176. 白山に秘められた日本建国の真実

【2021年7月17日配信 NO.176】 



 泰澄の白山開山の意味                          

       

        

     文明アナリスト 皆神塾主宰 

                     新井 信介                                                   (長野県中野市)

 

 白山は縄文時代からの山として人々の信

仰を集めてきた。六千年前、日本列島では、  

お互いの命の響きを正確に伝え合う共振装

置としてヒスイを発見し、大切に身に着け

出した。その信仰の中心に最も響きの分か

る女神を選び、ヌナカワ姫と代々呼ばれ続

けた。太古の時代から白山の存在は、北の

日本海と南の太平洋へと流れ行く命の水を

分け恵む特別な水分(みくまり)の山だっ

た。そんな日本列島に憧れ入植した人たち

から、命を産み育てる力はイザナミと呼ば

れ、人々はこの力を、水そのものと同一に

見ていたのだ。 

                      

 一方で、国や統治体のことをイザナギと  

呼んだ。これらは陰と陽のように表裏を成  

し、この二つの力がこれまでの日本国を導  

いてきた。しかし令和が始まった今、日本  

国というこの統治体は人々の幸福よりも経  

済の発展を重視し、マネーの追求に明け暮  

れ、その結果多くの問題と疑問と苦痛を人  

々にもたらしてきた。そして今、かつて経  

験したことがないような、先行きの見えな  

い不安が日本人と社会を覆っている。    

                     

    さらに今、縄文から続く六千年来の人々  

の覚醒が静かに始まった。         

                     

    白山には三つの入口がある。一つは加賀  

から入る道で、ここは古代に崇神(すじん)

天皇が糸魚川(いといがわ)のカワ姫

に会った帰りに、石動(いするぎ)を過ぎ

白山を遥拝した場所であり、そこには現

白山比咩(しらやまひめ)神社が建立さ

れていて、白峰(しらみねを拠とする

ルートにっている。崇神は日本列島に水

(命)を恵む山としての白山の存在を、自

身の統治の中に取り込もうとした。        

                     

   もう一つは越前から登るルートで、ここ  

には平泉寺(へいせんじ)白山神社がある。

平泉寺白山神社の社家である平泉(ひらい

ずみ)家の平泉澄(きよし)氏は、明治か

ら戦後にかけての皇国史観を打ち立てた人

物であり、二二六事件の解決に深く関わっ

たことでも知られている。平泉家は日本を

一つにまとめいく上で、国としての統治体

に白山の力で命を吹き込む命を受け、中で

も、澄氏は、後で出てくる白山を開山した

泰澄(たいちょう)の澄のを貰い受けて

いる。

              

    そしてもう一つのルートが美濃から登る  

道である。ここには長滝(ながたき)白山

神社がある。ここから登ると、やがて道は

白山中居(ちゅうきょ)神社へと続く。こ

の神社こそが本来の白山の信仰を現代に

えているとても重要な場所なのだ。そこは

石徹白(いとろ)という集落があり、石

徹白という姓代々の禰宜さんがおられて、

これまでの白山の歴史や信仰を人々に語り

伝えてきた。

 

    なぜ、それほどまでに白山という山が、  

人々の心を六千年以上にもわたって惹きつ  

けてきたのか?              

                     

  答えは、そこが世界の何ヶ所かに存在す  

る白山神界と呼ばれる場所の一つだからだ。 

アフリカのキリマンジャロ、ヨーロッパの  

モンブラン、アメリカのマッキンレー、そ  

して中朝国境の長白山(白頭山)とわが国 

日本の白山。宇宙と地球を繋ぎ、自由に行  

き来するエネルギーをドラゴンと観れば、  

白山神界はドラゴンが休む場所であり、宇  

宙からのエネルギーが降りてくる場所でも  

ある。そしてそこは地球に生きる人々やさ                         

まざまな命に、生きる力としての水を分け

恵む場所なのだ。                         

                          

    アフリカや中東から、西域を通って。あ  

るいは中国を越えて。大河を渡り、砂漠と  

山を越えて。こうした智慧と信仰を持つ人  

々が、ユーラシアを横断して長白山へと至  

り、朝鮮半島を通って日本海を渡り、この  

白山へとやってきたのではないか?と私は  

考えている。               

 

    そこで「白山を開山した泰澄」とは、一  

体どのような素性のいかなる人物だったの   

か?ということについて私見を記すが、そ

には、ひとまず聖徳太子にまで話を遡る

ことになる。日本の歴史を教科書で習った

ように見ていると、まるで大陸や朝鮮半島

とは切り離された別の場所としか理解でき

ないが、新井史観で見ると事実はまったく

違う。


 太子は、六世紀にユーラシアにまたがる

な帝国をつくった遊牧民の突厥(とっ

けつ)の出身である。


 突厥はその後東西に分裂するが、太子は

た西突厥の皇子・タルドゥなのだ。

句麗を経由して日本へやってきた。

の彼の名は厩戸(うまやど)皇子で

ある。いかにもトルコ遊牧民である突厥

の皇子らしい名と言える。そして太子が高

句麗王族の娘との間に平壌で儲けた息子が

淵蓋蘇文(朝鮮語ヨンゲソムン)だ。淵蓋

蘇文は日本書紀にイリカスミの名で遺言が

記されており、日本では大海人(おおあま)

子と呼ばれていた。              

                          

 つまり天武天皇だ。唐に国を滅ぼされた  

淵蓋蘇文(天武)は、頻繁に行き来してい

倭国において重要な地位を与えられてい

た。しかし彼は、白村江(はくすきのえ)

の戦いで天智天皇が唐と新羅に敗れ、唐の

臣下の立場になり、大化改新以来の中央集

権化した統治体の倭国が、唐の冊封下にな

ってしまったことに憤り、反旗をひるがえ

す。壬申の乱である。その結果勝利した淵

蓋蘇文は天皇となり、国名を日本と改め、

唐に拮抗できるべく倭国の体制を改変して

いくのだ。

        

 この時に伊勢神宮が天皇家の皇祖の起源

として現在の場所に移され(正確には伊雑

宮)、天皇家の歴史が国史として編纂され

ていく。詳しいことはここでは割愛するが、

泰澄とは、天武晩年の政務を代行した天武

の息子、大津皇子(おおつのみこ)の子で

ある。つまり泰澄は天武の孫にあたり、聖

徳太子の血を引いている。そこには白山神

界の存在や、そこに交響しあう天と地の智

慧をどのように人間の統治に使うか、その

真摯な姿勢が充分に受け継がれていたのだ。

               

(註;伊雑宮では宇宙と交響する「太一」  

を祀る儀式がある。現在の伊勢神宮内宮は  

持統の参拝を契機に造られたが、その神域

には、伊雑宮の「太一」は入れない仕来た

となっている。)              

                     

 私が泰澄と天武天皇、大津皇子との関係  

を前述のように見る根拠を述べる。     

                     

 泰澄は六八二年(天武朝十一年)に生ま  

れた。母は「越前勝山の人だった」とされ  

ている。幼くして神童と評されたが、後に

「道昭という僧侶に見出されて出家した」

と伝わっている。道昭とは遣唐使として唐

に赴き、玄奘三蔵のもとで修行した高僧だ。

ご存知のように玄奘三蔵は六二八年意を決

して、太宗李世民の許可の下、天竺を訪れ、

貴重な仏法を唐へともたらした人物だが、

三蔵はこのとき天山を越えてその北側、現

在キルギスのイシククル湖畔の町スイアー

ブをわざと経由してインドへ向かった。そ

の途中に、日本列島から本国へ帰国した晩

年のタルドゥ(聖徳太子)と会っていると

思われる。玄奘はインドから戻った時、洛

陽では高句麗遠征に出かける太宗李世民の

大兵団を目撃している。            

                     

 道昭はインドから唐に戻った三蔵の下で  

十一面観音心経を学んだ。西突厥の首府キ  

ルギスのスイアーブに戻った太子と会った  

のが玄奘三蔵、そしてその弟子となったの  

が日本列島からの留学僧道昭という繋がり  

からも泰澄の出自が窺われるのだ。六九六

年、道昭の指導で越知山に籠って修行した

泰澄はまだ十四歳だったが、十一面観音心

経を身につけた。白山信仰において十一面

観音が信仰されてきた理由はここにある。                   

タルドゥ・天武の思いを継ぐ大津皇子の子

として生まれた泰澄は、高市皇子(たけち

のみこ)が殺害されるという政変の中、出

家という手段で、その生命が保証され、来

たる日に備えたのである。                  

                     

 七〇一年に大宝律令が完成すると、翌年、  

持統天皇の孫とされる文武天皇は、粟田真  

人を史上初の女帝、武則天(武照)の下に  

派遣した。武則天は六九〇年に即位して王  

朝名を周としたが、これは唐を否定し、す  

べてを始皇帝以前に戻してやり直せ、との  

意思の表れだった。持統は武則天の即位に  

合わせ、自らも即位し、中華王朝の冊封下  

の倭国ではなく、対等の国である日本国を  

正式に認めてもらうことが念願だった。   

                     

 一方で国内では大伴安万侶(おおともの

やすまろ)、越前の山で修行をしていた

泰澄の下を訪れ、新生日本国の鎮護国家

師として正式に認められたことを告げる。

大伴安万侶はかつて天武に仕え、壬申の乱

でも活躍し、天武の葬儀を取り仕切った人

物である。彼は泰澄の素性をすべて知って

いたと思われる。ここに唐からも正式に日

本という国名を認められ、内外ともに新し

い国「日本」が始まったのだ。   

                       

 その頃日本海を挟んで対岸にあたる沿海  

州では、六九八年に渤海国が建国された。  

この国の王・大祚榮(テジョヨン)はすで  

に滅んだ高句麗の遺民であると伝えられて  

いる。唐と新羅を除いて東アジアでは、高  

句麗の滅亡後ほぼ同時期に、日本と渤海の  

二つの国が新たに起ち上がったのだ。これ  

は決して単なる偶然とは思えない。

    

 そして大陸では武則天が開いた周は、彼

女の死をもって国名を唐に戻したが、混乱

は続き、武則天の孫である李隆基が七一二

年に即位して自らを玄宗と名乗った。この

時、日本では古事記の編纂は最終局面だっ  

たが強引に完成となった。古事記は厩戸皇

子の誕生を最後に書き記して終わっている。

                     

 厩戸の功績や大化改新などはない。実は、 

厩戸(タルドゥ)の登場の時から龍体の日

本列島において、中華に負けない強い統治

体を創り上げようとする意志がはたらき始

めていた。その一つの現れが大宝律令、そ

して、龍体国家に天地のエネルギー注ぐこ

と。 

                     

 泰澄は七一六年白山に登ることを決意す

る。同じ年、渤海国の大祚栄は白頭山に登

っている。そして翌七一七年にはとても重

要な遣唐使が派遣されている。 

        

 その中には阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、

吉備真備(きびのまきび)、藤原宇合(う

かい)などがいた。宇合は藤原不比等の

三男でその名は最初は「馬養」 (うまかい)

だが帰国後「宇合」に改められた。不比等

が、「宇と合う」としたのは、これで、宇

宙の運行や権能と叶う国家ができるぞ、と

の想いがあったのではないか、と窺われる。

                 

 彼らの重要な目的の一つは、復活した唐  

の皇帝、玄宗李隆基との間に、日本の国史  

として編纂している「日本書紀」に厩戸皇  

子(タルドゥ)の存在をいかに書き記すか  

という合意の形成だった。その結果、太子  

は日本で生まれ日本で死んだというストー  

リーができあがった。この出来事で日本は  

大陸との関係の中で独立した一つの国とし  

て歩み始める。この時に、まさに渤海国と

示し合わせたように泰澄は初めて白山に登

り、国家鎮護の要として白山を開山した。

大祚栄と泰澄はともに白山神界に登り、中

国と朝鮮半島と日本のあり方を正しく導こ

うとしたものと私には思われる。

 

 これ以降、新生日本国の中で白山の存在

はとても大きくなっていく。そして日本列

島は、大陸と切り離された別の天蓋で覆わ

れていくことになる。            

                     

    七三六年、奈良では元正天皇(女帝)が  

病に伏した。泰澄はこの病を治し、翌年に  

は奈良の都で天然痘が大流行する。不比等  

の四兄弟がすべて死去するという相当な惨   

状だった。のちに光明皇后となる安宿媛(

あすかべひめ)は仏教に深く帰依した人と

して知られているが、不比等の死後に実権

を握った長屋王(高市皇子の父)が七二四

年聖武の時代になっても彼女の皇后即位に

反対したため、兄たち兄弟と同じくひど

く恨んでいた。


 渤海の第二代、大武芸の使者が奈良に

で来て、日本国と高句麗は兄弟国と主

たことに四兄弟は父不比等がつくり

列島内のみを王権にするという枠組が壊れ

ることを恐れ、長屋王を自殺に追い込んだ。

以後の平城京での疫病大流行は深刻さが増

すにつれ、長屋王の祟りとも噂された。


 光明皇后は、縄文からの精(の響き)

を持つヌナカワ姫ならば解決の智慧を持っ

いるはずと、遥々と奥信濃の野沢に向か

たが、その手前、飯山の小菅と北竜湖で

人の影を感じて温泉に浸るときから覚醒

始まった。泰澄は、国権の頂点にいる皇

の改心を待ち、その響きを背景に天然痘

という病魔の完全沈静化を果たした。泰澄

はこれによって大法師という称号を朝廷か

ら授けられ、人々と国を救う聖人として崇

められる。


 以来、日本国においては、泰澄が開いた

山は、天と繋がり地上の命を活かす重要

な場所として人々の尊崇を受けることとな

る。


(註;長屋王の大親友であった大伴旅人は

屋王死去の報を福岡の大宰府で知り、四

兄弟の横暴への反発の意を込めて梅花宴を

開いたが、それを記した歌集の文言から取

り上げられたのが、現在の元号「令和」で

ある。)

                     

 しかしその反面では、白山を管理するこ  

とは日本国をイノチの次元から支配すると  

いう意味を持っていた。それ故、その管理  

を巡っては争いが絶えなかった。江戸時代  

には加賀藩と越前藩が、また古くは平泉寺  

の領有をめぐって三井寺と比叡山が争った。 

そんな中で白山中居神社のある石徹白の人  

々は、白山とともに生きることの意味を考  

え続けてきた。この天と地の間で生かされ  

ている命とは何かを見つめてきたのだ。

 

 冬場は豪雪に見舞われる土地で、白山と

ともに生きてきた人々が一千年の時を繋い

で受け継いできた志、それは『人間界の富

や権力から遠ざかり、自然から授かった利

子、実際の実りで生きていく』というもの

だった。そのためにこの集落では人口は千

人を超えてはならないとされ、それが守り

伝えられてきたのだ。


 地湧の神官である石徹白氏を中心に、今

なお白山と暮らす彼らの目に映るものは、

明治以降の近代国家としての日本、特に戦

後においては原発を福井県が次々と受け入

れ、すべてがマネー中心で動いていく社会

の姿。そのためには自然や人の暮らしを平

気で壊し続けていく世の中。そこには水を

分け恵み、命を生かし続けてきた白山への

純粋で敬虔な信仰のかけらもない。      

                     

    奈良、平安時代から鎌倉、室町時代には  

多くの寄進が集まり、白山は聖地として信  

仰された。戦国時代の加賀の一向衆は白山  

を大切に守り、のちの藩主前田家も白山を  

篤く敬った。こんなふうに白山への信仰は  

時代を超えて守り伝えられた。そこは命の  

水を分け恵み、命を活かす聖なる山として  

あり続けたのだ。 

            

 

 今私たちは、この時代に白山の意味を知

り、改めて日本と日本人を見つめ直す必要

に迫られている。私たちは人間としてこの

日本をどういう国にしたいのか? そのた

めにはどんな枠組みを創ればいいのか? 

その答えを導き、私たちの未来を開く鍵と

なる聖地が白山である。そこには地球の中

心と繋がった大きな宇宙からのエネルギー

が降りてくる。そして人間を雪や水のよう

に純化し、精神性を高めてくれる山である。

そこまでの真摯な思いがないと、とうてい

山の神からの祝福は得られないと思う。

         

 白山を知ることは日本人と日本国を知る  

こと。それは私自身、あなた自身を知るこ

とでもあるのです。



  森善之・編集『JAPANGRAPH』石川号

  (発行:七雲、宇治市、2020)より転載  

 



晩秋の白山御前ヶ峰 

写真:当講座記事 NO.116 から(小社撮影)

下方は南龍ヶ馬場(加賀・越前・飛騨の

登山道が交わるところ)





〈小社推薦図書〉 

『聖徳太子の真相』

  小林惠子著 祥伝社新書 2017年



『真実の中国-鄧小平なき中国と日本』

  新井信介著 総合法令出版 1995年 









〈以下参考〉


 新井信介さん発信ブログ  

 

瓊音(ぬなと)チャンネル.旧「京の風」

 

 新井信介さん発信動画 

 

ぬなとチャンネル - YouTube

   2021.7.20発信

   2021.5.31発信
   日本の神話の三層構造 




 隋書 俀王の姓、字、号について

 「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」


  隋書 大業3年 (607) の国書について

 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云




 スイアーブと玄奘、厩戸、李白

 

玄奘三蔵ゆかりの砕葉(スイアブ)城

 

 

仏教伝来の道物語



 
 キルギスの地図
 


 静夜思   李白

  牀 前 看 月 光

   疑 是 地 上 霜

        挙 頭 望 山 月

        低 頭 思 故 郷





 「推背図」歴史の謎・三尺童子

 唐太宗はなぜ則天武后を殺さなかったのか?

   推背図:第57象 「毒を以て毒を制す」

   推背図:第57象 地球次元の争いの克服


 2021.11.16発信動画

  「推背図」解説 日本人は「羽化」できるか? 


 2021.11.18発信動画

 推背図:第53象  乾坤一擲  前人不及後人才


 2021.11.20発信動画

 推背図:第56象  文明の転換期は


 2021.10.18発信動画

 4年ぶりの総選挙!! じっくり考えて 

 

芥川龍之介 『神神の微笑』



 2021.12.3発信動画 

 2022.1.11発信動画
 

 

  






         

〈後記〉

 白山の写真の中または右横を左クリック

   すると拡大できます。

 当講座NO.102、112、116、120、170

 に白山関連の記事があります。




〈追記〉

 2021.10.8 に新井信介さんから中国の

 専門家の推背図解説動画が送られてき

 ました。

 日本語で推背図を翻訳す第57象

 


 2022.1.12 に新井信介さんから以下の

 動画が送られてきました。この動画に

 8万件のアクセスがあったそうです。

 【新井信介:2020年3月29日メッセージ】



 2022.2.21 新井さん発信動画

 369・ミロク・弥勒

 新井さんとマドモアゼル・愛さんとの対談

    参考

  新井信介/マドモアゼル・愛  共著

   『1991-2003 大予言・大予測
    -来る時代 去る時代』(総合法令出版)

       当講座記事NO.235、北京五輪から

       当講座記事NO.224、春を招くおわらの風

     当講座記事NO.273、「水」のながれ



 白山 弥陀ヶ原 黒ボコ岩

    中山 由さん 2022.11.4正午撮影




〈追々記〉

 李白の静夜思についての余話
 当講座記事NO.189から

「古池や蛙飛びこむ水の音」の句につい

て僭越ながら素人の思いつきを記します。

この〈古池や〉の句は、李白の静夜思の

第一句「牀前看月光」の「牀」を芭蕉は

「井戸」と解釈し、莊子の「井の中の蛙」

にヒントを得て、李白を偲んだ句ではな

いでしょうか。静夜思で李白が偲んだの

は、李白が育った四川省の故郷なのかも

しれませんが、生まれ故郷のスイアーブ

とも考えられないでしょうか。このこと

は、当講座の NO.176 の新井信介さんの

記事と NO.184 の記事を見てそう思った

しだいです。

さらに言えば、芭蕉は、新井信介さんが

語るような史実を世界的な視野をもって

(「井の中の蛙」であると謙虚に自覚し

ながらも)、当時、既に知っていたので

はないでしょうか。

さすれば、古池とはイシククル湖、蛙は

月光、音は湖面に浮かんだ月景色のこと

ではないでしょうか。

いずれにしても〈古池や〉は、静夜思の

真髄、李白の郷愁、李白への敬慕を俳句

にしたものではないでしょうか。

芭蕉の全句にわたって、李白を生涯の師

とする芭蕉の思いが伝わってくるように

感じます。

古池の蛙は大海を知ったのでしょうか。

          (2021.9.21夜.編集人)




〈追々々記〉

 当講座記事 NO.304 に上記記事を

 『瓊音(ぬなと)のひびき』と題

 して再掲しました。

 併せて見ていただければ幸いです。

              (2023.6.5)


304、瓊音(ぬなと)のひびき

2023.10.18 新井信介さん  
これまでで一番いい話

白山禅定道での気づき烟霞の侶(「火」火偏を「心」立心偏に)





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 【2024年7月1日配信】小社発信記事 「現代の声」講座 トップページへ .            「現代の声」講座全記事項目の紹介 NO. 223、「職」に関する記事 314、「哲学」に関する記事 227、「コロナ」に関する記事 228、「スポーツ」に関する記事 229、「自然」に関する記事 230、「教育」に関する記事 231、「歌」「音」「踊り」「情」に関する記事 232、「歴史」「非戦」に関する記事 233、「人文」「人権」「人道」に関する記事 170、   世界に響けこの音この歌この踊り 237、   当講座登場作家とその作品・書籍紹介 240、   当講座推薦動画・ツイッターXなど紹介 290、   川柳、俳句、短歌、和歌、詩、小説紹介 当講座記事の開き方  「現代の声」講座へアクセスをいただき 有り難うございます。 NO. 300とNO. 338 の記事でも紹介しましたが、改めて以下の とおり再度記します。  この講座の趣旨は、「講座の開設にあた って」を見ていただければ幸いです。  当講座を自由に使っていただければ嬉し く思います。  記事を見つけやすくするために記事項目 を上に記しました。  各記事項目を左クリックすると各記事の タイトルが出てきます。その記事タイトル または「続きを読む」を左クリックすると 記事が出てきます。  画面右側目次と併せて何か参考になれば 幸いです。   また、当講座へのご寄稿や当講座記事の 内容等についてのご批判、ご意見、ご感想 など次のメール宛にていつでもいただけれ ばなお有り難いです。   (当講座編集人)    gendainokoe@gmail.com      当講座の画面にある「前の投稿」を左ク リックすると各記事の冒頭部分が順次出て きます。  「ホーム」を左クリックすると一番最初 の画面に戻ります。  「新しい投稿」を左クリックすると一つ 前の画面に戻ります。  また、画面右側の目次の各記事タイトル を左クリックすると、その記事がすぐに出 てきます。目次の NO.215 以降の記事は、 各月別にまとめてあります。「過去の記事」 を適宜左クリックするとタイトルが出てき ます。  「人気の記事」は、最近一ヶ月間にアク セスが多かった記事10本を上から人気順に 紹介してあります。  各記事中の写真は、写真の

307. 職人の心意気 -「技」の文化 -

 【2023年7月3日配信】   手作りへのいざない    -「技」の文化-     縫い針のひとはりに込める夢  敦賀市 宮岸 かなえ                     てのひらに落ちる雨滴が灯をともす     鹿児島市 井上 治朗                        器(うつわ)  器への思い    九谷焼絵付師  宮保 英明         用という約束の形を提供しながら、その 形の中でどれだけ新鮮な自身の感覚を保ち 得るか、どんな可能性を引き出し得るか、 自身を試す姿勢で器と向かい合いたい。  自意識による変身、習慣のタガをはずし、 本来まったく自由に扱える創作表現への自 意識を、材質としての焼きものにぶつけた い。  盛られる料理に好かれる器。使いよくて 楽しくて、ついつい使ってしまう器。見た 目に静かで、しかし強い存在感を持ち、素 直に語りかけてくる。そんなものを心がけ てつくりたい。 みやぼ ひであき 20歳から絵付けをはじめる。 1950年石川県白山市生まれ。 石川県加賀市日谷(ひのや)在住。 日谷川をはさんで両側に民家と山が並ぶ。 谷間の村・日谷の向こうには人はいない。 宮保家の裏もすでに森である。 仕事をするのにいい場所をさがし歩き、 1984年の夏、白山市から引っ越してきた。 「ときどき熊が顔を出す」と妻の文枝さん。 小社発行・『北陸の燈』第4号より 撮影・八幡スタジオ 当講座記事NO.21、249再掲 当講座記事NO.223、「職」に関する記事から     芭蕉布ムーディー綾番匠くずし 平良 敏子   鋏 川澄 巌  文駒縫(あやこまぬい) 竹内 功   匠  足立区が誇る「現代の名工」    当講座記事NO.269、「世界屈指の技と清ら」から   流し猫壺 河井 寛次郎      「祖父寛次郎を語る」鷺 珠江さん     当講座記事NO.280、「湯の人(4)」から   樹 -卒業制作- 青木 春美     当講座記事NO.22、「織を通して学んだこと」から     絹本著色方便法身尊影  1500年製作      当講座記事NO.72、「松帆榭にて」から   千年の土 珠洲焼 篠原 敬    当講座記事NO.296、「あの日のこと」から     バンチェン土器   タイ・バンチェン遺跡     当講座記事NO.288、「個

366. 来たる時代への提言(5)

 【2024年10月5日配信】小社発信記事    当講座記事NO.300、338、348、362の続き           来たる時代への提言(1) .           来たる時代への提言(2) .          来たる時代への提言(3) .         来たる時代への提言(4) .                政治、ジャーナリズム、思想、文化を考える 新しい思想、哲学は可能か .             佐藤章さんの発言を重心に考える 311 レジェンド記者、真実を追う 319 何者でもない者が生きる哲学 320 来たる時代への提言(本記事 最新 順) 佐藤章さん、ホームページ開設 2024.10.1 石破茂首班指名臨時国会中継録画 冒頭で小川淳也が石破に手をふるわせながら 「国会で厳しい議論をしよう」と呼びかける 大石晃子が紙での抗議、議長が降壇を命じる       「こういう茶番はやめろ」、と叫んでいるようだ。   「演壇で物品を掲げる行為はおやめください」と、    額賀福志郎は渡されたメモを読んでいるようだ。       2024.6.3 大石晃子国会質問    傍らに野田佳彦が 2024.10.1 佐藤章さん 上の小川淳也立憲幹事長.「正論の刃」発言を解説 石破政権の課題を鋭く指摘、これに応えられるか 石破内閣大目玉人事.村上誠一郎総務相起用を解説 安倍晋三を「国賊」と呼び「筋」と「正論」貫く 佐藤章さん、ホームページ開設   2024.10.2 2023.11.15 佐藤さん尾崎豊を歌う   尾崎豊『ダンスホール』1984.3.15  東京新宿RUIDO 2024.10.2 スプートニク 「共通の運命を生きる人類共同体」構築に中露連携 2024.10.2 読売新聞 習近平が石破首相に祝電   石破アジア版NATO構想の懸念も含んでいる。   中露台韓北蒙、全東南アジア・オセアニアも   この構想に含めたら諸懸案が一気に解決する。    267 連帯はいかにして可能か・日本人の気骨 「戴季陶による大アジア主義の継承と展開」嵯峨隆   2024.10.2 朝日新聞 小沢一郎が立憲選対本部長代行に   総選挙、政権交代への態勢が整う   裏金脱税・統一協会議員に刺客を 2024.10.2 佐藤章さん 石破アジア版NATO構想の問題点、インドは無

224. 天と地をつなぐ「おわらの風」

【2022年1月22日配信】   大寒           七尾市 石島 瑞枝             雪解けの春風を待つ坂の町               秋風 (2023.9.3)            横浜市 髙祖 路子    夜流しの音色に染まる坂の街                         鏡町地方衆、先人のご苦労をしのびその息吹に応える夜流し .  今町のおわら .      2023.9.3 最終日、西町青年団最終おわらの舞い .                               撮影 木偶乃坊写楽斎さん         〈参考〉                               越中八尾おわら風の盆               「深夜の夜ながし」      日本と日本人が失くしてしまった、  奪 われてしまった温かい心情、 郷愁  --それらを求めて各地から 数多の  見物者 が、 魅入られたかのように、  取りもどす か の ように八尾へ と 足を  運 ぶ の だろうか。  高橋治と石川さゆりの『風の盆恋歌』  の影響が大きいとも八尾ではいわれ  て いる。言葉と 歌の 力のすごさか。  事実、この 歌 の前と後とでは、風の  盆訪問 者 数に圧倒的な差がある。  紅白で、「命を賭けてくつ がえす」  と、着物の 袖 を 強く 握りしめ 揺さぶ  り ながらうた った 「くつがえす」の  一語の中に、日本の 歌手 として歩ん  できた 石川さゆりの、 自 らの心の奥  底にある深い 懐 いをも 包んだ 全 情念  が 込め ら れて い る。  旅人の多くが八尾に滞在してい る中、  わずかのさすがの通だけが、おわら  本来 の良 さ が漂っている深夜の夜流  し の、 後ろ姿を見ている。個性 ある  いで たちもすばらしい。  おわらは見せるものなのか、見られ  るこ とを意識すらせずに心ゆく まで  自ら楽しむものなのか。あるいはま  た、…… …… 高橋治と 石川さゆりは、  諸々のことを考える、見直すための  たいへ ん な「契機」 を 与 えて くれ た  ので ある 。    個人的な所感を述べれば、おわらは  縄文と江戸の文化が八尾で花開いた  ような気がする。  (当講座編集人)    鏡町の踊りに魅入

328. ふるさとなまり

 【2024年1月28日配信】   おばばの言葉                       白山市 番匠 俊行                                私の両親は石川県石川郡美川町(現白山 市)に生まれ育ちました。両親のそれぞれ の両親も同町の生まれ、育ちです。除籍簿 を見ると、私の先祖は全員、明治初期から 同町の住人でした。  私は高校時代まで美川で育ち、そのあと 関東の大学を卒業し、宮城県内で就職し、 現在、郷里の美川で塾教師をしています。  私の祖母は1900年生まれで伝統産業 の美川刺繍をしていました。亡くなるまで 町から一歩も出たことがなく、町の人たち との会話を楽しみに生きていたようです。  その会話を耳にした一端をご紹介します。  美川町は手取川の河口の町で日本海に面 しています。作家の島田清次郎、詩人の邑 井武雄、政治家の奥田敬和、歌手の浅川マ キ、五輪トランポリン選手の中田大輔らの 出身地でもあります。  「美川弁」といってもいい言葉は、隣町 の能美郡根上町(現能美市)や能美郡川北 村(現能美郡川北町)、石川郡松任町(旧 松任市、現白山市)ともちょっと異なって いると思います。  私は金沢市内の高校に通ったのですが、 私の話す言葉がおかしいと、いつも友人に 笑われていました。言葉だけで伝えるのは 難しいのですが、動詞、形容詞、形容動詞 のエ音便がイ音便になったり、また、人名 や名詞の発音のアクセントや抑揚、強弱、 長短が独特みたいです。  鹿児島弁が混じっているのではないかと 言う人もいます。もしそうであれば、最初 の石川県庁が美川町に置かれたことと関係 しているのかもしれません。内田政風とい う薩摩藩士がトップとなりはるばるこの町 にやって来たと聞いています。ひょうきん な美川の人たちが薩摩から来た役人たちの 言葉をおもしろがって真似して、流行らせ、 それがそのまま一部根づいたのではないか と思ったりもしています。  内田はなぜか金沢県とすることを拒否し、 県名を石川郡から拝借して石川県にし、さ らに「美川県」にとまで県名をかえようと したと聞きます。石川県はあわや美川県に なっていた可能性もあったということです。  これはこれでおもしろい話ですが、内田 は、美川町を中心にした金沢以上の新たな 県都を、白山を源として流れる

319. 何者でもない者が生きる哲学  

【2023年11月4日配信】         考えることがなぜ大切なのか    小を積めば即ち大と為る. 『報徳記』富田高慶1856    二宮尊徳翁曰く 「励精小さなる事を勤めば大なる事必ずなるべし。  小さなる事をゆるがせにする者、大なる事必ず  できぬものなり」     読書のすすめ 背負い歩き考える二宮金治郎          ロダンの『考える人』よりもりっぱに思える         薪を負いて名定まる         損得から尊徳の世へ 哲学の時代へ(第14回)                                        以下の文はkyouseiさんという方のnote にある文です。偶然みつけ共感するものが ありこれまで何度か勝手にその文を紹介し てきました。どこのどなたかまったく存じ 上げませんが、またお叱りを受けるかもし れませんが、本日掲載の文をご紹介します。 (当講座編集人)            本当の哲学とはなにか            note での投稿も長くなった。 連続投稿 が 370 を超えたようだ。そんなことはどう で もい いことだが、ぼくはこれまで 「哲学」 だと 思って書いていた記事は、「本当に哲 学 な のだろうか」と思うことがよくある。 皆の言う「哲学」は、「○○哲学では…」 と 難しい話をよく知っている。 ぼくはというと、思考を治療的に使って 現 状の維持、回復を狙うものだ。 「何が不満か」「何がそうさせるのか」と いった答えを探すものだ。だから「治療的 哲学」と銘打っているのだが、はたしてそ れは哲学なのだろうかと思うこともある。 ぼくの哲学は「結果が全て」であり、再 現 性も求める。結果が出ないとすれば、や り 方がまずかったとすぐに修正する。自分 自 身を実験台にして確かめるのだ。 難しい話を好まないのは「使えない」 か ら だ。使えないものは真理ではないと 考え て いる。 だからといって、ぼくの視野が広いか とい えばそうではなく、個人という狭い世 界観 をどう変えるかといったものだ。 「大したことないな」と思われるだろう が、 では、誰がこれまでそのことに挑戦し てき ただ ろうか。 他人の褌で相撲を取る話ならいくらでもあ る。傍観者という意味だ。 ぼくの哲学には答えがないかもしれない。 変更

275. スポーツを文化にするために

【2022年10月10日配信】      「学生野球考」      慶應義塾大学野球部監督   前田 祐吉   史上最高演技   史上最高選手      勇気ある発言   「オンニ、ここで記念に一緒に撮りましょ」   「オレは笑わないが、笑って何が悪いんだ」  葉隠・武士道を覆す号泣                       「サード!もう一丁!」「ヨーシこい」 と いう元気な掛け声の間に、「カーン」と いう 快いバットの音がひびくグラウンドが 私の職 場である。だれもが真剣に野球に取 り組み、 どの顔もスポーツの喜びに輝いて いる。息子 ほどの年齢の青年たちに囲まれ、 好きな野球 に打ち込むことのできる私は、 つくづく、し あわせ者だと思う。  学生野球は教育の一環であるとか、野球 は人間形成の手段であるということがいわ れるが、私の場合、ほとんどそんな意識は ないし、まして自分が教育者だとも思わな い。どうしたらすべての野球部員がもっと 野球を楽しめるようになるのか、どうした らもっと強いチームになって、試合に勝ち、 選手と喜びを共にできるのか、ということ ばかり考えている。  野球に限らず、およそすべてのスポーツ は、好きな者同志が集まって、思いきり身 体を動かして楽しむためのもので、それに よって何の利益も求めないという、極めて 人間的な、文化の一形態である。百メート ルをどんなに早く走ろうと、ボールをどれ だけ遠くへカッ飛ばそうと、人間の実生活 には何の役にも立たない。しかし、短距離 走者はたった百分の一秒のタイムを縮める ために骨身をけずり、野球選手は十回の打 席にたった三本のヒットを打つために若い エネルギーを燃やす。その理由は、走るこ とが楽しく、打つことが面白いからにすぎ ない。さらにいえば、より早く走るための 努力の積み重ねが何物にも替えがたい喜び であり、より良く打つための苦心と練習そ のものに、生きがいが感じられるからであ る。  このように、スポーツは余暇を楽しみ、 生活を充実させるための手段で、それ以外 には何の目的もないはずである。むしろ目 的のないことがスポーツの特徴であり、試 合に勝つことや良い記録を出すことは、単 なる目標であって終局の目的ではない。  かつて超人的な猛練習でスピードスケー ト の王者といわれ、冬季オリンピックの

266. 混迷する現代と統一協会 

【2022年8月28日配信】        親友ヨッチにささげる手記          -最期まで友情を信じて-                  石川県河北郡津幡町                 書店員 22歳  酒井 由記子  人は、どんな人と巡り合うか、どんな本 と出会うかによって人生が決まってくると、 ある作家が述べていたのをふと思い出す。 私にとってはまさにそうであった。出会っ た人達も書物もとても大きな影響を残し、 忘れられない出来事となっていったのであ る。   一、高校生の頃  今から六年前(1977年)、私は金沢 二水高校の二年生であった。いや二年生と いうより吹奏楽部生というほうが適切であ るほど私は部活動に情熱を注ぎ込んでいた。 みんなでマラソン、腹筋運動をしてからだ を鍛えあげ、各パートごとでロングトーン をして基礎固めをなして、全員そろって校 舎中いっぱいに響きわたるハーモニーを歌 いあげる。それは、先輩、後輩、仲間達の 一致によって一つの音楽をつくり出すとい う喜びを存分に味わった私の青春時代の真 っ盛りであった。ただ残念なことは、部活 動に熱中すればするほど勉強のほうはさっ ぱり力がはいらなかったことである。中学 生のときは、「進学校にはいるために」と いうただそれだけの目的で受験勉強ができ た。しかし、いざ高校にはいってみると、 また「いい大学にはいるために」と先生方 が口をすっぱくして押しまくる文句に素直 になれなかった。勉強する本当の意味が見 出せなかったのである。その頃から、私は 人間は何のために生きるのだろうかという ことまで突っ込んで考えるようになってい った。  父母が書店を経営しているため本は充分 にあり、書物を読むことによって答えを見 出そうとした。私の強い求めに応じるかの ように一冊の本が転がり込んできた。クリ スチャン作家である三浦綾子さんの『あさ っての風』という随筆集であった。聖書の 言葉がそこに登場しており、それはズシリ と心に響いたのである。その本に魅せられ て三浦さんの自叙伝も何冊か読み進めてい った。しだいに私の魂は、人間をはるかに 越えた大いなる存在があることを感じてい った。確信までは至らなかったけれども、 それらの本によって金沢のプロテスタント の教会に足を運び、牧師さんのお話を聞く ようにもな

280. 湯の人(その4)現実と夢

 【2022年11月22日配信】   大きな便り                       加藤 蒼汰          秋とはいっても冬のような寒い夜だった。 浴室にはだれもおらず、脱衣場には番台に 座っている銭湯の主人と私ともうひとり。  その人は銭湯の近所の人であり、かつて 高校の教員をしていた。在職当時、馳浩・ 現石川県知事を教えていたと語っている。 八十歳を超えている。  この銭湯でよく顔を合わせ、会うたびに 知事の高校在学中のエピソードを繰り返す ので、私はその話の内容をすっかり諳んじ られるようになってしまった。高校入学時 から卒業までの様子、レスリング部での活 躍などであるが、私が特に感銘を受けた話 は、知事は高校時代、冬、雪が降り積もっ た朝には真っ先に早出登校して、生徒・教 職員を思いやり、校門から校舎玄関入り口 までの路をひとりスコップで雪かきをして いたというくだりである。  そんなすばらしい教え子をもつ元先生が、 服を脱ぎ裸になって浴室入り口に向かって 五、六歩あるきながら大便を三個落とした のである。気づかずに落ちたようなので、 私は「先生、落としもの」と声をかけると、 「ありりー、まったく気いつかんかった。 あはははは」と笑うのである。  私は、脇にあったチリトリでこの塊をす くいとり、「みごとな色と固さやね」と言 いながらトイレに流した。しかしながら、 脱衣場にはその匂いが全面に沁みわたり、 息が苦しくなるほどだった。このとき私は、 幼いころサーカスを見たときのことを思い だした。  それは曲芸をしていた象が巨大な大便の 塊を三個落とし、団員があわててスコップ で拾いあげていた光景であった。このとき の衝撃の記憶がよみがえり、私にとっさに チリトリを思いつかせたような気がする。 本を読んでいた番台の主人もその匂いで事 のいきさつに気づき、「匂いもすばらしい ね」と笑いながら脱衣場の窓を全開し床を 雑巾でふいてくれたが、その強力な匂いは 容易に消えなかった。  その間、先生は先に浴槽へ入り、気持ち よさそうに浸かっていた。私は先生と湯壺 にいっしょに漬かることに一瞬躊躇したが、 免疫機能が高まるまたとないチャンスでは ないかとの思いも何ゆえか突然こみあげて きて湯船に同席、お伴したしだいである。  「よくあることなんけ」と湯中、思わず

303. 教え子を再び何処へ送るのか

【2023年5月25日配信】   マスクをめぐる学校との苦闘                   千葉県 今野 ゆうひ  17歳                          2019年。新型コロナウイルスが突如 として私たちの生活に現れました。何もわ からないまま政府に舵をゆだね、ウイルス の災いとして ”コロナ禍” は四年目に突入し ました。 当時中学三年生だった私の日常も  “コロナ禍” によって一変しました。  外出自粛、一斉休校、ソーシャルディス タンス、マスク、消毒...   それら政策を半ば面白がりながら、20 21年まで三年間、流されて過ごしました。  人との接触をなるべく避けながらいかに 楽しめるか。マスクをしていかにおしゃれ をできるか。いつしか私たちの生活は“コロ ナ禍”ファーストへと姿を変えていました。  2021年、高校一年生になった私も“コ ロナ禍”ファーストな高校生活を送っていま した。  その年の夏、母と私は新型コロナと全く 同じ症状を発症。病院に行っても薬がない ので PCR検査などはしていませんが、あの 症状は確実に新型コロナだったと思います。 その時母と、“コロナ禍” ファーストな生活 をしていても感染はするし、普通の風邪と 同じように治るということに気づきました。  もちろん個人差はありますが、なぜここ まで徹底して感染源を特定したり外出制限 をしたりするのか、その時からじんわりと 疑問が生まれます。  経験は人を変化させますね。  そんなこんなで私と母は、自転車に乗っ ている時だけ。から始まり、すこしずつマ スクを外すことにしました。  ある日、母と一緒に近くの大きめのスー パーで買い物をすることになります。 「注意されるまでマスクしないで入ってみ るわ」  正直遊びの部分もありました。ちょっと 面倒くさくなっちゃったのです。強い意志 もないただのチャレンジだったので、何か 言われたらすぐ付けるつもりでした。  ところが、なんかいけちゃったのです。 一時間弱いたものの、誰にもなんにも言わ れず買い物終了。  なんということでしょう。今までやって きたことはなんだったんだと思うほどあっ けなくチャレンジは成功。今思えば、この スーパーで何か言われていたら、この文を 書くこともなかったです。大いに感謝です。  その日から勢い
         柿岡 時正
         廣田 克昭
         酒井 與郎
         黒沢  靖
         神尾 和子
         前田 祐吉
         廣田 克昭
         伊藤 正孝
         柿岡 時正
         広瀬 心二郎
         七尾 政治
         辰巳 国雄
         大山 文人
         島田 清次郎
         鶴   彬
         西山 誠一
         荒木田 岳
         加納 韻泉
         沢田 喜誠
         島谷 吾六
         宮保 英明
         青木 晴美
         山本 智美
         匂  咲子
         浅井 恒子
         浜田 弥生
         遠田 千鶴子
         米谷 艶子
         大矢場 雅楽子
         舘田 信子
         酒井 由記子
         酒井 由記子
         竹内 緋紗子
         幸村  明
         梅  時雄
         家永 三郎
         下村 利明
         廣田 克昭
         早津 美寿々
         木村 美津子
         酒匂 浩三
         永原 百合子
         竹津 清樹
         階戸 陽太
         山本 孝志
         谷口 留美
         早津 美寿々
         坂井 耕吉
         伊佐田 哲朗
         舘田 志保
         中田 美保
         北崎 誠一
         森  鈴井
         正見  巖
         正見  巖
         貝野  亨
         竹内 緋紗子
         滋野 真祐美
         佐伯 正博
         広瀬 心二郎
         西野 雅治
         竹内 緋紗子
         早津 美寿々
         御堂河内 四市
         酒井 與郎
         石崎 光春
         小林 ときお
         小川 文人
         広瀬 心二郎
         波佐場 義隆
         石黒 優香里
         沖崎 信繁
         山浦  元
         船橋 夕有子
         米谷 艶子
       ジョアキン・モンテイロ
         遠藤  一
         谷野 あづさ
         梅田 喜代美
         小林 ときお
         中島 孝男
         中村 秀人
         竹内 緋紗子
         笠尾  実
         前田 佐智子
         桐生 和郎
         伊勢谷 業
         伊勢谷 功
         中川 清基
         北出  晃
         北出  晃
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         濱田 愛莉
         伊勢谷 功
         伊勢谷 功
         加納 実紀代
         細山田 三精
         杉浦 麻有子
         半田 ひとみ
         早津 美寿々
         広瀬 心二郎
         石黒 優香里
         若林 忠司
         若林 忠司
         橋本 美濃里
         田代 真理子
         花水 真希
         村田 啓子
         滋野 弘美
         若林 忠司
         吉本 行光
         早津 美寿々
         竹内 緋紗子
         市来 信夫
         西田 瑤子
         西田 瑤子
         高木 智子
         金森 燁子
         坂本 淑絵
         小見山 薫子
         広瀬 心二郎
         横井 瑠璃子
         野川 信治朗
         黒谷 幸子
         福永 和恵
         小社発信記事
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         秋山 郁美
         加藤 蒼汰
         森本 比奈子
         森本 比奈子
         吉村 三七治
         石崎 光春
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         前田 佐智子
         中野 喜佐雄
         八木  正
         堀  勇蔵
         家永 三郎
         広瀬 心二郎
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         菅野 千鶴子
         海野 啓子
         石井 洋三
         小島 孝一
         キャリー・マディ
         谷本 誠一
         宇部  功
         竹内 緋紗子
         谷本 誠一
         酒井 伸雄
163、コロナ禍の医療現場リポート
         竹口 昌志
164、この世とコロナと生き方を問う
         小社発信記事
165、コロナの風向きを変える取材
         橋本 美濃里
166、英断の新聞意見広告
         小社発信記事
167、ワクチン接種をしてしまった方へ
         小社発信記事
168、真実と反骨の質問
         小社発信記事
169、世論を逆転する記者会見
         小社発信記事
170、世界に響けこの音この歌この踊り
         小社発信記事
171、命の責任はだれにあるのか
         小社発信記事
172、歌人・芦田高子を偲ぶ(1)
         若林 忠司
173、歌人・芦田高子を偲ぶ(2)
         若林 忠司
174、歌人・芦田高子を偲ぶ(3)
         若林 忠司
175、ノーマスク学校生活宣言
         こいわし広島
176、白山に秘められた日本建国の真実
         新井 信介
177、G線上のアリア
         石黒 優香里
178、世界最高の笑顔
         小社発信記事
179、不戦の誓い(2)
         酒井 與郎
180、不戦の誓い(3)
         酒井 與郎
181、不戦の誓い(4)
         酒井 與郎
182、まだ軍服を着せますか?
         小社発信記事
183、現代時事川柳(六)
         早津 美寿々
184、翡翠の里・高志の海原
         永井 則子
185、命のおくりもの
         竹津 美綺 
186、魔法の喫茶店
         小川 文人 
187、市民メディアの役割を考える
         馬場 禎子 
188、当季雑詠
         表 古主衣 
189、「緑」に因んで
         吉村 三七治 
190、「鶴彬」特別授業感想文
         小社発信記事
191、「社会の木鐸」を失った記事
         小社発信記事
192、朝露(아침이슬)
         坂本 淑絵
193、変わりつつある世論
         小社発信記事
194、ミニコミ紙「ローカル列車」
         赤井 武治
195、コロナの本当の本質を問う①
         矢田 嘉伸
196、秋
         鈴木 きく
197、コロナの本当の本質を問う②
         矢田 嘉伸
198、人間ロボットからの解放
         清水 世織
199、コロナの本当の本質を問う③
         矢田 嘉伸
200、蟹
         加納 韻泉
201、雨降る永東橋
         坂本 淑絵
202、総選挙をふりかえって
         岩井 奏太
203、ファイザーの論理
         小社発信記事
204、コロナの本当の本質を問う④
         矢田 嘉伸
205、湯の人(その2)
         加藤 蒼汰
206、コロナの本当の本質を問う⑤
         矢田 嘉伸
207、哲学の時代へ(第1回)
         小社発信記事
208、哲学の時代へ(第2回)
         小川 文人
209、コロナの本当の本質を問う⑥
         矢田 嘉伸
210、読者・投稿者の方々へお願い
         小社発信記事
211、哲学の時代へ(第3回)
         小社発信記事
212、哲学の時代へ(第4回)
         小社発信記事
213、小説『金澤夜景』(2)
         広瀬 心二郎
214、小説『金澤夜景』(3)
         広瀬 心二郎