飴の民俗(2)
【2021年3月6日配信 NO.143】
前田 佐智子
二. 飴の用途
飴はどのように用いられているかといえば、
金沢という一地域からだけでも、煉り薬、ご
り、くるみの飴だき、和菓子の求肥、洲浜、
酒の味付け、焼きざかなのたれ、料理の中に
と、利用範囲はかなり広い。飴そのものをな
めるというより調味料として、また製品の媒
剤として利用されている場合のほうが多く、
金沢の小橋町の俵屋、割出町の下田製飴所で
は、製品というより原料としての飴を製造し、
卸しをしているという意識のほうが強い。
二軒とも取引の範囲は広く、関東・信越・
関西に及んでおり、各家庭で飴の桶を用意し
必要な量の飴を竹の皮に包んでもらって買っ
ていた当時よりも現在のほうが需要が多いと
いわれている。食生活の変化と向上によって、
われわれの台所から姿を消してしまった飴が、
思いがけないところで姿をかえて存在してい
るのである。
三. 年中行事と飴
正月の飴
金沢では、白い棒飴である。
岩手県上閉伊郡土淵村では、正月十一日に、
飴で餅を食べないと地獄に落ちて舌を抜かれ
るといって、棒飴か水飴を必ず食べるという。
雛菓子・有平糖
雛菓子というと金沢では、金華糖がすぐに
あげられるが、古くから有平糖(アルヘイと
う)も雛菓子の中に加えられている。現在で
は、大きい菓子屋でつくり売られているが、
金沢市野町の沢野良知さんのところでは毎年、
雛菓子用にと有平糖で、金華糖と同じように
鯛・野菜・花などをつくる。
沢野さんは明治四十一年生まれで、大正十
二年から昭和十二年まで石川屋で菓子職人と
してつとめ、石川屋弥一郎さんがつれてきた
京都の菓子職人から有平糖の技術を習った。
沢野さんの話によると、金沢にも、ずっと昔
から有平糖はあったようだが、他所からのも
のか、金沢でつくられたものかわからない。
何故なら昔の職人は、人に見られないように
屏風をたてて仕事をしていたからだという。
そして、その製品の形は今よりずっと単純な
ものだった。
金華糖が砂糖菓子で木型に入れて固めたも
のであるのに対して、有平糖は、太白を晒し
た上等の砂糖に水を入れて煮つめその二割ほ
どの分量の飴(粟飴、または餅米でつくった
飴)を入れる。そして、それを器のまま冷水
のはいった盥(たらい)の中に浮かべ、ゆっ
くりまわしながら冷やす。手頃な温度で着色
し、適当な大きさに切ると、それを助炭の中
へ入れる。あとは、しん粉細工と同じように、
ひとつずつ伸ばしたり、丸くしたり、花びら
の形や葉の形にして組み合わせ、まとまった
ものにしてゆくのである。
有平糖のほうが、金華糖の雛菓子よりも艶
があり、形もより写実的である。それは、原
料に上等な砂糖と飴がつかわれていること、
また、花をつくるとき、花びら、蕊萼など別
々につくり、それを組み合わせていくという
上生菓子と同じ細かい指の先の仕事である。
有平糖は、ポルトガル語の Aefeloa を語源と
する南蛮菓子である。
「有平糖」は元禄時代頃から、型にとって
固めた「べっこう飴」とともに、江戸の町民
の間ではやり今に至っているが、ヨーロッパ
にもこのような「あめ細工」が存在している。
日本のほうは大道芸人的な手腕の良さが追求
されているのに対して(現在では、茶席にも
用いられるようになったが)、ヨーロッパで
は、ウィンドウ・ディスプレイや各種の飾り
菓子などになくてはならない芸術性の高いも
のとなっている。
飴形節供
鹿児島県甑(こしき)島で四月八日を飴形
節供という。この日、だれもが飴を食べると
いう。そして寺でもらった灌仏会の甘茶で虫
除けの呪いの文字を書く。
金沢では、飴のほうの行事はないが、やは
り虫除けという意味で、甘茶で「茶」の字を
書いて台所、便所などに貼る。
氷室の飴
六月一日、金沢を中心にして、加賀の饅頭
屋の店先に、皮にうすい色をつけた餡(あん)
入りの「氷室饅頭」が並べられ売り出される。
昔は、塩味のつぶし餡入りの麦饅頭で、饅頭
の両側に包丁で切れ目を入れ、白砂糖をはさ
んで食べた。その他に、煎り米や杏を食べた
り、家ごとに色々な料理をつくった。
能登では、この日、歯固めの祝として、米
や大豆を煎りこれを食べるが、金沢では、煎
った米や大豆を熱した飴の中に入れ、杓子で
とりわけて固めたものを食べる習慣があって、
これを「氷室の飴」といった。
夏越の飴
六月の晦日(みそか)には、諸社で「夏越
の大祓」が行われる。白山比咩神社(しらや
まひめじんじゃ)では、参詣人に「麻の切草」
と「人形(ひとがた)」が渡される。参詣人
は、「麻の切草」を体にふりかけ「人形」で
体をぬぐう。その「人形」は、神職が茅で編
んでつくった船に集められ、祝詞があげられ
る。この茅の船はあとで手取川に流される。
祝詞のあと、青い茅でつくった輪をくぐる
「茅の輪くぐり」となる。神職を先頭に、巫
女、一般参詣人という順序で、古歌「水無月
の夏越の祓ひする人は千歳の命延ぶといふな
り」を唱しながら、三度くぐるのである。
神職の話によると、青い茅の生気にふれる
と体が丈夫になり、一年間病気をしないです
ごすことができるというのだが、『備前風土
記』によると、昔、素盞鳴尊が南海の神の娘
のところへよばいにゆかれ、日が暮れたので、
金持ちの巨旦蒋来(こたんしょうらい)の家
に宿を借りようとされたが断られ、巨旦の兄
の貧しい蘇民蒋来(そみんしょうらい)の家
で歓待された。素盞鳴尊は後年、八柱の御子
神をひきいて再び蘇民を訪問され、蘇民を賞
し、巨旦の一家を殺してしまわれた。その時、
蘇民一家に与えられたのが「茅の輪」で、こ
れを腰に付けていたため、一家は巨旦の全滅
にあたっても、まったく害を受けることがな
かったとあるが、これに由来するといわれて
いる。
「茅の輪くぐり」がおわると、神職が祭壇
から飴のはいっている三方をおろし、「ただ
いまから、夏越の飴をお渡しいたします」と
いいながら、参詣人に「飴玉」を二個ずつ配
るのである。
印鑰神社の飴の祭
石川県七尾市の印鑰(いんにゃく)神社の
七月十四日の納涼祭には、飴屋の露店が多く
でることから、「アメノマツリ」・「アメマ
ツリ」というのである。今は一軒だけ、地元
の飴屋が祭のときだけ飴を煮て売っていると
いうことである。
鶴来町の飴なめ
七月十七日は「十七夜」ともいって、白飴
を買ってきて食べるのである。これは、昔、
鶴来町の安久濤淵(あくどがぶち)で、飴売
りの行商人が野武士の試斬りに遭ったことに、
人々が同情しその妻の飴を全部買ってやった
という伝承にもとづくものである。このとき
の飴は、赤飴をたぐって空気をまぜて白くし
たものである。
金沢の祭の飴・つけ飴
祭には種々の露店がでるが、その中でどこ
の祭にでもきているというのが「飴売り」で
ある。べっこう飴・棒あめ・あめ玉・氷飴・
つけ飴などがある。
「つけ飴」は、以前、金沢の野町広小路の
神明宮のお祭に「つけ飴」をだしていた金沢
市芳斉町の北一商店の山本三郎さんは、大阪
で飴つくりの修行をしてきた人だが、これは
金沢独特のもので他県にはなかったといわれ
た。
「つけ飴」は、割箸に丸く飴をつけたもの
であって、赤飴と黄粉をまぜた飴との二種類
がある。以前は、割箸ではなくて、麻の茎に
飴をつけて売っていたので、「麻アメ」とも
称していた。
最近は、原料高によって、米飴から澱粉飴
がつかわれるようになってきたが、固まらず
すぐ流れてしまうので、今までのような「つ
け飴」はできず、氷の上で割箸に飴をつけ、
缶詰のみかんを一袋ずつ飴でくるんで、「氷
飴」「みかん飴」として売られている。