一俘虜の今後の願い
【2020年12月8日配信 NO.81】
たべもの「おしん」
新潟市 中島 孝男
私たちが来るまでは無人島であったこの島
に来て幾月経ったことであろう。電燈も何も
ないこの島で、唯一の慰めといえば、一日の
道路作業が終わって、テントの外に出て南十
字星を仰ぎながら、遠い日本のことを思いつ
づけるそんな一刻である。
英軍に身を捉われ、この島にトラックが交
差できる道路をつけろと厳命され、ほとんど
食事らしいたべものを与えられない飢餓の状
態で、何ヶ月もの道路建設がつづいた。
青年時代の足掛け八年余りをあらゆるもの
を犠牲にして、とうとう今は俘虜として、こ
んな南の島へ流転の身となってしまった。
地面に落ちた一粒の米でも拾って食べた無
人島での生活を思い出すと、今でもそれが昨
日のことのように思えて、食料が無残に捨て
られている昨今の世の中を見て、とても私に
はそれができない。
私たちが無人島に送られたのは戦争が終わ
って三ヶ月目で、その島に来るまでは野に伏
し、貨車に積め込まれた窮屈な日々を経て、
やっとたどり着いた。だが、この島も決して
安住の地ではなかった。
上陸して道なき道を斧で切り払い薙ぎ倒し
ながら、小高い丘の麓に野営をし、細い小川
の水を汲んで沸かし飲料水とした。
結局、その小川の麓がその島での私たちの
住み家となった。その日から電燈もない、お
よそ文明とは遠く遊離した原始の生活が始ま
ったのであるが、軍服や沓下の中に詰めてき
た米も数日で底をついた。
残念ながら、この島には食料となるものは
何もない。ただゴムの樹が小川の辺に数十本
にわたって生えていた。
その付近の雑草は、食べられると思われる
ものは湯掻いて試食したが、なかなか苦くて
食べられない。日本で小鳥にやっていた、あ
のハコベが何ともいえない美味だったことが、
今でも私をして畠のハコベを無残に踏みつけ
させない。
今、日本の食事情を考えるとき、このまま
では、糧道を断たれたときの混乱を思うにつ
け、はたして安易な輸入食料にのみ頼ってい
てよいのだろうかと思う。
私たちのような戦争で飢餓を経験した者、
あるいは内地で乏しい配給で食い盛りの子女
を養育した当時の父母の姿を思い出すにつけ、
目先の安穏さのみに目を奪われて、明日のこ
とを考えない世相に一矢を報いたい。
私たちの時代に生を享けた者が、筆舌に尽
くしがたい苦難を受けた者が、奇跡的に生き
残った者が、今、残したい語り伝えを、今後
ともこの『北陸の燈』へ投稿し、さらに良き
日本の成長へと希望をつなぎたい。
小社発行・『北陸の燈』第4号より
〈後記〉
敗戦によりビルマで英軍の捕虜となって
抑留された日本軍人は、国際法やジュネー
ブ条約による戦争捕虜ではなく「降伏日本
軍人」とされ、その中から「作業隊」が選
ばれ、強制労働が課せられた。
中島孝男さんはその中の一人である。
中島さんたちの処遇は凄惨を極め、英軍
の虐待、人種差別等の報復的・非人道的扱
いにより過労、疫病、栄養失調、餓死、自
殺などで多数の日本軍人捕虜が亡くなった。
この強制労働による日本軍人への労役賃
金は、日本政府が負担した。
『ビルマの竪琴』のような史実はない。
当講座 NO.5の神尾和子さんと同 NO.3の
酒井與郎さん、NO.16の西山誠一さん、NO.
66の石崎光春さんの記事も併せて参照して
いただきたい。