小説『金澤夜景』(3)
【2021年12月19日配信 NO.214】
小説『金澤夜景』
第二篇 金沢夜景(前回のつづき)
広瀬 心二郎
それからの、無言電話なのである。
「ほうなら、かえって悪いことしてしもた
かな。いらんことして」
早くも目のまわりを赤く染めて伊三さん
が言う。
「なあん。でもやっぱし子どもやなくて、
あたしにはほの字のお客かも。前に勤めて
た店でも、そんなことがあったの。車のラ
イトを消して店の近くでじいっと待ってて、
あたしが店からでると、ライトで足もと照
らすみたいにして、ただそれだけの人やっ
たんやけど。………こんでもどこがいいんか
ねえ、そこそこ寄ってくる男がいて」
「ほうけ」
無理に声を明るくつくって言ってみたが、
やはり子供たちにちがいないと確信してい
る。どちらだろう。娘か、息子か。
それでも有り難かった。無言電話でも通
い合うものは、あるのである。言葉はなく
ても、向かい合っている。向こうも、何か
語りたくてかけてきているのだ。そのうち
に、ひと言聞けるかもしれない。
常連客がひとり、ふたりと顔を見せて、
麻は気持ちを切り替えた。金沢の初冬の食
べ物といえば、ブリである。定番の、大根
との煮付けだが、かなり評判がよかった。
蓮根もこの季節のものだ。煮物も出すが、
麻は蓮根を擦って揚げたりしている。あと
は甘えび、そして犀川と浅野川で捕れるゴ
リ。
常連さんには職人が多い。節くれた自分
の太い指をしみじみ眺めながら、
「うらの指は、んな親指やなあ」
と、馴染みの職人が笑う。するとその連
れの、やはり職人が、
「いつも思うんやけんどなあ、よくまあ、
われみてえな男に、あんなうつくしかあち
ゃんがきたもんやな」
「ほりゃおまん、男には顔よりでんなもん
あっさきな。前に娘にな、かあちゃんの若
いころのほうがおまえよりかきれいやった
っていうたらな、そりゃそうや、とうちゃ
んの血が半分まじっとるんやからって、は
ごむかれてしもうて」
「そりゃ、そのとおりや」
「わしも知らんまに還暦になったわ。ほん
で、ひとつ、やっとわかった」
「なんや」
「わしもろくなもんで、ねかったってこと
や」
「ほれに気なつくがに、わりゃあ六十年も
かかったちゅうことか」
「ほうや」
そんな、腹を抱えるような掛け合いのあ
とに歌が出て、卑猥な話が飛び交い、麻も
負けずに切り返して笑う。笑いながら、ふ
と子供たちを思う。思えば、今のこの暮ら
しが風呂敷でひとまとめにして片づけるよ
うに、ぷいと飛んでしまうような気がする。
そのうちに、ひと悶着あった。店はカウ
ンターに七脚椅子があり、こあがりに卓が
ひとつ置いてある。そのこあがりで月に一、
二度顔を見せる客同士が声を荒らげはじめ
たのである。
「おっ、いさきか、おもしぞ、やれやれ」
カウンターの客が無責任に囃し立てる。
麻が飛んでいく。
「なに、どうしてん」
聞くと、政治の話だという。
「けんかやったら、こんな狭いとこでせん
で、外ではんなりしまっし」
たしなめると、喧嘩ではない、議論だと
いう。
「議論なんなら、おたがいの考え尊重しん
と」
ぴしっと言うと、客は苦笑いを浮かべて、
「おこらってしもたな」
「ああ、ママがいちばんおとろしわ」
舌を出して小さくなっている。
こんなことは、日常茶飯事だ。対応して
いる時に、麻は自分の底にハガネのように
黒光りする強さを見る。どうも自分は強さ
と弱さと両極端を併せもっている、と感じ
る。
ここに店を借りて八年近くなる。色々な
人間が通り過ぎていった。概して男どもは
面倒だった。飲むと気が立つ、助平になる。
話すことといえば、自慢話、賭けごとの話、
そしてなぜか天下国家だ。深酒を続けて体
を壊していった者もいる。馴染みの独り者
がぱたっと顔を見せなくなって、麻と信さ
ん、伊三さんでアパートを訪ねてみると、
血を吐いて亡くなっていたこともあった。
その時ほど、因果な商売に入ったものだと
思い知らされたことはない。
それでも、そこに酒がある。人が人とし
て暮らしはじめた頃にはもう酒があったに
ちがいない。心というものがあるから、そ
の心が生きていくということだけでぽろぽ
ろ傷つくから、酒が必要なのだ。人間とは
そのような生き物なんだと思う。
そんな、哲学的な思いにふけっていると
ころに、入り口の戸が開いて、夫の信さん
が入ってきた。
「マスター、おかえり」
客から声がかかる。信さんは精いっぱい
の愛想笑いを浮かべて応えるが、目が笑わ
ない。それぞれに連れてくる風がある。細
身で猫背、陰鬱に眼鏡を光らせて、信さん
の風はシベリアおろしだ。もっと愛想よく
するように何度か意見してきて、以前より
かなりよくなってもこんなである。
印刷会社に勤めていて、夜はこうして手
伝っているのである。
信さんが厨房に麻を手招きして、ポケッ
トから手紙を出した。差出人を見て、麻は、
「あっ」
と声を出した。富山に置いてきた娘の名
がそこにあった。
(つづく)