353. 凄絶壮絶インパール作戦
【2024年7月29日配信】
右手のこだわり
ビルマ従軍当時を省みて
野々市市 看護師 神尾 和子
昭和18年11月3日、日赤第488救護班員23
名中の一人として応召し、昭和21年5月27
日召集解除となってから、既に数十年が経
過している。この間に「ビルマ会」と称し
て、時々の会合は持っていたものの、いつ
しか8名が故人となられた。当時をしのび、
何か記憶をまとめたらと勧められ、この機
会を与えられたことを喜んでみたものの、
復員を目前に、大切にしていた「思い出」
の日記帳や写真等を、軍の機密に触れたら
との危惧により、ドラム缶の風呂の焚きつ
けとして燃やし、乗船証明書類のみをしっ
かりと肌身につけたその日から、戦後の変
異に過去を乗り越え現実に生きること、そ
れで精一杯の日々を送ってきた自分には、
老化した脳裡が何も思い出してはくれない
のだ。
2回目の外地従軍で、「銃後の守りなん
てなまぬるい、再度の御奉公を」と応召し
たけれども、若い繰り上げ卒業生が半数を
越える集まりの中では、婦長の次の年齢と
なり「ババア」と呼ばれた3人の中の一人
となった。「しっかり頑張ってねー」の声
が耳に強く響くのだった。
輸送途上は軍の指揮に従って行動し、緊
急の場面での心配がないことはなかったが、
賑やかな歌声や歓声の中で「また一日が過
ぎ去った」ということが多く、臨機応変に
対処できて、ストレスとなるものは何も残
らなかったと言っても過言ではない状況だ
った。
昭和 19年2月 20日、いよいよビルマ国
ラングーンに到着した頃から空襲に遭い、
防空壕の中から、空中戦や高射砲の射撃を
見た。さらに、戦雲悪化の一途をたどって
いる様子を察知しつつ、目的地メイミョウ
の第 121兵站病院へ到着したのは、同年3
月6日で、翌日からはジャングルの中にあ
る外科分病室に勤務した。
メイミョウの湖面に宿る月影も
故国しのばる励ましの人顔
インパール作戦の敗色が濃くなり、病棟
前の広場に傷兵が、トラックでどさっどさ
っと運ばれてきた。中には大腿骨々折で折
れ端が横に突出し、苦痛を訴える気力もな
い、脱水症状の激しい者も多かった。ミル
クを用意して与えてまわると、一口飲んで
「ありがとう」とにっこり笑って、そのま
ま息が絶えて逝った。ぼろぼろの軍服や毛
布にくるまれている者は、それを除けば素
裸、体のまわりはシラミの群れ、手持ちの
布で縫った褌だけをつけさせて、ベッドに
移す。着替えがないので、ドラム缶で煮沸
してから、洗って乾く間もなく着せるなど
して、急場をしのぐのだった。
竹柱アンペラの外壁テッケ屋根
この病床で傷手をいやせ
帰宿して今日の激務を衣類脱ぎ
成果のシラミつぶしつつ数う
同郷人の某軍曹は臀部貫通銃創だった。
化膿した傷口は拡大し、腹臥位のままで苦
痛に堪えている中に、敗血症となり、治療
の施しようもないままに亡くなられた。
妻の名をよびつつ逝きし傷兵の
手を強く握りくちびる湿らす
こうした日々の看護業務は、衛生材料・
薬剤の補給がつかなくなり、生活必需品、
そして食糧までも次第に困窮してくる。重
症患者の多くに使用する便器、その紙もな
くて、代用に大きな雑草の葉を集めてくる
ことも、日課の一つとなった。傷口の当て
ガーゼも、再生再生で追いつかず、充分に
覆うことができず、膿の臭気に集まった蠅
は産卵し、ウジがわいてくる。栄養になる
のかころころと肥えたそのウジを鑷子(せ
っし)でつまみ、取り去るという「ウジ療
法」も成り行きとして行なわねばならなか
った。
いつ頃か? 内科病棟へ勤務替えになり、
敵機の来襲が激しくなった。病床から防空
壕へ退避させる時間もなく、衰弱した者は
そのまま病棟に残され、責任上、誰かが踏
みとどまらねばならないこともあった。
死ぬ時は一緒だからねと力む我
青ざめた顔看る術もなし
多くのマラリア患者、臀筋注射の後遺症
で化膿した者、坐骨神経麻痺となり突足で
歩行困難な者、肝臓障害者、栄養失調(低
蛋白)症などで、手の施しようもないまま
に、幾多の生命は失われていくのだった。
軽症と思われていた某上等兵は、前線へ復
帰するのを拒み、暗黙のうちに断食をして、
遂に餓死したと知った時は、非常なショッ
クを受けた。
戦局ますます危急を告げる中を、第 124
兵站病院勤務中、大爆撃に遭遇した。非番
で、宿舎より防空壕に入ったが、パチパチ
という音にそっと入口で立ち上がったら、
擬装した天蓋の木が燃えていた。ビックリ
して外へ出れば、あたり一面が火の海と化
していた。やっと宿舎に入れば、部屋の一
角は破壊され、私物もふっとんでいた。勤
務中の班員3名がこの時に負傷したりで、
マラリア発熱中の体も急に忘れたように、
奮起せざるを得なかった。
落ち着く病床もないままに、我々も患者
も後送、転進とめまぐるしい活動状況に突
入した。トラック輸送中の重症患者は水筒
が尿器に、飯盒は便器に使用され、河の水
に流して洗えば、また食器となる等して、
お互いに厳しい現実の中で固く団結し、尊
い生命を維持するために頭脳は回転し、手
足も意のままに働いてくれたものだ。時と
して、若い血汐の燃えることもあったが、
非常時下なるが故によく制御されていたこ
とが、なつかしく思い出される。
いつ、どこで、どうしたか? 鮮明では
ない記憶の中から、戦争による犠牲者のこ
とが重く負ぶさってきて、戦後は看護教員
として自らも学び後輩の育成にも努力して
きたが、それを放棄したくなった時が来た。
民主主義体制下の中で、次第に戦争を知
らない世代になり、自己中心主義、付和雷
同ですべてを解決しようとする態度、そし
て、教育の理論偏重や物質万能の依存的な
状態を見るにつけ、戦時下の厳しすぎた勤
務状況と比較検討しては、考えさせられる
ことが多くなったのも無理からぬことであ
るが、こうしたスキンシップを離れた看護
教育を続けていくことの苦悩に堪えられな
かったと思えるこの頃である。
背負い帰り荷を降ろし見てその重き
再た担うことなきを祈らん
花菖蒲 滑川市 行田公園
2024.6.7 木偶乃坊写楽斎さん撮影
久慈あさみ『ブンガワン・ソロ』同題名映画で歌う
小社発行『北陸の燈』第4号掲載
当講座記事NO.5再掲
〈参考〉
南方派遣のため東京芝の日本赤十字社本社を出発する救護班
1942年2月撮影(2020年12月23日付け毎日新聞から)
福井県に行ったときのことだ。どうしても地
元の市議に尋ねなければならない政治の問題
が生じ、夕方、その市議宅を訪ねた。
市議は運動着を着て、玄関で運動靴の紐を
掛けているところだった。その間、私は自己
紹介をし、用件を一分間で話すから一分間で
いいから応えていただけないかとお願いした。
しかし市議は、「これからママさんバレー
に行かなければならないので時間がない」と
言って、そそくさと車に乗り込んでしまった。
しばらくして私は、市議が向かった地元の
体育館に寄ってみた。市議は、十数人の三、
四十歳くらいの女性たちを相手に、男一人、
老骨に鞭打ち一所懸命トスのボールを上げて
いた。見事な、正確なトスの高さ、方向、角
度、速度である。大松博文を髣髴させるその
技量、迫力に市議の悲壮な決意を感じた。
「平和構築よりバレーボール」、「トスを
上げなければ議員にはなれない」、「票にな
ることしかしないし、できない」。これが今
の政治である。市議は八十歳間際の野党の重
鎮である。後日、選挙結果を見ると、市議は
最下位で当選していた。落選した次点候補者
との票差はわずか数十票。厳しい選挙、あや
うい状況だったのだ。ベテランの政治家は、
「一票の重み」を熟知していたのである。
トスを上げるたびに、市議は一票、二票、
三票と必死に数えていたに違いない。決して
楽しい顔や姿ではなかった。市議は、自身の
政治生命をあの執念のトスに賭けていたのだ。
そして、市議であるかぎり大松監督を演じつ
づけなければならない。一体なんのために。
(当講座編集人)
戦争とスポーツ
なんのためのインパール作戦だったのか
大松博文監督
申裕斌 武士道を超える歩み寄り 2024.8.3 パリ五輪