学生野球考
【2020年7月9日配信】
慶應義塾大学野球部監督
前田 祐吉
「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」と
いう元気な掛け声の間に、「カーン」という
快いバットの音がひびくグラウンドが私の職
場である。だれもが真剣に野球に取り組み、
どの顔もスポーツの喜びに輝いている。息子
ほどの年齢の青年たちに囲まれ、好きな野球
に打ち込むことのできる私は、つくづく、し
あわせ者だと思う。
学生野球は教育の一環であるとか、野球は
人間形成の手段であるということがいわれる
が、私の場合、ほとんどそんな意識はないし、
まして自分が教育者だとも思わない。どうし
たらすべての野球部員がもっと野球を楽しめ
るようになるのか、どうしたらもっと強いチ
ームになって、試合に勝ち、選手と喜びを共
にできるのか、ということばかり考えている。
野球に限らず、およそすべてのスポーツは、
好きな者同志が集まって、思いきり身体を動
かして楽しむためのもので、それによって何
の利益も求めないという、極めて人間的な、
文化の一形態である。百メートルをどんなに
早く走ろうと、ボールをどれだけ遠くへカッ
飛ばそうと、人間の実生活には何の役にも立
たない。しかし、短距離走者はたった百分の
一秒のタイムを縮めるために骨身をけずり、
野球選手は十回の打席にたった三本のヒット
を打つために若いエネルギーを燃やす。その
理由は、走ることが楽しく、打つことが面白
いからにすぎない。さらにいえば、より早く
走るための努力の積み重ねが何物にも替えが
たい喜びであり、より良く打つための苦心と
練習そのものに、生きがいが感じられるから
である。
このように、スポーツは余暇を楽しみ、生
活を充実させるための手段で、それ以外には
何の目的もないはずである。むしろ目的のな
いことがスポーツの特徴であり、試合に勝つ
ことや良い記録を出すことは、単なる目標で
あって終局の目的ではない。
かつて超人的な猛練習でスピードスケート
の王者といわれ、冬季オリンピックの金メダ
ルを独占したエリック・ハイデンは「金メダ
ルは私の人生の目的ではない。それに至るプ
ロセスの喜びが私の真の目的である」と語っ
たと伝えられるが、まさにアマチュア・スポ
ーツの真髄を表わす名言である。現在のハイ
デンにとって、オリンピックの金メダルは、
若き日の努力の輝かしい記念碑としての意味
しかなく、金メダルの栄光を自分の生活の糧
にしようなどという気持ちは、全くないので
はなかろうか。
勝つことを義務づけられ、勝つことが人生
のすべてであると思いつめた暗い表情の選手
たちを見るにつけても、ハイデンのスポーツ
マンらしい明るさが、思い出されてならない。
日本じゅうで三千数百の高校野球チームの
選手たちが、甲子園を夢見て努力を重ねてい
るが、甲子園も決して真の目的ではなく、単
なる目標にすぎない。そう考えなければ、甲
子園に出場できない大多数の選手たちはだれ
も目的を達することなく、その努力はすべて
無駄になってしまうわけで、こんな不合理な
話はない。甲子園への出場を口実に数千万円
から億単位の募金を集めて、大会後にその金
を利用し、そのためにまた選手に勝つことを
強要するなど、ある種の大人たちにとっては
甲子園こそ最終の目的であり、打出の小槌で
あるようである。
郷土と母校の栄誉のためにという空疎な題
目が、いかに高校野球を毒しているのか、ま
ことに寒心に耐えない。スポーツはあくまで
も自分の意志で自分自身のためにやるべきも
ので、野球は郷土のためや母校のためにやる
ものではない。
それにしても高校野球の実態の暗さと息苦
しさはどうだ。高校野球は教育であると多く
の関係者は信じて疑わないが、はたしてそう
であろうか。確かにいろいろな教育的効果が
認められるし、そのこと自体は大変歓迎すべ
きことである。しかし高校生の教育は、何よ
りもまず学校ですべての生徒を対象に行なわ
れるべきもので、野球部での生活がそれに代
わることはできない。このあたりの自覚のな
い指導者は、野球の訓練がそのまま教育であ
ると思い込み、自らを教育者であると錯覚す
る。こうして野球部の部活動が絶対至上のも
のとなり、選手にはすべてを犠牲にして野球
に打ち込むことを強要する。そしてそのこと
が「野球で人間を造る」唯一の方法であると
いう確信に達するようである。野球で人間を
造るとはまた何という思い上がりであろうか。
マッサージを覚えた素人が医者の名を騙る類
いで、一種の社会的な罪悪といわざるを得な
い。しかも、もともと当人たちの善意に発す
るだけに、かえって事が面倒である。冷静に
考えて、もし選手の将来を真剣に思うなら、
少なくとも学業との両立を果たさせることは、
野球の指導者としての最低のモラルであるは
ずで、この点については、むしろ大学野球の
ほうに反省すべきことが多いようである。
こうして教育という錦の御旗の下に、野球
の形を借りた私刑(リンチ)が猛練習と呼ば
れ、前時代的な上下の差別や、礼儀とは似て
非なる虚礼がしつけと称して横行するのであ
る。異様な坊主頭がなぜ純真さの印なのか。
なぜ下級生は不作法な大声を張り上げて上級
生に挨拶を繰り返さなければならないのか。
教室の出入りにお辞儀をしたこともない生徒
が、なぜグラウンドにお辞儀をするのか。甲
子園で敗れたチームが、なぜグラウンドの土
を取るのか。しかも、泣きながら公共物であ
る土を取る姿を観衆やテレビカメラに晒して
恥じない。「勝者は敗者を思いやり、敗者は
勝者を讃える」というスポーツの爽やかさは、
どこへ行ってしまったのだろうか。
最後には、どうしても高野連(日本高校野
球連盟)の指導方針に触れざるを得ない。こ
こでも高校野球は教育であるという認識に根
強く支配されている。野球部の生活に、ある
種の教育的効果がある点は認めるとしても、
何かといえばチームに課せられる出場停止の
罰則は、いったい何のためなのか。一方で勝
つための強引な選手集めや非常識な募金など、
高校野球の本質を歪めるような事態はほとん
ど不問のまま、重箱の隅をつつくような処罰、
それも時代錯誤も甚だしい連帯責任型の処分
が通例となっている。野球が教育であると信
ずるなら、なぜ罪もない多くの選手たちまで
長い期間野球ができない処置をとるのか。こ
れほど非教育的な処分は他に類を見ない。さ
らに重大なことは、事件を起こした本人の人
権と将来をどう考えているのかである。事件
の多くは、若者にありがちな小さな不心得で
あるが、それが原因でチームが出場停止とな
った結果、何よりも本人たちがどれほど深く
傷つくだろうか。せっかく新聞が少年A・B
という形で名前を秘しても、ひとたびチーム
の出場停止が決まれば、本人の周囲の人々は
すべて名前入りでその不祥事をしっかりと記
憶してしまい、決して忘れてはくれない。中
には郷里を棄て親元を離れて他に生活の場を
求めざるを得ない場合もあるだろう。高校野
球に対する一般の関心が高ければ高いほど、
処分を下す側には、その影響を深く考える必
要があるはずである。
全国で無数に発生しているはずの小事件の
中で、たまたま新聞紙上に出たことが処分の
キッカケになることも不合理で、レギュラー
になれなかった選手の父母が、腹いせに自校
の不祥事を新聞に投書する例が多いなど、高
校野球の暗さの元は、案外この出場停止制度
そのものにあるのではなかろうか。高野連が
最も直接的に教育にかかわるのが、出場停止
処分という最も非教育的な形であるという皮
肉な結果となっているような気がしてならな
い。
高野連自体が、一般の生徒の事件はチーム
の処分の対象にしないなど、近年全般的に良
識的な方向に向かっていることは確かであり、
歓迎すべきであるが、教育のことは最高責任
者である校長と、直接指導に当たる部長の判
断を信頼して、無用の口出しをやめるよう勇
断をもって改善のスピードを早めていただき
たい。冗談にもせよ、「生類憐れみの令」に
次ぐ悪法と嘲笑される制度を根本的に改め、
愚にもつかぬ前例にこだわることをやめ、高
校野球の世界が本来の明るさを取り戻す日の
一日も早いことを期待するものである。
小社発行・『北陸の燈』第3号掲載