215. 小説『金澤夜景』(4)
【2021年12月20日配信 NO.215】
小説『金澤夜景』
第二篇 金沢夜景(前回のつづき)
広瀬 心二郎
湯ぶねの中で麻はずいぶん長い時間、ぼ
うっとしていた。お湯で流しても流しても
溢れてくるものがある。二十何年か前も同
じだった。きっかけは忘れてしまったが、
ひどい喧嘩の果てに、前夫はすぐに出てい
けと言う。酒の勢いで、自分の言葉に興奮
してなお言い募る。そのあとにいつも待っ
ているのは、暴力でしかない。何度も同じ
ことを繰り返してきたふたりだったから、
負けずに言い返す麻ももう女ではなく、黒
光りするハガネの心そのものとなっていた。
すべてを捨てる気になった。
家を出て、あれはどこかの安旅館の風呂
の中で声をあげておいおい泣いた。布団に
入ってしばらくして、子供のことを思うと、
頭の中で脳味噌が妙な感じになった。なん
だか頭に手を突っ込まれて、掻きまわされ
る、いや、脳味噌が布団をたたむように折
り重ねられるような感じである。気が狂う、
と思った。あの時は、酒の力を借りてよう
やくおさまっていた。
目を赤くしたまま寝室に入ると、信さん
はまだ寝ておらず、布団の中で文庫本を広
げている。そうか、明日は日曜だったと気
がついている。
鏡台に向かって顔にクリームを塗ってい
ると、信さんが鏡の中から、
「娘さん、なんて」
「………きてくれるって、この次の土曜」
「そうか、そりゃよかった」
「うん。その時いっしょに金沢の駅いって
もらえるかね。来週は休みになりそうかね」
「ああ。休める。でも、おれみたいもんが
顔だしてもいいんかな」
「子どもにも手紙で知らせてあっから。信
さんのことは」
「そうか。………ときどき、おまえが朝の支
度なんかをしとる時にね、この姿はもとも
と子どもたちのためにあったはずやな、な
んて思ったことがある。それにおまえ、夜
中に、よく、つらそうな寝言いってたな」
「えっ、あたし、寝言なんかを」
「うん。寝言っていうより、泣き声かね。
夜中にせつなそうに声をあげるんや」
布団に入ると、信さんが腕を伸ばして髪
を撫でてくれる。
信さんとは以前手伝っていた店で知り合
った。もう生きていない人のような感じだ
った。体の中に深い悲しみがあって、世の
中から一歩はみ出してしまっていて、そこ
が自分の場所と決めているような感じだっ
た。
「なんだか、こわい気も」
「そうか」
「あたしんなかじゃ、あの子たたちは昔の
まんまなんよ。小さいころの姿のまんま。
こんな母親でもちょっと様子がいかったか
ら、自慢やったようやし。いまのあたしは
このとおりにあばずれてしまって。…………
あたしを見て、あの子、どう思うかね」
罪、という言葉がある。ずっと、その言
葉の海の中をゆらゆら漂ってきた気がする。
もし子供が、母親がいないことでぐれてい
たら、あるいは人生を悲観して死を思うよ
うになっていたら。そんなことばかり考え
てきた。
麻は、幾つか流れ歩いた店で客と寝たこ
ともある。金も絡んでいたが、金だけでな
く、女にはそんな時がどうしようもなく、
あるのだった。麻の中の幼いままの子供た
ちの視線が、そういう麻の過去を刺してく
る。
その日は、店を休んだ。常連さんには、
前もって伝え、有り体に訳も話しておいた。
この時期の北陸には珍しい、小春日和に
なった。信さんとふたりでコートを車に置
いて金沢駅の改札口に十五分ほど早めから
待っている麻の体の芯に、しかし震えるよ
うな寒さがある。
不安なのだった。娘がどう変わっている
か、その目にどう自分が映るか、そしてそ
れ以上に、再会することじたいが結局苦い
ものになってしまうのではないか、という
不安。
下頭億万遍。もし娘が望むなら、この駅
の人込みの中で土下座してもいいつもりで
来ていた。
化粧も身なりも、いつもよりずっと地味
にこしらえてきている。電車が入ってきた。
目を凝らす。手紙には、目印に緑色のビニ
ールの袋を提げて行くとあったが、目印は
必要なかった。改札口を抜けてくる人々の
群れの中に、ひと目でそれとわかる、すら
りと背の高い若い娘の姿があった。その顔
立ちが、自分の若い頃そのままを見るよう
だった。
美沙は、麻たちに気がつくと実におおら
かな笑みを浮かべて手を上げ、
「ハーイ」
アメリカのテレビドラマに出てくる若い
恋人たちが、朝ごとの挨拶を投げ合うよう
な感じで言った。かたかな言葉としか麻に
は思えなかった。金縛りにあったようにす
くんで、ようやくぎこちなく手を上げ返し
ていた。
若い女というものをもし一筆書きに一気
に書いたら、こうだろう。娘はそう思わせ
る様子で目の前に立っている。柔らかな、
ほどよく肉のついたすらりとした肢体、そ
して明るくしっかり前を見ている、そんな
気のする広やかな顔。
溢れてくるものをそのままに立ち尽くし
ている麻に、通り過ぎる人たちがちらちら
と視線を投げていく。
「おかあちゃん」
美沙は信さんにも頭を軽く下げて、ハン
カチを取り出して麻に手渡した。
「ありがと」
答えるのが精いっぱいだった。
海沿いに、店の仕入れをしているところ
があって、そこに寄って帰ることにする。
信さんのぽんこつ軽自動車の座席で揺ら
れながら、手を重ねてふたりとも黙ったま
まだった。金沢港が見えると、美沙が小さ
く声をあげる。
「ああ、海がきれい」
夕日がそろそろ水平線にかかろうとして、
きらめく波光が目を射た。
「ちょっと、海、見ていかん」
そう言うと、美沙もまだほぐれきらない
気持ちを頬の硬さににじませて、うなずい
た。波止場で車を降りる。信さんはふたり
からすこし離れ、煙草をくゆらせていた。
沖のほうから波がふくらみ沈み波止場に
打ち寄せ、また返していく。同じことを繰
り返しながら、波はひとときも同じ姿にな
ることはないのではないかと思う。想像も
つかない昔から海はこうしてきたのだ。そ
う思うと、小さな人間の存在を超えるもの
が体を包んでくれる気がする。海と話をし
に来るのが麻は好きだった。
「あたしね、一日じゅう、こうやって海を
見とっても飽きんがよ」
「ああ、昔そんなこと、おかあちゃんいっ
とったん聞いたよな覚えあるっちゃ。なん
どか岩瀬浜のほうに連れてってもらったね」
その浜へは富山の市街から旧国鉄の電車
が通っていた。最近ではスマートな路面電
車に切り替えられたらしい。
同じ海をふたりで見詰めながら、何かま
だちぐはぐで、ぎこちなかった。今日の自
分が一番怖かったのは、このことだったと
気がついている。やはり遠かった。埋めら
れない距離があった。それでも、娘も懸命
にこちらに踏み込んでくれようとしている
のはわかる。
何なのだろう。私がこの子なら、殺した
いほど母親を憎んだことだろう。なんでこ
んなにものわかりがいいのだろう。
「おかあちゃん、ちょっと冷えてきたね」
「うん。じゃ仕入れをしてかえろか。どこ
かでうまいもんでも、食べるかね。このさ
きに地魚のおいしい鮨屋があるけど」
「………ううん。おかあちゃんの手料理のほ
うがいいっちゃ」
ふたりして立ち上がり、信さんにも声を
かける。歩きかけて、
「美沙、おかあちゃんて、よく呼んでくれ
たがね。ありがとう」
言葉をかけつづけるんだ。そのほかに、
ふたりのあいだにある距離を埋めてくれる
ものはない。そんな気がしている。とにか
く、話つづけるんだ。
(つづく)