303. 教え子を再び何処へ送るのか
【2023年5月25日配信】
マスクをめぐる学校との苦闘
千葉県 今野 ゆうひ 17歳
2019年。新型コロナウイルスが突如
として私たちの生活に現れました。何もわ
からないまま政府に舵をゆだね、ウイルス
の災いとして ”コロナ禍” は四年目に突入し
ました。 当時中学三年生だった私の日常も
“コロナ禍” によって一変しました。
外出自粛、一斉休校、ソーシャルディス
タンス、マスク、消毒...
それら政策を半ば面白がりながら、20
21年まで三年間、流されて過ごしました。
人との接触をなるべく避けながらいかに
楽しめるか。マスクをしていかにおしゃれ
をできるか。いつしか私たちの生活は“コロ
ナ禍”ファーストへと姿を変えていました。
2021年、高校一年生になった私も“コ
ロナ禍”ファーストな高校生活を送っていま
した。
その年の夏、母と私は新型コロナと全く
同じ症状を発症。病院に行っても薬がない
ので PCR検査などはしていませんが、あの
症状は確実に新型コロナだったと思います。
その時母と、“コロナ禍” ファーストな生活
をしていても感染はするし、普通の風邪と
同じように治るということに気づきました。
もちろん個人差はありますが、なぜここ
まで徹底して感染源を特定したり外出制限
をしたりするのか、その時からじんわりと
疑問が生まれます。
経験は人を変化させますね。
そんなこんなで私と母は、自転車に乗っ
ている時だけ。から始まり、すこしずつマ
スクを外すことにしました。
ある日、母と一緒に近くの大きめのスー
パーで買い物をすることになります。
「注意されるまでマスクしないで入ってみ
るわ」
正直遊びの部分もありました。ちょっと
面倒くさくなっちゃったのです。強い意志
もないただのチャレンジだったので、何か
言われたらすぐ付けるつもりでした。
ところが、なんかいけちゃったのです。
一時間弱いたものの、誰にもなんにも言わ
れず買い物終了。
なんということでしょう。今までやって
きたことはなんだったんだと思うほどあっ
けなくチャレンジは成功。今思えば、この
スーパーで何か言われていたら、この文を
書くこともなかったです。大いに感謝です。
その日から勢いづいた私は、どこでもマ
スクをしなくなります。お店でも、電車で
も。もちろん喧嘩がしたいわけではないの
で、何か言われたらするつもりでした。
ところが、何か言われることは全くと言
っていいほどありませんでした。
ただひとつ。学校を除いては。
学校
学校以外のいろいろな場所でマスクを外
しだした中で、学校だけは変わらずマスク
をして登校していました。
そうはいっても、学校というのは学生の
生活の半分以上を占める場所。そんな学校
の中で、自分が嫌なことをしているのに違
和感を持ちはじめました。学校内の自分と
学校外の自分とのズレが、気になるように
なったのです。
そこで、授業中の喋らない場面から始め
て、少しずつマスクを外すようにしてみま
した。しかしスーパーのようにはうまくい
かず、すぐに先生が飛んできて、
「マスク付けなさい!」
と注意されました。その後も何度か注意
を受けつつも、先生の目を盗んでマスクを
外し続けました。
攻防を続けたある日、担任、年次主任に
呼びだされ、三者面談で話すことになりま
した。
「なぜマスクをしたくないのか」という
質問に、私は説明しました。まず第一に、
マスクは意味がないこと。さらに、マスク
をしないことについて何か思うことがある
人は、先生を介さず直接私と話をしたらい
いということ。
実際、マスクの網目や上下左右の隙間の
ことを考えると、マスクには新型コロナ感
染を防ぐ機能は期待できませんし、感染予
防として機能させるには一時間ごとに新し
いものに付け替えなくては効果はありませ
ん。
なぜ意味のないことをしなくてはいけな
いのかわからなかったですし、「怖がって
いる人もいるから」という先生の発言にも
「はてな」でした。そういう人はマスクし
てない張本人に言えばいいと思うからです。
「じゃあ喋るときだけ口元に布を当てるの
はどう?」
と先生の提案に、
「わかりました。やってみます」
と返してその日は下校しました。
その後、布を当てることを実践しました
が、どうにもマスクとの違いを感じられず、
さらに学校以外の場所で外していると息苦
しさも大きくなり、続きませんでした。
さらにまた同じような形で面談に呼ばれ、
今度はマウスシールドを私から提案します。
正直、つばやら息やらで水滴が付くよう
なキモチワルイものしたくなかったのです
が、その時は外したい気持ちが大きく、半
ばやけのような気持ちで提案しました。
その時学年主任は、「いいわね~」なん
て言って承諾してくれました。ところが、
マウスシールドを購入し、付けて学校に行
くと、担任から「それじゃダメです、誰が
許可したんですか」なんて言われてしまい
ました。
年次主任に許可されたことを伝えると、
担任は管理職に確認を取り、それではガイ
ドラインに引っかかるという理由で認めら
れませんでした。
2022年
三月二十五日
謎劇開幕
春休みの真っただ中、その電話はかかっ
てきました。電話は教頭からで、なぜ今野
さんはマスクをしないのか。といった内容
の電話でした。教育委員会・保健安全課の
指導の下、マスクの着用は『強制』である。
と、電話口ではっきりと母に言い放ったそ
うです。
『強制』はできないことを知っていた母
は、保健安全課へと確認電話をしました。
電話対応をした方は「強制ではない、校名
を教えてくれれば学校に指導する」とのこ
とで、その方に校名と氏名を伝えました。
この電話の録音はありませんが、『強制』
という言葉については何度も通話内で確認
を取りました。
千葉県立高校2年
四月七日
第一回面談~魂の説得編~
教頭から呼ばれ面談へ。面談に出席した
のはなんと担任、年次主任、教頭、生徒会
顧問の四人と、私と母。異様な雰囲気の中、
「学校の裁量で許されるのは不織布マスク
を強要しないこと」
「学校の対応はすべて県のガイドラインに
沿ったものである」
「マスク着用は半ば強制である」
「マスク着用はルール」
「学校の安全を脅かす」
「話すときには布を当てる、当てられない
なら喋らない」
「マスクをしたり、口鼻を覆うことができ
なければ学校生活はおくれない」
などの言葉で『説得』されました。
こちらはマスクをしたくない、学校はマ
スク、もしくは口鼻を覆ってほしい。どん
なに話しても平行線で、第一回面談~魂の
説得編~は閉幕しました。
四月八日
他己紹介
その日は二年次最初の日でした。出席番
号順に自己紹介をしていき、私の番が来ま
す。するとおもむろに、
「今野さんはマスクができないので、私が
今野さんの紹介をします」
と担任が言いだします。
教卓前にただ立つ私と、私の紹介をする
担任。たぶんクラスの多くが『何この時間』
と思ったことでしょう。今でもあれなんだ
ったのかわかりません。(笑)
もちろん完全サプライズです。私がお願
いしたわけではありません。
その後年次主任からはマスクについて、
「例外があるという意味で強制ではないが、
義務である」
とも言われました。
『義務』、『強制』なんだか国語の授業
が始まりそうです。
四月十二日
実質って付け加えれば、なんでもいいと
思ってる
またまた教頭からの電話にて、
「マスクは実質義務である」
「診断書提出も義務」
さらには、
「布等で口鼻を覆うことは実質強制」
とも。
どうやら学校は『実質』が好きなようで
す。いや、それは学校だけじゃないですね。
四月十三日
別室対応(という名の隔離)
学校はこの日から始業の日でした。朝の
HRが終わり、担任から、
「マスクをしないのなら授業には出せない
から、マスクをして授業に出るか別室に行
くか選んで」
と言われ、マスクはしたくないと答えま
した。
別室へ向かう途中、年次主任から一言。
「このままだと十月で(単位が)切れるね」
その一言までに、単位の話は一言も聞い
ていなかったので、急に留年などの話にな
り、驚いちゃいました。
四月十四日
そこまでするんだ!?
〈マスク着用による低酸素血症〉の診断
書を提出します。その後年次主任は病院に
電話し、口鼻を覆うこともできないという
診断かどうか確認したそうです。もちろん
口鼻を覆うことを“したくない”だけなので、
医師も「それについては本人の意志であり
診断はできない」と回答したそうです。
そりゃそうだ。
四月十五日
第二回面談~名言辞典編~
第二回の面談出席者は教頭、担任、年次
主任、母、ともう一人、私の現在につなが
る重要人物さんでした。面談でどうにか説
得したかった母は、Facebook 上で子ども
たちのマスクを外す運動をしている方たち
に相談していました。
その中でひとり、家が近い人と繋がりま
す。それが、A さんです。A さんは、お子
さんがマスクをせずに学校に行っていたこ
ともあり、親身に話を聞いてくれました。
それはもう、親身すぎるほどに。
親身すぎるAさん、なんと翌日(十五日)
の面談に資料を持って同席してくれること
に。やっぱり親身です。ありがたい。
そんな Aさんが同席してくれた面談。私
は出席していませんが、いろいろなことを
言われたそうです。
「別室でこなした課題や自習は単位にはな
らない」
書面での説明を希望したが断られ、オン
ラインでの授業は設備がないからできない
とのこと。
なぜ書面(形に残るもの)は断るんでし
ょう。
「別室に行くことは、本人が望んでいる」
「布を当てる行為ができないわけではない
のにしないのは、別室に行くことを望んで
いることと同じ」
そんなわけあるかい。私はただ何もせず
に授業を受けることを望んでいました。
「全ての教科に偏りがないように課題は出
せない。時間的に不可能」
個人的な感情としては、先生たちが忙し
いのは理解しています。
「だけどそんな言い方、切り捨て方はあま
りにやさしくないな」
と現在の私は思います。当時の私は怒っ
ていたし、自分が正しいことをいかにして
伝えるかで頭がいっぱいでした。
Aさんもマスクの害等を説明してくれま
したが響かず。
全ては書きだしませんが、突っ込みどこ
ろ満載の第二回面談も進展なしで終わりを
迎えます。
四月十八日
確認電話~みんな大好き曖昧くん編~
第二回面談から三日後、母は面談での話
の確認をとるため、教育委員会の保健安全
課へ電話をします。
マスクは義務ではなく、学校の裁量に任
せているという回答にプラスし、口鼻を覆
うことについては強制ではなくお願いだが、
してもらわないと困るということも言われ
たそうです。
さらに単位のことについては学習指導課
にまわされます。
学校からの報告をもとにした回答は、あ
まりに事実とかけ離れていました。
学校と保護者は口鼻を覆うことで合意し
ており、欠課扱いとは言っていないと回答
され、学習指導課は確認のため学校へ再度
電話をしました。
四月二十日
とりあえずなんでもお預かりしとけばい
い、と思わないで!
確認のため後日に持ち越された学習指導
課の回答は、なんだか煮えきらない回答。
「口鼻を覆うことについては、上席へ話を
上げて確認します」
なんのために電話を取るあなたたちがい
るんだ!と言いたい気持ちは、今のシステ
ムだ、しょうがない。で、抑えます。
一応母が教育委員会・教職員管理室へも
電話をかけますが、学習指導課と同じ見解
であり、一旦お預かりするとのこと。
どうせ返すつもりがないなら “お預かり”
しなくていいのに。
四月二十一日
言い訳校内放送~年次主任編~
朝のHR中突然の校内放送にて、
「一律な強制はどこでもしていない」
「会話時のマスク着用の徹底を県から要請
されている」
「自分の意志でマスクをしない、口鼻を覆
わない生徒は授業に参加させることはでき
ません」
という内容。
「私たちは悪くない」、そういう気持ちが
伝わってきてもやっとしたことを覚えてい
ます。
四月二十二日
そこまでして教室に入れたくないの?
マスクをせずに授業に出ようとすると、
廊下で通せんぼをされます。そのまま通ろ
うとすると、プチもみ合いに。
この時は双方意地の張り合いみたいなの
がありましたね。(笑)
そのまま母が呼びだされ臨時面談に。
「単位にならないことについての書面は出
す必要性がない」
「個人の人権よりも集団の人権が大事」
「ほかの生徒を守るため」
「マスクを付けないことは迷惑行為に当た
る」
などとかなりとげのある言い方をしてい
ました。強行突破しようとするのは予想外
だったんでしょう。
その日は教育委員会からも電話があり、
「単位の修得については学校の判断である」
のみでした。丸投げマン。
四月二十五日
言い訳放送~教頭編~
この日から私は学校に行かなくなりまし
た。別室に登校しても自習するだけ。体育
は受けられましたが、ほとんどを埃っぽい
生徒指導室で過ごすことに意味を見出せな
くなってしまいました。
時を同じくして学校では、二十一日の校
内放送とほとんど同じ内容の放送がされま
す。今度は教頭から伝えられたそう。ちょ
っぴり口調は洗脳風(?)
四月二十八日
矛盾しかない
やっぱりお預かりされたものが返ってこ
ないのでこちらから電話することに。
教職員管理室は担当おらず。
学習指導課は、
「副校長が話したいと言っているので学校
と話してほしい」
ここで一つ衝撃の事実。教頭と副校長は
違うらしく、校長、副校長、教頭がいると
のこと。分担できるほどの仕事は果たして
あるのだろうか・・・
「学校側は単位を与えないという話はして
いないと言っている」
学校の言い分的には、十月に単位修得が
確定するため今修得できるできないの話は
できない。ただ修得は難しいと言っている。
らしい。屁理k。
五月九日
第三回面談~新キャラ登場~
副校長に呼びだされ、私と母の三人で面
談することになりました。
私は、コロナウイルスとマスクの関係性、
国のコロナ対策について、マスクの危険性
などを独自にまとめた資料を持参し、先生
たちに渡しました。
副校長「県の通知は絶対です」「別室対
応の書類を出す必要性がわからない」
新キャラといえど、ほとんど今までと同
じようなことを話していました。
途中参加の年次主任「(資料は)私はい
らない」「公務員はあなたを抑えないとい
けない」
この時は特にひどいなーと思う言い方が
多かったです。一か月もイレギュラー続い
て、しびれが切れていたんだと思います。
さらに二十五日以前に年次主任の担当授
業に出た際、友達に話しかけると注意され
たのに対し、年次主任にノーマスクで話し
かけても何も言われませんでした。
それに関しては、
「距離が取れてると思ったから、授業時喋
ってもよいと思った」
実際、友達と年次主任との距離はほぼ同
じでした。もはや県の通知なんかじゃなく、
年次主任の目分量になっている。
私と母は、マスクや布を口鼻に当てない
と別室対応になることを、保護者全体に周
知してほしいと要望しました。
教室をすべて使えば距離も取れたと思い
ます。
五月十日
副校長電話~擦り付け合いを添えて~
翌日、副校長から連絡が。
別室対応によって単位が出ないことは、
学校の判断ではなく県の意向であると伝え
られました。
どんなに学校に言っても県の意向、どん
なに教育委員会に言っても学校の采配に任
せている。
どっちにしろ登校しても単位にならない
ので、マスクをして学校に行くことよりも
他を選びました。
五月二十六日
鼻炎とテスト
テストだけは喋る場面がないのでマスク
をせずに教室で受けることになりました。
片手で数えられるほどしか授業に出ていな
かったので、問題を読むだけで終わりまし
たが・・・(笑)
テスト中、鼻炎持ちお得意のくしゃみを
ひじの内側で受けたことにより、母に教頭
から電話が来ます。
「周りの人はアレルギーか風邪かわからな
くて怖がる」
「ひじの内側でくしゃみを受け止めるのも、
飛沫が飛ぶのでダメ」
※咳エチケットには「ひじの内側でくし
ゃみを受けましょう」と記載されています。
さらにこの日、マスクをしないなら人に
挨拶も謝罪もしないように。と年次主任や
担任に注意を受けます。それについて教頭
は、
「いいことではないが安全を守るためにい
たしかたない」
という。
この人たちにとっては、死亡率零パーセ
ントのウイルスから体を守るために、物理
的にウイルスを防げないモノを付けること
が、挨拶や謝罪という社会参画のためのコ
ミュニケーションよりも大切なのだ。
取り乱しました。ごめんなさい♡
六月三十日
やっぱりいない
一か月不登校を経て、今後の相談のため
登校。かなり気温が高くなってきていまし
た。
体育の授業は参加しましたが小体育館は
冷房がなく、授業がバトミントンだったの
で窓は締めきった状態でした。
が、ほとんどの生徒がマスク着用、先生
が呼びかけている場面もありませんでした。
八月八日
第四回面談~留年しちゃうYO編~
そのまま登校することなく夏休み。そし
て夏休みも過ぎるころ、単位についての面
談に呼ばれました。
出席日数の関係上、このまま欠席すると
留年が確定する。と伝えられました。
併せて現状、マスクをしたくない生徒に
関して対応は変わらない。とも。
まだ退学について気持ちが固まってなか
ったこともあり、休学したいことを伝えま
した。
休学については確認するので連絡待ち。
で面談は終わりました。
面談中、教頭と年次主任は、
「人間である前に公務員なので、合ってる
か間違ってるかではなく上が言っているこ
とにしか従えません」
と言っていました。
わざわざ言語化して、きっぱりと伝える
からには本心でそう思っているんでしょう。
“公務員”の鑑です。人はなんのために働
くのか。人間とはなんなのか。考えさせら
れますね。少なくとも私は、堂々とこんな
ことを言える大人にはなりたくないです。
八月九日
“それだけの理由”で片付けられてる
十七歳、誕生日です。
休学は認められませんでした。マスクを
付けたくないという理由だけで休学は認め
られないそうです。
その後議員の方と、記者の方から学校へ
質問状を送ってもらいました。
が、その回答ものらりくらりとした回答
のみでした。
九月七日
学校編終了
留年決定☆
めでたしめでたし。(?)
その後一度も登校せず、翌年の今年三月
二十四日に退学届を提出しました。
〈以下参考〉
2024.9.8 kyouseiさん、当講座記事NO.319から
学級通信「あいこでしょ」の願い
題字 井上碧山さん (北九州市)
絵 本多千鶴子さん(金沢錦丘高校1年)
コロナ真実研究会ブログ(含動画)
市民メデイアこいわし広島制作対談動画
人々のコロナ対応、在り方を問う
谷本誠一さん、釧路マスク強制降機の真相
2023.10.1
谷本誠一さん執筆
小社の見解 マスクはワクチンへの誘導
西日さす富山湾の夕暮れ 右端が立山
撮影 作田幸以智さん 於 氷見灘浦海岸
明治大学校歌当講座記事NO.84、86、115、170、208、218、
225、273、275、294から
夕陽に映える富山湾 ピンクに染まる劔岳 立山連峰
手前は虻ヶ島 2023.3.6 木偶乃坊写楽斎さん撮影
高さ三千メートル級の山々が海越しに見える地は、
世界に三か所しかない。上杉謙信が渇望した景観。
大伴家持はこの地で国守に。菅原道真は越を所望。
1945年9月2日
随員の岡崎勝男終戦連絡中央事務局長官が、
重光葵外相の意を取り付け、リチャード・
サザランド米中将に、4カ国代表の降伏文
書署名の間違いを指摘して、署名のし直し
を求める。サザランド中将が署名欄を訂正。
日本側の態度は立派である。その時の映像。
2025.1.18 竹内緋紗子さん、谷本誠一さん