最後まで友情を信じて(2)
【2020年9月25日配信 NO.32】
酒井 由記子
四、家族との衝突
夏休みの後半、琵琶湖のほとりで開かれる
二十一日間の修練会に参加する直前に郷里へ
帰省した時に、とうとう、それまでひた隠し
にしてきたことすべてが、家族に知られてし
まった。そして、激しい衝突となってしまっ
た。親戚の人達も友人達も大反対をし、次々
に私を説得に来るのである。
「地上天国の実現なんて、正気で信じている
の? 親、友達を心配させておいて世界を平
和にすることなんてできるはずがない。周り
の人を不幸にしてそれが宗教なの? 政治と
結びつくのもおかしいわよ。集団結婚なんて
する気? 考えただけでゾッとするわ」
「宗教はアヘンと同じだ。これは隔離しなく
ちゃいかん。精神病院へ入れてしまえ」
「由記ちゃんの目、さかなの死んだ目じゃな
いか!」
「かわいそうに、やっかいな病にかかって」
だれに何と言われても、かえって ”この人
達を救うためにも統一協会で活動しなければ
ならない” と使命に燃えるのである。
「お願いします。修練会にいかせて!」
頼むたびに、父と母は、「どうしてわから
ないのか!」とまゆをつり上げて、私のほお
をたたき、蹴とばしてくるのである。悲鳴が
近所に聞こえないようにと家中の窓を締め切
ってから、父は平手打ちをしてくる。母は、
「あんたを殺して、私も死ぬ」と泣きわめく。
なぐられた翌日は、あざがからだ中に残って
しまう。親は大学も休学にさせ、徹底的に私
にわからせようとした。父は、
「おまえを統一協会から救うためには、全財
産を使ってでもやっていくぞ。おまえだけで
なく、たくさんの子供達も助けてみせる。い
ざとなったら文鮮明にも会いにいくぞ」
とまで言った。店の従業員の人達にも恥を
さらけ出して、
「娘を悟らせるために当分仕事のほうは身が
はいらなくなるが申し訳ない。みんなにも協
力してほしい」
と、お願いしたという。私の友人宅にも両
親はふたりででかけて行き、
「もし、うちの娘が伝道しに来ても誘われな
いでください。そして、お金を貸してほしい
と頼みに来ても、一切断わってください」
と予防線を張ったのであった。
そして大事な原理の書物も、文氏の写真も、
統一協会のきょうだい達からの手紙もすべて
取りあげられてしまった。監禁状態の中で、
窓の外でしきりに鳴くひぐらしの声が、私に
秋の訪れを告げてくれた。幾日、幾週間が過
ぎても状況は少しも変化しなかった。腰の丸
くなった祖母と受験を控えた中学生の妹の心
配そうな目は、声に出さずとも、「お姉ちゃ
ん、早くわかって!」と叫んでいた。
行き場のない思いに耐えかねて、家出を計
画して東京の統一協会をめざして夜汽車に揺
られて行ったこともあった。保護してくれた
統一協会の兄弟姉妹達は、私の後を追ってす
ぐに飛行機で迎えに来た父と叔父に、「酒井
さんは来ていませんよ。琵琶湖の修練所のほ
うに行ったんじゃないですか」とウソを言っ
て、かくまってくれた。それを信じるしかな
かった父達は、すぐそばに私がいるのも知ら
ないで羽田から小松空港にもどり、そこから
車を走らせて滋賀県にまで行った。何として
も子供を間違った宗教から救い出したい一念
であった。このままだと大変な結末を迎える
ことになるという認識が、父はだれよりも強
かったのである。
3日ばかりして私は自分から家に帰って行
った。親を理解させたうえでなければよくな
いと反省したからであった。しかし、事は容
易に運ばなかった。戦いの日々が続いた。絶
えず、親、従業員の人達の監視の中で、店の
手伝いをして精一杯働いた。外に出ることは
一切禁じられて、小遣銭も与えられない。地
上を歩けない私は、こっそり屋根に上り、頭
上に広がった青空に向かって聖歌を歌い祈っ
たりしたのであった。アメリカにいる文先生
夫妻に、
「真のお父様、お母様、どうか私の家族が原
理を賛成してくれますように」
と切に祈った。何ヶ月もの間、そこから見
おろす夕焼けが私にとって唯一の友であった。
父は、夜遅くまで本を調べ、宗教書を何十
冊もこれまでになく研究していった。そして
腰を低くして色々な人のところに相談に行き、
アドバイスをいただいたりしていた。
「どうしてカンパ活動がいけないのや。神様
のためであれば許されるのや」
と、私がわけのわからないことを言えば、
倒れるくらいにほおをたたいてきた。顔がは
れるくらいに痛かったが、父の手も同じ痛み
を覚えていることはわかっていた。
統一協会にはいったために善悪の判断がで
きなくなった私を正常に戻そうという一貫し
た姿勢を、父は決して崩さなかった。厳しい
だけの父かと思ったら、私が三島から品川の
統一協会までキセル(不正乗車)をして往復
していたことを知った時、父は頭をたれて、
膝の上の置かれた握りこぶしの上に涙をポタ
ポタと落とすのであった。それを見て、そん
なに父が泣くほど大変なことなのかと驚いた
ものであった。初めて出会った父の姿から、
これは私のしていることは統一協会の中で許
されても、社会からは絶対に許されるもので
ないことを教えられた。
いつ再び家出するかわからない私に不安を
抱いて、夜中じゅう、冷たい廊下にゴザを敷
いて私に悟られないように見張りを続けてい
たという母。人知れず肩を震わせてこぼして
いた母の涙は、父と同じく本物の愛であった。
私はしだいに自分の親にはかなわないと思っ
ていった。いったん信念を持ったら最後まで
くつがえさない父の姿勢に、私は「ガンコも
の」とつぶやきながらも、たちうちできない
ものを感じざるをえなかった。「信用」「信
頼」をモットーにしている親に、原理の教え
は通じないものであることがわかっていった。
そして、自分は原理を受け入れることができ
たが、この親に納得してもらうことはおろか、
黙認してもらうことも到底できないのだと心
の奥でよくわかっていた。
でも、「ガンコもの」の親に似て私も「意
地っぱり」であった。最後の一線だけはどう
しても譲れなかった。6千年間にわたる神様
の摂理、歴史的同時性を含めて霊の世界の存
在を説く統一協会の教えが、全くでたらめと
は思えなかった。文氏の生い立ち、六十歳に
至るまでの苦難の路程、統一協会の活躍ぶり、
兄弟姉妹達の真摯な姿なども否定することは
無理であった。
五、一つの選択
父と母は、ワラをもつかむ思いで東京のあ
る牧師さんにすがりついていった。その方は、
当時、セブンスデー・アドベンチスト教会の
四谷教会と墨東集会所を掛け持ちで牧してい
らした和賀真也牧師であった。この牧師さん
は、何年も前から統一協会のことを知り、キ
リスト教とは似ても似つかぬ偽りで固めた教
えーその結果、全国においてあまりに犠牲者
が多く生まれていることに心を痛め、身を乗
り出していかれた方であった。
和賀牧師は、統一協会員達の持っている、
そのバイタリティー、献身、勇気、親切など
を美しい価値あるものと見なし、真珠のよう
な青年達の魂を心から愛し、単なる反対・糾
弾ではなく、その核となっている教えの真偽
を問い、会員たちを救出しておられるのであ
る。そうした信念の行動の中から、『統一協
会ーその行動と論理』と題した書物まで書い
ておられた。
父の取り図らいによって、一九七九年十一
月六日の夕方四時に、津幡町のわが家の二階
において、その方と初めて出会うことになっ
たのである。私の心境を深く受けとめて柔和
に話される和賀先生の態度に、いつの間にか、
こわばっていた私の筋肉がスーッとほぐされ
ていくのであった。共にいらしたTさん(男
性)も、会ったこともない見ず知らずの私の
ことが他人事とは思えない様子で、私に語り
かけてくださった。Tさんは、なんと七年間
も統一協会で献身し、アメリカに在住してい
る文氏のもとで生活されたこともある方であ
った。そういう方まで統一協会をやめている
こと、また、和賀先生の提示される多くの統
一協会の隠された資料も、無視できないもの
ばかりであった。
「由記子さん。あなたの人生は、ご自分で選
択なさることです。ただ一つだけ言っておき
たいのは、真実を見るということを避けるの
は、真理を探求する姿勢ではないと思います。
信仰は聞くことから始まります。どんなにつ
らくても事実を事実として受けとめることが
大切だと思います」
和賀先生の語る言葉には、落ち着いた響き
があった。私は迷わず、東京に一緒に行って
確かめてみようと決心をした。この時、この
選択を取らなかったならば、今頃私は、全く
別の人生を歩んでいたことであろう。
東京の原宿にあった、和賀先生のご家庭に
お世話になりながら、約二週間の学びを深め
ていくうちに大事なことに気づかされていっ
た。原理の教えと聖書との間に大きな食い違
いがあることを目のあたりに示され、多くの
きょうだい達がそれに気づいて脱会していっ
た事実。しかも彼らがしっかりと生き、かつ
働いていること。さらに驚くべき秘密の儀式
のことなどを示す生の資料を見た時、ただ絶
句するばかりであった。大きな衝撃であった。
不安定な心理状態の日々の中で、自分の手で
聖書を開き、自分の目で聖句を追い、自分の
頭で一つ一つを確かめていくうちに、最後に
は、統一協会をやめるという堅い決心をつい
に下したのである。自分の過ちを認めること
の何と苦しかったこと。しかし、「聖書との
本当の出会い」が、ここにあったのである。
両親の前で心から謝った時、「わかってく
れれば、それでいいんや」と、静かに語った
父の言葉は、今も忘れることができない。こ
んなにも親を苦しめてきた私を許してくれた
ーそれは、親の寛容さであり、大きな愛であ
った。
六、エクレシア会誕生
勇気と使命と真実に生まれ変わった思いで、
今度は、私は、友の救出のために全身全霊を
傾けるようになっていった。そんな歩みの中
でも特に、脱会する時に新たに知った統一協
会の素顔は、今でも克明に私の記憶に刻みつ
けられていて、決して消えない。
統一協会の人達は、泣いてすがりつく私と
ヨッチを、否応なしに引き離したのであった。
このヨッチとの別離は、私にとって、自分の
からだの一部をもぎとられたような深い傷と
なってずっと心に残っている。
私は、自分の体験が単に個人的な体験とし
て終わってはいけないと思えてならなかった。
ましてや、今も原理を正しいと純粋に信じて、
汗を流し、寒さにこごえながら、嘲笑、罵声
の中で黙々と歩んで活動している友のことを
思うと、胸がしめつけられそうになる。どう
して放っておけようか。父と母が最後まであ
きらめずに私を愛しぬいたように、私も友に
対して真実でありたい。
私は、ただひたすらペンを執り続けた。自
らもキリスト者となり、東京で和賀先生のお
手伝いをし、『統一協会ーその行動と論理』
に続く二冊目の本を生み出すため、共に不自
由な環境の中で、辛抱強く自分のこれまでの
体験を書き続けていった。
冷たいからっ風に吹かれながら、代々木公
園のベンチで書き、揺れる電車の中でも時間
を惜しんでペンを走らせた。「書く」という
ことは、孤独で、しかも忍耐を要する作業で
あった。手が冷たくなると、共に静かにただ
ペンを走らせていた和賀先生と、フリスビー
を飛ばしたり、先生の幼いお子さん達と走っ
たりするのがストーブ替わりであった。から
だが暖まるとまたペンを握りしめる。ヨッチ
との別れ、統一協会との訣別で、公園にポツ
ンと葉をすっかり落として立っている木のよ
うな私にとって、東京の雪のない冬は、北陸
の美しい冬よりも寒々と感じられた。
「くたびれたね」
「そうですね」
夕陽の傾いた頃、自転車に原稿用紙を積ん
で帰る時、そうひとこと言うだけでわかり合
えるものがあった。無邪気な子供達と手を引
く和賀先生の姿は、私の心を少しずつなごま
せていった。春は手を伸ばせば、すぐそこに
あった。
そして、一年後の一九八一年一月十五日に、
私達の長い苦労の末、『統一協会と文鮮明ー
青年達の心理を探る』(新教出版社発行)と
いう本になって出版された。ペンの足跡は、
人生の足跡となるのである。十八歳から十九
歳にかけての人生を濃縮したような生き方は、
私の生涯のひとくぎりになっていった。
その後、統一協会脱会者数名の提案によっ
て『エクレシア会』という会を結成していっ
た。この会は、現実あった実際的な経験を基
に、聖書の真理に目覚め、真のキリストを信
じた者として、誤りの中にある人々を救出し、
聖書に堅く立った信仰を伝えることを目的と
している。
私達は、文鮮明氏ではなく、自分達を迎え
てくれた真の救い主、イエス・キリストを元
の仲間達に伝えたいと思い、会報の発行、定
例会の集い、学びと慰めの場を一つずつつく
っていった。そして、もう三年も流れた。現
在、定例会は、三十六回目を開き、数名であ
った会員は、七百名に達している。『エクレ
シア会を支える会』も発足し、この世話人会
の中には私の尊敬する作家、あの三浦綾子さ
んまでも名を連ねて、励ましのお言葉を送っ
てくださっている。
連日、エクレシア会には全国各地から相談
依頼の電話、訪問が相次ぎ、本の反響が大き
くなる一方である。多くの依頼の中で本人と
の出会いが可能となりそうな場合、その時を
好機として生かすよう全力で対応していく。
各地を飛行機で飛び、新幹線で走り、巡りに
巡った。その結果展開されたひとりひとりの
劇的な改心に導かれていく様は、貴重なドラ
マであり、奇蹟であるといってもよい。
なかでも、かつて私のいた品川の協会で歩
んでいた兄弟が、イエス・キリストを信ずる
ひとりとして救出されていった出来事は、感
動もひとしおであった。この活動に携わった
私達は、この世に生きて働いておられる神様
を痛切に実感させられていった。
この歩みの中で出会っていった人は数限り
ない。救出された人が、次々とまた他の人を
救っていく。これらのことが、私の心の中で、
あの高校時代の音楽よりも美しく高らかに鳴
り響いている。
統一協会をやめる人も多いけれども、いま
だにはいる人も決して少なくない。それは、
現代の世相を反映している結果だと思えてな
らない。この北陸の地においても、統一協会
の青年達が、一途に活動を続けている。この
問題はまだ終わっていないのである。
親友ヨッチとは数年間ずっと会えない状態
が続いたが、今年の三月に、突然彼女から電
話があった。私は弾むような喜びとなつかし
さで胸をいっぱいにして彼女と会った。だが
実は、彼女は統一協会の上司の人を連れて来
て、私を再び統一協会へ戻そうとしたのであ
った。
私は、ヨッチとふたりだけで、高校時代の
ように何でも自由に思う存分語り合いたかっ
た。その思いは、今も決して変わらない。ヨ
ッチと別れた後、私は残念な思いに耐えきれ
ず、涙もふかずに泣きながら、家へ帰った。
友情の壊されるのは何と悲しいことだろうか。
何とやりきれないことだろうか。
しかし、いつかヨッチが私の隣にすわり、
天へ続く階段のようなメロディを、一緒に奏
でる日が必ず訪れることを信じている。
真実のもののみがこの世に残るのである。
人の魂を変えるのは、本物の愛のみである。
小社発行・『北陸の燈』創刊号より