216. 小説『金澤夜景』(5)
【2021年12月21日配信 NO.216】
小説『金澤夜景』
第二篇 金沢夜景(前回のつづき)
広瀬 心二郎
狭い台所で美沙も手伝いをしてくれると
いう。エプロンのひもを腰でゆわえる、そ
結びかたがちょっと変だった。蝶結びにな
っていない。箸のもちかたも、ちょっとお
かしい。
そのふたつを、まだ麻が子供の頃のある
日、母親が教えてくれた覚えがある。でも、
今日はまだ、そんなことを押しつけがまし
く言わなくていいと思う。
「美沙は、彼氏とかは、おるがか」
尋ねると、
「うん、おるよ」
美沙の肌が照ったようだった。
「わたしね、もうじき、結婚すんがよ」
「えっ、そいが」
ちょっとまた胸が詰まった。
「その前におかあちゃんのこと、気持ちん
なかで片づけておきたかったんよ。ちょう
どそこに手紙もらったから、もしかしたら
神様ってほんとにおるがやないかって思っ
たが。………そんなに泣かんで。お料理みん
な塩漬けになってしまうっちゃ」
麻の鼻の下が真っ赤になっている。
「ちょっと、悔しいがぜ。あたしがおらん
でも、美沙がこんなにいい子に育ってくれ
て」
「なん。わたしってそんないい子じゃない
がよ。前は、ぐれてた。ヤンキー」
「ええっ、美沙がヤンキーね」
「金髪でぶりぶりいわせとったが。へへ。
わたしすごく荒れとったんよ。なんに荒れ
とるがかもようわからんとね。そのころな
ら、おかあちゃんの手紙、すぐに破って捨
てとったかもしれん」
「ああ。………きっと彼氏がいい人なんや」
「うん。………こうやって、ほら」
美沙はコップに水道の水を満たして、
「こうやってね、コップがいっぱいになる
とね、水が自然にあふれてくるやろ。こん
なぐあいかなあ、なんてときどき思ってね。
自分でいうんもちょっと恥ずかしけど、み
んなが、わたしが変わった、変わった、や
さしくなったっていうから、気持ちが満た
されて人にもやさしくできるよになったが
かなとか思って」
料理ができて、信さんと三人で卓を囲ん
だ。座った信さんが、
「あっ、美沙ちゃんは、たばこは」
「ああ、吸いませんけど。なん、つかえん
ちゃ」
「ああ」
信さんは煙草に伸ばした手をまごまごと
引っ込める。
「吸ってもいいがよ」
麻が口をはさむと、
「いや、いい。ビールはどうかね」
信さんは緊張した時の、それが癖で、す
こし言葉がつかえている。
「ああ、いただきます」
風呂からあがった信さんが、気をきかせ
て隣りの部屋で寝るという。ふたりきりに
なると、美沙が小机の上に立ててある写真
を見て、
「あれ、このすてきな人は」
「ああ、あたしの友だちで、こっちにくる
時に世話になったんや。この人がおらなん
だら、おかあちゃん、いくとこなかった」
水商売のイロハから教えてくれた町子と
いうその人は肝臓をやられて三年前に亡く
なっていた。中学で同級だった。店に出る
前に必ず手を合わせている。
「おかあちゃん、おじさんて、だいぶ繊細
なが」
「信さんやろ。本人はこわれものやってい
うとる。神経が、こわれたがやて。昔にね、
若いころなんかあったらしい。七十年の安
保って、学生運動の盛んなころがあったや
ろ。そのころに大阪のほうの大学にいって
たがやけど、運動のなかで、心がこわれて
しもよなことがね」
「そうなん。でも、いい人やね」
「ずっと苦しんどった人が育ててきた心の
深さっていうもんはあるさけね」
信さんは、ほとんど昔のことを話さない。
留置場だか拘置所だか刑務所だか、そのど
れかに入っていたことがあるらしい。その
区別が麻にはつかなかった。よほど悩んだ
日々だったのだろうか。天下国家を考え、
人間を考え、ぼろぼろになったらしい。
それで、自分の過去も合わせてみて、人
間がほんとうにものを考えるとは、実は体
を痛めるほどのことなのだと麻は思う。
「ねえ、おかあちゃん、おとうちゃんに殴
られたりしたこと、あったがやない」
「………うん」
前夫のことは、夫婦ふたりのあいだであ
ったことは誰にも話したことがない。おそ
らく話しても世間にはわからない。夫婦と
はそういうものだ。そして話さない、ひと
言も口にしないことが麻の意地であり、誇
りでもあった。しかし、娘に今はすこしだ
けなら愚痴めいたことを聞かせてもいいの
ではないかと思って、
「たたかれて鼻の骨が曲がって、いまでも
よく鼻がつまることあるが」
「ほんとなが。………お酒やろ」
「うん。気が弱い人やったから、お酒を飲
むと変わってしもが。それに、おかあちゃ
んのこと、つれというより、母親みたいが
に思とったがやないかね。甘えて、ぐずっ
て、気にいらんことあっと、あばれて」
悲しい目をして荒れていた。麻を殴る時
だ。夫婦としてそばにいても、お互いの心
の遠さに絶望しているような、あるいは荒
れ狂う自身の心に絶望しているような目だ
った、と今になれば思える。
「それに、ちょうど美沙を身ごもった時に、
浮気なんかしてね。男には、結局わからん
がよ。女が子どもを産んあの痛さも」
「だらやったんやね。そんなとこやないか、
思とったんやわ。おとうちゃん、いまは、
お酒飲まれんちゃ」
「あれ、そいがか」
「それでおかあちゃん泣かせてしもたって
自分でもいうとる。いつも、おかあちゃん
はとってもきれいな人やったって。ただ、
相性とか反りがあわなんだとか、そんなん
でいっしょに暮らせんがになったって」
あの人が、そんなことを子供たちに。ま
さか。あの酒乱のろくでなしの夫がそんな
気のきいたことを口にしていたなんて。長
い年月の憂いが、美沙のその言葉で一気に
溶けていくような気がして、胸の中で、手
を合わせている。
「賢一は、美沙がきょうここにこられるが
知っとるん」
「うん。電話で知らせておいたけんどね。
にえきらん感じやった。男の子はね、また
母親への思いがちごがやろか」
「そんながやないかね、うん。賢一、トラ
ックに乗っとるが」
「長距離やわ。デコレーションのぎらぎら
したトラックやいうとった」
美沙はふと、窓のほうを見やって、
「街の灯がきれいやね。よくこうやって神
通川に映る夜の景色をながめてね、おかあ
ちゃんどうしとるんかなって思とった。お
んなじふうに夜の景色見とっても、子ども
のころとぐれてるころと最近と、気持ちに
残るもんがちがうんや」
ふたりして窓辺に寄って、あのあたりが
香林坊、主計町、などと金沢の街の灯のま
たたきをしばらく眺めていた。子供たちの
ことを思って麻がこの街の灯を見詰めてい
る時に、ずっと向こうの富山の街でも、幼
い美沙が窓に顔を当てるようにしてこちら
を眺めていたのだ。その姿が麻の瞼に浮か
んでくる。
「なんか、美沙、きょう、眠れそうもない
っちゃ」
布団に入って美沙はそう言っていたが、
そう言ってどれほどの時間も経たないのに
静かになったと思ったら、もう健やかな寝
息を立てていた。
「よかったな。ほりゃ。よかった」
伊三さんが手放しで喜んでくれた。その
脇で、信さんがしんねりむっつり飲んでい
る。
美沙は麻が大事にしていた加賀象嵌のブ
ローチをもって帰っていった。結婚式に胸
に飾るから、と言っていた。
「だいぶ、しみてきたな」
「こりゃ、たんと舞うかもしらん」
昨日とはうって変わって底冷えのする夜
になった。
その時電話が鳴り、麻が手に取ると、相
手は何も言わないでいる。賢一、と言葉が
出かかる。呼べない。かちゃり、とそのま
ま切れてしまう。心持ちその音が今日は柔
らかになった気がする。カウンターのふた
りの視線が麻の手もとに来ている。
なにごとにも、どんな人の営みにも、そ
れなりの訳はあるのだ。せめてそれだけは
わかってほしい。麻は、そう、受話器に向
かってつぶやいている。
(了)
撮影:作田 幸以智さん
(当講座記事NO.104、174から)
〈参考〉
広瀬心二郎さんの詩が、当講座記事の
NO.10にあります。また、エッセイが
NO.60、92、102、122にあります。
作田さん撮影の写真が、当講座記事の
NO.172-174とNO.104、NO.176、NO.
184、208、222にもあります。
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