湯の人
【2021年2月25日配信 NO.137】
老人と竜
加藤 蒼汰
冬の寒い日の夕方、私は友人との待ち合わ
せに銭湯を選んだ。吹雪のためか入浴者は私
と友人の二人だけだった。風呂から上がり脱
衣場で服を着ていると、百八十センチを超え
ると思われる大柄な老人がひとり浴室へ入っ
ていった。一、二分してまたひとり、背中に
青光りする見事な竜を彫った若者も入ってい
った。
着替えを終えて私と友人が帰ろうとしたや
さき、「人が!!……、人が!!……」とその若者が、
血の気のひいた真っ青な顔で、わめき震えて
浴室から飛び出してきた。私が「どうしたん
や」と聞くと、「人が浮いとる」と答えた。
浴室に行ってみると先ほどの老人が、うつ
伏せになって浴槽に浮いていた。私は裸の若
者に「あんたが引き上げて」と言うと、「お、
おとろして、ほ、ほんなことできん」と答え
た。私も恐ろしかったのである。足は竦み上
がっていた。それでも私は冷静さを装い、思
わず「背中の竜が泣いとるぞっ !!」と大声で
若者を怒鳴りつけてしまった。
怒鳴り声がきいたのか、竜の若者は正気を
取りもどし、意を決して浴槽に入っていき、
自らの両手で、老人の右手を自らの肩にかけ、
相撲や柔道の一本背負いの形で、その巨体を
必死に持ち上げ、そのまま浴槽をまたぎ、タ
イルの上に老人を仰向けにそっと寝かせた。
風呂場の怪力と俠気(おとこぎ)、赤心を示
した若者は、顔も全身も真っ赤に染まり、そ
の形相と姿は赤竜のごとく見えた。
友人が銭湯の主人を呼びに行き、主人のお
かみさんが救急車を呼び、主人は救急隊員が
かけつけるまで心臓マッサージを続けた。救
急車は十分足らずで来た。
青竜から赤竜になった若赤龍は、一息入れ
たあと、風呂には入らずに着替えし、私に頭
を下げ帰っていった。私も同時に頭を下げて
「ごくろうさま」と声をかけた。
老人は銭湯の近所の人だった。救急隊員の
必死の介抱もむなしく亡くなった。この間、
銭湯のおかみさんが火急の出来事を老人の家
に伝えに行くと、息子夫婦がかけつけてきた。
介抱中、息子夫婦が父のそばに寄り添って、
「とうちゃん!!」とか「おとうさん!!」と耳許
で呼びかけるものとばかり私は思っていたが、
ふたりは救急隊員の後方から遠目に父を覗き
込むだけだった。
「もうだめやな」、「ほうやね」。これが息
子夫婦の会話だった。単純で短気な私は、あ
の竜の若者にしたように、このふたりにもま
た、「そんな最期の別れ方があるか!! 」と、
もう少しで怒鳴りつけるところだった。
銭湯の主人からあとで聞いて分かったこと
だが、老人は九十歳で、がん治療で入院して
いて一時的な帰宅を許され、すぐに銭湯へ来
たという。あのわずかな時間であんなに簡単
に一生を終えることができるものだろうか。
浴槽の深さは膝小僧くらいである。寒かった
からだろうか。自分で自分のからだを洗って
亡くなったのだろうか。
でも、いろいろよく考えてみると、あんな
死に方も悪くはないなと思うこの頃である。
若赤龍とは、あの時が初めての邂逅だった。
その後一度も出逢っていない。ひょっとして
背中の青竜を浴びせ倒し送り出し、高砂部屋
にでも入門したのだろうか。
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