幼稚園児と私
【2020年9月21日配信 NO.25】
石川県金沢市 陽風園 浅井 恒子
あれからもう八年の歳月が流れた。当時私
たち夫婦は、野町の或る外科病院で入院生活
を送っていた。私の入院の原因になった右腕
の骨折はほとんど治っていたが、主人の看護
のために私はなおも病院暮らしを続けていた。
だが、そのころから私は、自分では気がつか
なんだが、脱疽の前兆として歩行困難と左足
の指の間に水虫の気配を感じて困っていた。
病院からほど近い六斗林通りに「六斗湯」
という銭湯があり、その向かいには禅寺があ
り、そこは私設幼稚園が併置されていた。
或る日の午後、私は入浴のため六斗湯へ出
かけたが、まだ開湯には間があったので禅寺
の境内の石に腰掛けて、鍵の外れるのを待っ
ていた。その時、一人の幼稚園児らしい男の
子がそばへ寄ってきて、
「おばあちゃん、百円おくれよ」
と言う。私はこの子のふてぶてしい態度に
びっくりして、少しきつい口調で、
「坊やちゃん、お母さんに言いなさい」
と言った。その坊やは、ふくれっ面をした
が、
「お母さんに言うと、おこるよ」
と言う。私はこの子に甘い顔はできぬと思
い、
「では、おばあちゃんがお母さんに言うて、
もらってあげましょう。いいでしょう」
と言うと、突然坊やは私のそばから二、三
歩離れ、
「いらないよ、このくそばばあ」
と言うが早いかどこかへ走り去って行った。
私は、肝がかっつぶれるほどびっくりした。
そして、その子の両親とその家庭を想像して
みたが、見当がつかなんだが、だいたいの察
しはついた。けれど、それは決して快いもの
ではなかった。
そんなことがあってから数日後、私は、また
六斗湯の脱衣所で湯上がりの身に着物を着てい
た。その時、三十歳くらいの婦人が赤ちゃんを
抱き、小学一年くらいの男の子を連れて入って
きた。
その婦人は、履物をちゃんと外側に向けて並
べて入ったが、直さずに入った坊やに対してた
だ一言「まこと、履物は」と注意した。
坊やは何も言わず身体をかがめて、母親の履
物に並べて揃えていた。
私は黙って見ていた。そして心のなかでは、
とても感心していた。穏やかに注意した母、お
となしく聞き入れる坊や。それがごく自然で、
この親子の家庭も私はいろいろ想像してみたが、
悪い考えは一つも浮かんでこなかった。
この親子の何でもない行為が、こんなにも他
人の考えを豊かにするものかと、私はとてもう
れしかった。思い出すだけで、ほのぼのと心が
明るくなるのを覚えて楽しい。
小社発行・『北陸の燈』第3号より