が鳴った。麻が出
たが、何も言わない。何度か呼びかけてい
るうちに、かちゃりと切れてしまう。
「なんや、無言電話かいね」
「うん、このごろ、週になんどか」
「ほおん。だれやろ。客でだれか麻ちゃん
に気がありそうなもんっておるかね」
「……あたしの子どもやないかって思うん
やけど」
「ああ」
富山に別れた前の夫がいる。そこに、上
は女、下は男のふたりの子を置いてきてい
た。
このところ、麻はそろそろ女として終わ
りになりそうな気配を感じている。月のも
のが来たり来なかったり。のぼせが来て、
寝汗をかいたり、眩暈がしたり。
置いてきた子を思うのは毎日のことで、
ときおりそれゆえの鬱がひどくなる。そこ
に更年期の不調が重なって、目の下に隈を
こしらえた顔で店に出ていると、伊三さん
が心配して声をかけてきた。ふた月ほど前
だ。ほかの客が引いたあとで麻もいささか
酔いがまわっていて、めったに口にしない
心の懊悩を打ち明けた。
店から五分ほどの、麻たち夫婦が暮らす
マンション、といっても狭いアパートのよ
うなところだが、その押し入れに信さんが
後生大事にしている本がダンボール箱に五
つ、ぎっしりと詰めて置いてある。学生時
代からの宝物なのだという。たいていはも
う紙の色が変わってしまった文庫本である。
麻も小説が好きで、まとまった時間があく
とそのダンボールをあさってみたりする。
その中の、吉川英治の短編集に、「下頭
橋由来」という作品があった。無論時代物
である。江戸は巣鴨に近いある村の、石神
井川にかかる橋の下に若い物乞いが住み着
いた。人が通りかかると振り仰いで、ビタ
銭でも投げてやると一心に頭を下げて礼を
する。悪ガキどもが馬鹿にして橋の上から
小便をかけたりしても、ただにやにやと笑
っている。さりかといって、どうも根っか
らの物乞いでもない様子だった。体も満足
なら顔立ちも人並みである。川に落ちた子
供を助けたりもして、いつしか村人に愛さ
れるようになっていった。ところがある日、
ひとりの侍が橋を通りかかり、物乞いの正
体を見抜いて腰のものを抜き放って追いか
けた。侍は小田原の人で、物乞いは侍の妹
と恋仲になり出奔、妹を取り戻しに行った
侍の弟を切ってしまい、妹は非を悔いて自
害したのだという。村人が物乞いをかくま
い、なんとか逃がそうと画策するのだが、
とうとう侍に切られてしまう。男の住んで
いた小屋を片づけてみると、それまでに投
げ与えられたビタ銭を一枚も使わなかった
ように残してあり、それを入れた袋には「
下頭億万遍一罪消業」と見事な書体でした
ためてあった。つまり、男は物乞いとなっ
て人々に頭を下げつづけることで、おのが
罪を贖うつもりでいたのだった。
「その下頭億万遍一罪消業というのが、あ
たしの気持ちなんよね。前のだんなと、大
人どうしは別れてしまえばそれですんだけ
れど、いたいけな子どもたちをおいて家を
でてきたのは、やっぱまちがいやったなあ
って」
伊三さんは頭を下げて、煙草の灰を叩く
のも忘れて聞いていたが、
「いま、どうしとっか、わからんがかね。
麻ちゃんの親戚で様子を知らせてくれる人
とかは」
「いとこがおって気にかけてはくれてたん
やけど、子どもたちの様子とかは、なんも」
「ほんならな、弁護士に知りあいがおるか
ら、頼んでみっるよ。そこらのやくざな興
信所なんかより、よっぽどあてになっから」
伊三さんが言ってくれて、それから十日
ほどのちに、住民票の写しが麻の手に入り、
麻は思案の末、子供たちに手紙を出してい
た。前夫は再婚しており、娘の美沙は富山
市内にひとり暮らし、弟の賢一は名古屋に
出て運送会社の寮に入っている。今更母親
面ができるはずもなく、会いたいなどとは
書かなかった。ただ、下頭億万遍の詫びの
つもりだったが、それでほんのすこし、積
年の心の痛みが薄らぐような思いはあった。
(つづく)
〈参考〉
『金澤夜景』第一篇「箸の先」は、
当講座記事NO.69にあります。
また、当講座のNO.70の記事には、
同書の「推薦の言葉」があります。