ビルマ従軍当時を省みて
【2020年7月9日配信 NO.5】
石川県野々市市 神尾 和子
昭和18年11月3日、日赤第488救護
班員23名中の一人として応召し、昭和21
年5月27日召集解除となってから、既に数
十年が経過している。この間に「ビルマ会」
と称して、時々の会合は持っていたものの、
いつしか8名が故人となられた。当時をしの
び、何か記憶をまとめたらと勧められ、この
機会を与えられたことを喜んでみたものの、
復員を目前に、大切にしていた「思い出」の
日記帳や写真等を、軍の機密に触れたらとの
危惧により、ドラム缶の風呂の焚きつけとし
て燃やし、乗船証明書類のみをしっかりと肌
身につけたその日から、戦後の変異に過去を
乗り越え現実に生きること、それで精一杯の
日々を送ってきた自分には、老化した脳裡が
何も思い出してはくれないのだ。
2回目の外地従軍で、「銃後の守りなんて
なまぬるい、再度の御奉公を」と応召したけ
れども、若い繰り上げ卒業生が半数を越える
集まりの中では、婦長の次の年齢となり「バ
バア」と呼ばれた3人の中の一人となった。
「しっかり頑張ってねー」の声が耳に強く響
くのだった。
輸送途上は軍の指揮に従って行動し、緊急
の場面での心配がないことはなかったが、賑
やかな歌声や歓声の中で「また一日が過ぎ去
った」ということが多く、臨機応変に対処で
きて、ストレスとなるものは何も残らなかっ
たと言っても過言ではない状況だった。
昭和19年2月20日、いよいよビルマ国
ラングーンに到着した頃から空襲に遭い、防
空壕の中から、空中戦や高射砲の射撃を見た。
さらに、戦雲悪化の一途をたどっている様子
を察知しつつ、目的地メイミョウの第121
兵站病院へ到着したのは、同年3月6日で、
翌日からはジャングルの中にある外科分病室
に勤務した。
メイミョウの湖面に宿る月影も故国しのばる励ましの人顔
インパール作戦の敗色が濃くなり、病棟前
の広場に傷兵が、トラックでどさっどさっと
運ばれてきた。中には大腿骨々折で折れ端が
横に突出し、苦痛を訴える気力もない、脱水
症状の激しい者も多かった。ミルクを用意し
て与えてまわると、一口飲んで「ありがとう」
とにっこり笑って、そのまま息が絶えて逝っ
た。ぼろぼろの軍服や毛布にくるまれている
者は、それを除けば素裸、体のまわりはシラ
ミの群れ、手持ちの布で縫った褌だけをつけ
させて、ベッドに移す。着替えがないので、
ドラム缶で煮沸してから、洗って乾く間もな
く着せるなどして、急場をしのぐのだった。
竹柱アンペラの外壁テッケ屋根この病床で傷手をいやせ
帰宿して今日の激務を衣類脱ぎ成果のシラミつぶしつつ数う
同郷人の某軍曹は臀部貫通銃創だった。化
膿した傷口は拡大し、腹臥位のままで苦痛に
堪えている中に、敗血症となり、治療の施し
ようもないままに亡くなられた。
妻の名をよびつつ逝きし傷兵の手を強く握りくちびる湿らす
こうした日々の看護業務は、衛生材料・薬
剤の補給がつかなくなり、生活必需品、そし
て食糧までも次第に困窮してくる。重症患者
の多くに使用する便器、その紙もなくて、代
用に大きな雑草の葉を集めてくることも、日
課の一つとなった。傷口の当てガーゼも、再
生再生で追いつかず、充分に覆うことができ
ず、膿の臭気に集まった蠅は産卵し、ウジが
わいてくる。栄養になるのか、ころころと肥
えたそのウジを鑷子(せっし)でつまみ、
取り去るという「ウジ療法」も成り行きとし
て行なわねばならなかった。
いつ頃か? 内科病棟へ勤務替えになり、
敵機の来襲が激しくなった。病床から防空壕
へ退避させる時間もなく、衰弱した者はその
まま病棟に残され、責任上、誰かが踏みとど
まらねばならないこともあった。
死ぬ時は一緒だからねと力む我青ざめた顔看る術もなし
多くのマラリア患者、臀筋注射の後遺症で
化膿した者、坐骨神経麻痺となり突足で歩行
困難な者、肝臓障害者、栄養失調(低蛋白)
症などで、手の施しようもないままに、幾多
の生命は失われていくのだった。軽症と思わ
れていた某上等兵は、前線へ復帰するのを拒
み、暗黙のうちに断食をして、遂に餓死した
と知った時は、非常なショックを受けた。
戦局ますます危急を告げる中を、第124
兵站病院勤務中、大爆撃に遭遇した。非番で、
宿舎より防空壕に入ったが、パチパチという
音にそっと入口で立ち上がったら、擬装した
天蓋の木が燃えていた。ビックリして外へ出
れば、あたり一面が火の海と化していた。や
っと宿舎に入れば、部屋の一角は破壊され、
私物もふっとんでいた。勤務中の班員3名が
この時に負傷したりで、マラリア発熱中の体
も急に忘れたように、奮起せざるを得なかっ
た。
落ち着く病床もないままに、我々も患者も
後送、転進とめまぐるしい活動状況に突入し
た。トラック輸送中の重症患者は水筒が尿器
に、飯盒は便器に使用され、河の水に流して
洗えば、また食器となる等して、お互いに厳
しい現実の中で固く団結し、尊い生命を維持
するために頭脳は回転し、手足も意のままに
働いてくれたものだ。時として、若い血汐の
燃えることもあったが、非常時下なるが故に
よく制御されていたことが、なつかしく思い
出される。
いつ、どこで、どうしたか? 鮮明ではな
い記憶の中から、戦争による犠牲者のことが
重く負ぶさってきて、戦後は看護教員として
自らも学び後輩の育成にも努力してきたが、
それを放棄したくなった時が来た。
民主主義体制下の中で、次第に戦争を知ら
ない世代になり、自己中心主義、付和雷同で
すべてを解決しようとする態度、そして、教
育の理論偏重や物質万能の依存的な状態を見
るにつけ、戦時下の厳しすぎた勤務状況と比
較検討しては、考えさせられることが多くな
ったのも無理からぬことであるが、こうした
スキンシップを離れた看護教育を続けていく
ことの苦悩に堪えられなかったと思えるこの
頃である。
背負い帰り荷を降ろし見てその重き
再た担うことなきを祈らん
1942年2月撮影(2020年12月23日付け毎日新聞から)
小社発行・『北陸の燈』第4号掲載