176. 白山に秘められた日本建国の真実
【2021年7月17日配信 NO.176】
泰澄の白山開山の意味
文明アナリスト 皆神塾主宰
新井 信介 (長野県中野市)
白山は縄文時代からの山として人々の信
仰を集めてきた。六千年前、日本列島では、
お互いの命の響きを正確に伝え合う共振装
置としてヒスイを発見し、大切に身に着け
出した。その信仰の中心に最も響きの分か
る女神を選び、ヌナカワ姫と代々呼ばれ続
けた。太古の時代から白山の存在は、北の
日本海と南の太平洋へと流れ行く命の水を
分け恵む特別な水分(みくまり)の山だっ
た。そんな日本列島に憧れ入植した人たち
から、命を産み育てる力はイザナミと呼ば
れ、人々はこの力を、水そのものと同一に
見ていたのだ。
一方で、国や統治体のことをイザナギと
呼んだ。これらは陰と陽のように表裏を成
し、この二つの力がこれまでの日本国を導
いてきた。しかし令和が始まった今、日本
国というこの統治体は人々の幸福よりも経
済の発展を重視し、マネーの追求に明け暮
れ、その結果多くの問題と疑問と苦痛を人
々にもたらしてきた。そして今、かつて経
験したことがないような、先行きの見えな
い不安が日本人と社会を覆っている。
さらに今、縄文から続く六千年来の人々
の覚醒が静かに始まった。
白山には三つの入口がある。一つは加賀
から入る道で、ここは古代に崇神(すじん)
天皇が糸魚川(いといがわ)のヌナカワ姫
に会った帰りに、石動(いするぎ)を過ぎ
て白山を遥拝した場所であり、そこには現
在白山比咩(しらやまひめ)神社が建立さ
れていて、白峰(しらみね)を拠点とする
ルートになっている。崇神は日本列島に水
(命)を恵む山としての白山の存在を、自
身の統治体の中に取り込もうとした。
もう一つは越前から登るルートで、ここ
には平泉寺(へいせんじ)白山神社がある。
平泉寺白山神社の社家である平泉(ひらい
ずみ)家の平泉澄(きよし)氏は、明治か
ら戦後にかけての皇国史観を打ち立てた人
物であり、二二六事件の解決に深く関わっ
たことでも知られている。平泉家は日本を
一つにまとめいく上で、国としての統治体
に白山の力で命を吹き込む命を受け、中で
も、澄氏は、後で出てくる白山を開山した
泰澄(たいちょう)の澄の字を貰い受けて
いる。
そしてもう一つのルートが美濃から登る
道である。ここには長滝(ながたき)白山
神社がある。ここから登ると、やがて道は
白山中居(ちゅうきょ)神社へと続く。こ
の神社こそが本来の白山の信仰を現代に伝
えているとても重要な場所なのだ。そこは
石徹白(いとしろ)という集落があり、石
徹白という姓の代々の禰宜さんがおられて、
これまでの白山の歴史や信仰を人々に語り
伝えてきた。
なぜ、それほどまでに白山という山が、
人々の心を六千年以上にもわたって惹きつ
けてきたのか?
答えは、そこが世界の何ヶ所かに存在す
る白山神界と呼ばれる場所の一つだからだ。
アフリカのキリマンジャロ、ヨーロッパの
モンブラン、アメリカのマッキンレー、そ
して中朝国境の長白山(白頭山)とわが国
日本の白山。宇宙と地球を繋ぎ、自由に行
き来するエネルギーをドラゴンと観れば、
白山神界はドラゴンが休む場所であり、宇
宙からのエネルギーが降りてくる場所でも
ある。そしてそこは地球に生きる人々やさ
まざまな命に、生きる力としての水を分け
恵む場所なのだ。
アフリカや中東から、西域を通って。あ
るいは中国を越えて。大河を渡り、砂漠と
山を越えて。こうした智慧と信仰を持つ人
々が、ユーラシアを横断して長白山へと至
り、朝鮮半島を通って日本海を渡り、この
白山へとやってきたのではないか?と私は
考えている。
そこで「白山を開山した泰澄」とは、一
体どのような素性のいかなる人物だったの
か?ということについて私見を記すが、そ
れには、ひとまず聖徳太子にまで話を遡る
ことになる。日本の歴史を教科書で習った
ように見ていると、まるで大陸や朝鮮半島
とは切り離された別の場所としか理解でき
ないが、新井史観で見ると事実はまったく
違う。
太子は、六世紀にユーラシアにまたがる
巨大な帝国をつくった遊牧民の突厥(とっ
けつ)の出身である。
突厥はその後東西に分裂するが、太子は
分裂した西突厥の皇子・タルドゥなのだ。
彼は高句麗を経由して日本へやってきた。
日本での彼の名は厩戸(うまやど)皇子で
ある。いかにもトルコ系遊牧民である突厥
の皇子らしい名と言える。そして太子が高
句麗王族の娘との間に平壌で儲けた息子が
淵蓋蘇文(朝鮮語ヨンゲソムン)だ。淵蓋
蘇文は日本書紀にイリカスミの名で遺言が
記されており、日本では大海人(おおあま)
皇子と呼ばれていた。
つまり天武天皇だ。唐に国を滅ぼされた
淵蓋蘇文(天武)は、頻繁に行き来してい
た倭国において重要な地位を与えられてい
た。しかし彼は、白村江(はくすきのえ)
の戦いで天智天皇が唐と新羅に敗れ、唐の
臣下の立場になり、大化改新以来の中央集
権化した統治体の倭国が、唐の冊封下にな
ってしまったことに憤り、反旗をひるがえ
す。壬申の乱である。その結果勝利した淵
蓋蘇文は天皇となり、国名を日本と改め、
唐に拮抗できるべく倭国の体制を改変して
いくのだ。
この時に伊勢神宮が天皇家の皇祖の起源
として現在の場所に移され(正確には伊雑
宮)、天皇家の歴史が国史として編纂され
ていく。詳しいことはここでは割愛するが、
泰澄とは、天武晩年の政務を代行した天武
の息子、大津皇子(おおつのみこ)の子で
ある。つまり泰澄は天武の孫にあたり、聖
徳太子の血を引いている。そこには白山神
界の存在や、そこに交響しあう天と地の智
慧をどのように人間の統治に使うか、その
真摯な姿勢が充分に受け継がれていたのだ。
(註;伊雑宮では宇宙と交響する「太一」
を祀る儀式がある。現在の伊勢神宮内宮は
持統の参拝を契機に造られたが、その神域
には、伊雑宮の「太一」は入れない仕来た
りとなっている。)
私が泰澄と天武天皇、大津皇子との関係
を前述のように見る根拠を述べる。
泰澄は六八二年(天武朝十一年)に生ま
れた。母は「越前勝山の人だった」とされ
ている。幼くして神童と評されたが、後に
「道昭という僧侶に見出されて出家した」
と伝わっている。道昭とは遣唐使として唐
に赴き、玄奘三蔵のもとで修行した高僧だ。
ご存知のように玄奘三蔵は六二八年意を決
して、太宗李世民の許可の下、天竺を訪れ、
貴重な仏法を唐へともたらした人物だが、
三蔵はこのとき天山を越えてその北側、現
在キルギスのイシククル湖畔の町スイアー
ブをわざと経由してインドへ向かった。そ
の途中に、日本列島から本国へ帰国した晩
年のタルドゥ(聖徳太子)と会っていると
思われる。玄奘はインドから戻った時、洛
陽では高句麗遠征に出かける太宗李世民の
大兵団を目撃している。
道昭はインドから唐に戻った三蔵の下で
十一面観音心経を学んだ。西突厥の首府キ
ルギスのスイアーブに戻った太子と会った
のが玄奘三蔵、そしてその弟子となったの
が日本列島からの留学僧道昭という繋がり
からも泰澄の出自が窺われるのだ。六九六
年、道昭の指導で越知山に籠って修行した
泰澄はまだ十四歳だったが、十一面観音心
経を身につけた。白山信仰において十一面
観音が信仰されてきた理由はここにある。
タルドゥ・天武の思いを継ぐ大津皇子の子
として生まれた泰澄は、高市皇子(たけち
のみこ)が殺害されるという政変の中、出
家という手段で、その生命が保証され、来
たる日に備えたのである。
七〇一年に大宝律令が完成すると、翌年、
持統天皇の孫とされる文武天皇は、粟田真
人を史上初の女帝、武則天(武照)の下に
派遣した。武則天は六九〇年に即位して王
朝名を周としたが、これは唐を否定し、す
べてを始皇帝以前に戻してやり直せ、との
意思の表れだった。持統は武則天の即位に
合わせ、自らも即位し、中華王朝の冊封下
の倭国ではなく、対等の国である日本国を
正式に認めてもらうことが念願だった。
一方で国内では大伴安万侶(おおともの
やすまろ)が、越前の山で修行をしていた
泰澄の下を訪れ、新生日本国の鎮護国家法
師として正式に認められたことを告げる。
大伴安万侶はかつて天武に仕え、壬申の乱
でも活躍し、天武の葬儀を取り仕切った人
物である。彼は泰澄の素性をすべて知って
いたと思われる。ここに唐からも正式に日
本という国名を認められ、内外ともに新し
い国「日本」が始まったのだ。
その頃日本海を挟んで対岸にあたる沿海
州では、六九八年に渤海国が建国された。
この国の王・大祚榮(テジョヨン)はすで
に滅んだ高句麗の遺民であると伝えられて
いる。唐と新羅を除いて東アジアでは、高
句麗の滅亡後ほぼ同時期に、日本と渤海の
二つの国が新たに起ち上がったのだ。これ
は決して単なる偶然とは思えない。
そして大陸では武則天が開いた周は、彼
女の死をもって国名を唐に戻したが、混乱
は続き、武則天の孫である李隆基が七一二
年に即位して自らを玄宗と名乗った。この
時、日本では古事記の編纂は最終局面だっ
たが強引に完成となった。古事記は厩戸皇
子の誕生を最後に書き記して終わっている。
厩戸の功績や大化改新などはない。実は、
厩戸(タルドゥ)の登場の時から龍体の日
本列島において、中華に負けない強い統治
体を創り上げようとする意志がはたらき始
めていた。その一つの現れが大宝律令、そ
して、龍体国家に天地のエネルギー注ぐこ
と。
泰澄は七一六年白山に登ることを決意す
る。同じ年、渤海国の大祚栄は白頭山に登
っている。そして翌七一七年にはとても重
要な遣唐使が派遣されている。
その中には阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、
吉備真備(きびのまきび)、藤原宇合(う
まかい)などがいた。宇合は藤原不比等の
三男でその名は最初は「馬養」 (うまかい)
だが帰国後「宇合」に改められた。不比等
が、「宇と合う」としたのは、これで、宇
宙の運行や権能と叶う国家ができるぞ、と
の想いがあったのではないか、と窺われる。
彼らの重要な目的の一つは、復活した唐
の皇帝、玄宗李隆基との間に、日本の国史
として編纂している「日本書紀」に厩戸皇
子(タルドゥ)の存在をいかに書き記すか
という合意の形成だった。その結果、太子
は日本で生まれ日本で死んだというストー
リーができあがった。この出来事で日本は
大陸との関係の中で独立した一つの国とし
て歩み始める。この時に、まさに渤海国と
示し合わせたように泰澄は初めて白山に登
り、国家鎮護の要として白山を開山した。
大祚栄と泰澄はともに白山神界に登り、中
国と朝鮮半島と日本のあり方を正しく導こ
うとしたものと私には思われる。
これ以降、新生日本国の中で白山の存在
はとても大きくなっていく。そして日本列
島は、大陸と切り離された別の天蓋で覆わ
れていくことになる。
七三六年、奈良では元正天皇(女帝)が
病に伏した。泰澄はこの病を治し、翌年に
は奈良の都で天然痘が大流行する。不比等
の四兄弟がすべて死去するという相当な惨
状だった。のちに光明皇后となる安宿媛(
あすかべひめ)は仏教に深く帰依した人と
して知られているが、不比等の死後に実権
を握った長屋王(高市皇子の父)が七二四
年聖武の時代になっても彼女の皇后即位に
反対したため、兄たち四兄弟と同じくひど
く恨んでいた。
渤海の第二代、大武芸の使者が奈良にま
で来て、日本国と高句麗は兄弟国と主張し
たことに四兄弟は父不比等がつくり出した
列島内のみを王権にするという枠組が壊れ
ることを恐れ、長屋王を自殺に追い込んだ。
以後の平城京での疫病大流行は深刻さが増
すにつれ、長屋王の祟りとも噂された。
光明皇后は、縄文からの精(命の響き)
を持つヌナカワ姫ならば解決の智慧を持っ
ているはずと、遥々と奥信濃の野沢に向か
ったが、その手前、飯山の小菅と北竜湖で
本人の影を感じて温泉に浸るときから覚醒
が始まった。泰澄は、国権の頂点にいる皇
后の改心を待ち、その響きを背景に天然痘
という病魔の完全沈静化を果たした。泰澄
はこれによって大法師という称号を朝廷か
ら授けられ、人々と国を救う聖人として崇
められる。
以来、日本国においては、泰澄が開いた
白山は、天と繋がり地上の命を活かす重要
な場所として人々の尊崇を受けることとな
る。
(註;長屋王の大親友であった大伴旅人は
長屋王死去の報を福岡の大宰府で知り、四
兄弟の横暴への反発の意を込めて梅花宴を
開いたが、それを記した歌集の文言から取
り上げられたのが、現在の元号「令和」で
ある。)
しかしその反面では、白山を管理するこ
とは日本国をイノチの次元から支配すると
いう意味を持っていた。それ故、その管理
を巡っては争いが絶えなかった。江戸時代
には加賀藩と越前藩が、また古くは平泉寺
の領有をめぐって三井寺と比叡山が争った。
そんな中で白山中居神社のある石徹白の人
々は、白山とともに生きることの意味を考
え続けてきた。この天と地の間で生かされ
ている命とは何かを見つめてきたのだ。
冬場は豪雪に見舞われる土地で、白山と
ともに生きてきた人々が一千年の時を繋い
で受け継いできた志、それは『人間界の富
や権力から遠ざかり、自然から授かった利
子、実際の実りで生きていく』というもの
だった。そのためにこの集落では人口は千
人を超えてはならないとされ、それが守り
伝えられてきたのだ。
地湧の神官である石徹白氏を中心に、今
なお白山と暮らす彼らの目に映るものは、
明治以降の近代国家としての日本、特に戦
後においては原発を福井県が次々と受け入
れ、すべてがマネー中心で動いていく社会
の姿。そのためには自然や人の暮らしを平
気で壊し続けていく世の中。そこには水を
分け恵み、命を生かし続けてきた白山への
純粋で敬虔な信仰のかけらもない。
奈良、平安時代から鎌倉、室町時代には
多くの寄進が集まり、白山は聖地として信
仰された。戦国時代の加賀の一向衆は白山
を大切に守り、のちの藩主前田家も白山を
篤く敬った。こんなふうに白山への信仰は
時代を超えて守り伝えられた。そこは命の
水を分け恵み、命を活かす聖なる山として
あり続けたのだ。
今私たちは、この時代に白山の意味を知
り、改めて日本と日本人を見つめ直す必要
に迫られている。私たちは人間としてこの
日本をどういう国にしたいのか? そのた
めにはどんな枠組みを創ればいいのか?
その答えを導き、私たちの未来を開く鍵と
なる聖地が白山である。そこには地球の中
心と繋がった大きな宇宙からのエネルギー
が降りてくる。そして人間を雪や水のよう
に純化し、精神性を高めてくれる山である。
そこまでの真摯な思いがないと、とうてい
白山の神からの祝福は得られないと思う。
白山を知ることは日本人と日本国を知る
こと。それは私自身、あなた自身を知るこ
とでもあるのです。
森善之・編集『JAPANGRAPH』石川号
(発行:七雲、宇治市、2020)より転載
晩秋の白山御前ヶ峰
写真:当講座記事 NO.116 から(小社撮影)
下方は南龍ヶ馬場(加賀・越前・飛騨の
登山道が交わるところ)
〈小社推薦図書〉
『聖徳太子の真相』
小林惠子著 祥伝社新書 2017年
〈以下参考〉
新井信介さん発信ブログ
瓊音(ぬなと)チャンネル.旧「京の風」
新井信介さん発信動画
ぬなとチャンネル - YouTube
2021.7.20発信隋書 俀王の姓、字、号について
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」
隋書 大業3年 (607) の国書について
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
スイアーブと玄奘、厩戸、李白
玄奘三蔵ゆかりの砕葉(スイアブ)城
仏教伝来の道物語
静夜思 李白
牀 前 看 月 光
疑 是 地 上 霜
挙 頭 望 山 月
低 頭 思 故 郷
「推背図」歴史の謎・三尺童子
2021.11.16発信動画
2021.11.18発信動画
2021.11.20発信動画
2021.10.18発信動画
芥川龍之介 『神神の微笑』
すると拡大できます。
に白山関連の記事があります。
〈追記〉
2021.10.8 に新井信介さんから中国の
専門家の推背図解説動画が送られてき
ました。
2022.1.12 に新井信介さんから以下の
動画が送られてきました。この動画に
8万件のアクセスがあったそうです。
2022.2.21 新井さん発信動画
参考
新井信介/マドモアゼル・愛 共著
白山 弥陀ヶ原 黒ボコ岩
「古池や蛙飛びこむ水の音」の句につい
て僭越ながら素人の思いつきを記します。
この〈古池や〉の句は、李白の静夜思の
第一句「牀前看月光」の「牀」を芭蕉は
「井戸」と解釈し、莊子の「井の中の蛙」
にヒントを得て、李白を偲んだ句ではな
いでしょうか。静夜思で李白が偲んだの
は、李白が育った四川省の故郷なのかも
しれませんが、生まれ故郷のスイアーブ
とも考えられないでしょうか。このこと
は、当講座の NO.176 の新井信介さんの
記事と NO.184 の記事を見てそう思った
しだいです。
さらに言えば、芭蕉は、新井信介さんが
語るような史実を世界的な視野をもって
(「井の中の蛙」であると謙虚に自覚し
ながらも)、当時、既に知っていたので
はないでしょうか。
さすれば、古池とはイシククル湖、蛙は
月光、音は湖面に浮かんだ月景色のこと
ではないでしょうか。
いずれにしても〈古池や〉は、静夜思の
真髄、李白の郷愁、李白への敬慕を俳句
にしたものではないでしょうか。
芭蕉の全句にわたって、李白を生涯の師
とする芭蕉の思いが伝わってくるように
感じます。
古池の蛙は大海を知ったのでしょうか。
(2021.9.21夜.編集人)
〈追々々記〉
当講座記事 NO.304 に上記記事を
『瓊音(ぬなと)のひびき』と題
して再掲しました。
併せて見ていただければ幸いです。
(2023.6.5)